19 百万カラット
プラネタリウム映写機の作動確認を終えて各々が別の場所へ散って行ったが、手が空いた女子チームが教室の片付けを手伝ってくれるかといったら、そんなことはない。東高なので。
むしろその方がありがたい。女子複数に男子一人は居心地が悪すぎる。
まして映写機の作動確認というワンクッションを置いたとしても、その寸前まで壁一枚向こうから言われ放題だったわけで、素知らぬ顔で彼女たちと掃除をするなど拷問以外の何物でもない。知っていると明かせば拷問にならないかといったら、もちろんそういう問題ではない。
隣の教室から再燃し始めた笑い声が響く。向いてしまいそうな意識を慌てて散らす。意識を散らすことに集中力を使うなんて初めての経験だ。
しかしやっぱりうまくいかない。聴こえてくるものをいくら聴かないように努力しても聴こえてしまうのだ。
この際、何か少し音を立ててみようか。隣に聴こえそうな物音を。例えば咳払いとか。いやそれはちょっとわざとらし過ぎて、今まで全部聴こえていたと白状しているようなものだ。
そうだ、ここは純粋に物に頼ろう。壁を隔てた所から物音が聴こえれば、自分たちの声も筒抜けだと気づくに違いない。そうすれば彼女たちだって、周りに聴かれないようにと注意を払うだろう。
ガタン。
思い切って机と机を当ててみた。よし、充分に響いてる!
これは確実に効果あったはず───
「あはは、ユオ、それ言えてる〜」
……ダメだ、まるで聴いちゃいない。
星空を作り上げた達成感に高揚したのか、栗原さんの笑い声が一層甲高く一層ボリュームアップしていた。
もうね、極力聴かないように頑張りますけど、もし聴こえてしまっても断じて盗み聴きじゃありませんからね。言っておきますけど不可抗力ですから。……なんて心の中で言っても、なぁ。一体誰に言っておきますのやら。
こんな時に他に行き場がないのがツライ。部活に入っておくんだったかな。今から講堂の前夜祭に行くのも、悪目立ちしそうで嫌だし。
などと半ば途方に暮れていると、パタパタと軽めの足音が慌ただしく階段を駆け上がってきた。
「あ、いたいた。由緒ちゃんたちが3組の教室で待機してるって聞いたから」
2組の教室の手前、3組の教室で止まった足音の主は平岡さんだった。マズイ、集中力が乱れる。というか、集中力がすべて壁の向こうの───彼女の声に持って行かれる。あまりの事