23 置き土産 (後編)
「おっかねぇ顔したモデルみたいな女と永田姐さんに怒らて、アイツと話しに行った。授業サボって屋上で謝って……。アイツは、謝らないでの一点張り。そのあとアイツの口から出た言葉がさ」
富樫は言葉を切った。
個人的なやり取りを第三者に話して良いものか逡巡しているようだった。
それについて話す必要はないと言おうとしたのと同時に富樫が肩を竦めた。
「ああいう場面で傷つかなかった自分に動揺して気がついたら逃げ出してた、ってアイツそう言ったんだ。謝らなければならないのは私の方だって」
ああ、思い出した。
富樫が去った屋上に、ガクちゃんと上がって行った時。屋上で物想いに暮れていた彼女の呟いた独り言。
“何でき…かなかったのかな”
部分的によく聞き取れなかったが、“気づかなかった”とも“傷つかなかった”とも聞こえたあの言葉は“傷つかなかった”だったのだ。
「決定的にフられた瞬間だよな。自爆したなって後悔したよ。なのにアイツ、ひたすら謝りながらこう言ったんだよ。ちゃんと好きになるように努力するから、って」
努力って何なんだよ、と富樫は苦笑いした。
僕にも平岡さんの意図するものが分からなかった。
「俺はアイツの彼氏にはなれたけど好きな男にはなれなかったんだよ。厄介なことにアイツ自身は恋愛してると思ってる。たぶん恋愛経験ないんだろうな。どんだけオクテなんだっつーの。一歩間違えば時代錯誤のカマトトだろ。到底釣り合わない高嶺の花だって分かってたけど、好きなつもりになられてたって、すげぇショックだぜ? マジでガン萎え。孤独な気分になった。そっからは劣等感と八つ当たりのスパイラル。暴力振るってないだけで、親父が母親にしてた事と変わらないって気がついた」
それは違う、そう喉元まで出掛かって、夏休みの登校日の噂が脳裏に突き刺さった。
“暴力振るってないだけで、親父が母親にしてたのと変わらない”こと。
………。
「まぁとにかく、今思えば勝手に寄って来られて勝手に孤独を感じて去られる側は俺以上に孤独だったと思う。表に出さないだけで、おそらくアイツはアイツで色んなものを抱えてる。本当は俺に言いたいことだってあったと思う。あんなに笑ったり驚いたり忙しいくせに、一度も感情的にならないなんて、そんなの変だろ。先輩からも俺からも6組の女たちからも理不尽なことばっかり言われて涼しい顔してるなんてさ。味気ないくらいに出来すぎだろ」
そう言って笑った富樫の顔は、まるで憑き物が落ちたかのような1年の頃に見た愛嬌のある笑顔だった。
どちらも嫌いになって別れたわけでもないのに、あんなに仲が良かった二人が、別れた後に自然な顔で笑っていることに不思議な気持ちになる。
富樫の家庭が決定的に崩壊したのは一年前。それ以前からお父さんの問題はあったにしても、富樫自身は少なくとも学校の中でだけはバックグラウンドに左右されない学校生活───富樫の青春を謳歌したかったのだろう。
けれど、お母さんが家を出たことで富樫の抱える事態は変わった。そのことが富樫に及ぼした影響は大きかった。
家での生活を維持し、放課後の時間を削って生活費を捻出し、並行して学校生活を送らなければならない。
現状や将来のことを考えて精神的にも体力的にも追い込まれていただろう。
そんな状態で学校生活を謳歌できる気持ちのゆとりが残っていたとは思えない。
富樫は平岡さんにそのことを言わなかった。言っていたら何かが違っていたかもしれない。
だけど富樫はそうしなかった。
“憐れまれたくない”
そのプライドだけが壊れかけた富樫を支えているのかもしれない。
「悪かったな。愚痴聞かせて嫌な気分にさせたよな」
そんなことはない。僕は膝の上で手のひらを握り締めて首を横に振った。
「嫌な気分ではないよ。ただちょっと僕には難しい内容だったけど」
素直な気持ちを告げると、富樫は一瞬目を丸くしてそれから思い切り笑った。
少し離れた所で野球をして遊んでいた1年たちが振り返るくらい。
「ま、そりゃそうだよな。畠中ちゃんには色んな意味でハードだよな。色んな意味で」
ああ、この言い方には厳しい家庭環境のことだけでなく、恋愛項目も含まれてるよな。
富樫から見たら僕なんて恋愛のレの字も掠らないヒヨッコだろうから。否定できないけどね。でも、恋愛に無縁とはいえ、冷やかされるほどヒヨッコではない。しつこいようだけど僕だって兄さんのパソコンでエロくらい───
「本当は柳瀬あたりにアイツのフォローを頼みたかったけど……。関係ない奴らが干渉してアイツも大変だろうし。でも俺自身が既に関係ないから頼めた義理じゃないんだよ。だからさ、畠中ちゃんと東堂がアイツのこと気にかけてくれてたら助かる。おまえら仲良いだろ、アイツと」
「僕はそんなでもないよ」
「よく言うよ。“2組の畠中くんが好きですぅ〜”って言われたんだろ? アイツに。すげー噂だったもんな」
「そっそれはっっ! ち、ちが…すすすすす好きとか」
「ジョークだってば。2組の中なら、だろ? まあ、どっちにしろ名前出されたんだから、アイツにとって信頼できる一人っつーことだろ。謙遜だか何だか知らないけど、そんなに全力で否定してやるなよ」
ジョークと言うわりには、からかいに棘を感じるのは何故でしょう。しかも平岡さんは僕のことを“好き”なんて一言も言ってないから。
「浜島や永田姐さんはフォロー向きじゃないんだよ。良い奴らだけどさ。ま、あと柳瀬あたりを巻き込んで適当にフォロー頼むわ。柳瀬なら頼む必要もないだろうけどな」
なんだかんだ言っても、ガクちゃんや僕なんかより、彼女の一番身近なポジションにいるのは柳瀬だと思う。
柳瀬の距離感の保ち方は絶妙だ。
平岡さんが富樫と付き合っていた頃から、共通の友人でありながら彼氏側寄りの友人である立ち位置に徹し、用事がない限り柳瀬の方から彼女に声を掛けたり二人きりで行動することはなかった。富樫が平岡さんと出会う十年も前からの知り合いなのに。
図書室で永田さんや平岡さんと三人で勉強してしていた時も、三人の時は談笑し、永田さんが席を外すとごく自然な振る舞いでノートにペンを走らせる。
向かい合った席で特に言葉を交わすわけでもなく勉強する二人の姿は、絵になるくらい心が寄り添っているように見えた。
富樫と平岡さんが別れただろう修学旅行の後の柳瀬も態度はほぼ変わらない。
おそらく柳瀬は二人が別れたことに勘付いていたと思う。
前と少し変わったところがあるとしたら、平岡さんに部活の用事を頼むことが多くなったくらいだ。
代替わりして、平岡さんが部長、柳瀬が副部長になり、しかも文化祭のこともあって連絡事項が多くなっていたのもあると思う。
だけど、いつもののんびりとした感じとは違い少しきびきび伝達する様子は平岡さんに檄を入れているようにも見えた。
「とにかく任せた。アイツ、人に頼るの下手で何でも一人で抱え込むトコあるから、頼って来たりはしないだろうけど、頼れる存在があるってことだけで気持ちが救われる時もあると思うからさ」
「富樫じゃダメなの? 色々気づいた上でもう一度やり直せないの?」
高校生の力では変えることができない難しい現状を背負っていても、そばにいてくれるだけで気持ちが救われるような存在が、富樫には…。
「ホントいい奴だな、畠中ちゃんは」
「僕のことはどうでもいい、富樫の話しをしてるんだ」
まだ彼女のこと好きなようにしか見えないんだよ。なのにどうして無理して笑うんだよ。一人で抱え込んで、一人で決着つけて。
「残念ながら、常に状況が俺のキャパを上回ってますんで。俺だってこう見えて、フツーの十七歳のヒヨッコなんだよ」
「……ごめん」
「謝んなよ。畠中ちゃんが言うみたいに、そうだったら良かったのにな」
逆に慰められた形になって凹む。
「アイツと付き合えるなら、絶対大事にしようって思ってたのに。俺、自分ばっかり好きなの格好悪いとか、なに贅沢言ってたんだろうな。きっと、浜島も柳瀬もあいつのこと好きだったと思う。もしかしたら俺なんかより」
体を起こし、今度は背中を丸め真っ黒い硬質な髪をクシャクシャと掻き乱して、富樫は大きな溜め息をついた。
直後に立ち上がると体を回転させて僕の正面に立った。
「さあて、すっかり体も冷えたことだし教室に戻りますか」
僕もベンチから腰を上げ、膝裏を軽く伸ばす。
「俺が頼んでたとか他の奴に言わなくていいから、言うとか波風立つしな。それに俺」
言葉を切った富樫が不意に僕の手から飲み終わったジュースの紙パックを取り上げて網状の白いゴミ箱に放り投げた。
綺麗にシュートが決まったそれをぼんやり見ていると、ゆっくり歩き出した富樫はこう言った。
「アイツの大事なもん奪っちゃったから」
それ以上のことは言わなかったけど、できることなら聞きたくない言葉だった。
普通、言います?
そういうこと、言っちゃいます?
ダメでしょう、やっぱり。
僕が天使だとか相変わらず思ってるの? 僕だってエロくらい、エロくらい………。
ああもう、こんな時にエロとかタイムリー過ぎて胸が痛い。
富樫は僕の方を振り返ることもなく「じゃあな」とだけ言い残して後半クラス方面の階段へと歩いて行ってしまった。
僕はというと、五個買ったうちのパンの三個を未開封の状態で手の中に抱えて茫然と立ち尽くしていた。
富樫が寄越した、すっかり冷えた缶コーヒーを左手に握ったまま。
やれやれ学校の自販の缶コーヒー、不味いんだよ。
僕はコーヒーの不味さへの不満で頭の中を無理難題満たした。
そうでもしないと缶コーヒー以外の富樫の置き土産があまりにも苦くて不味すぎた。




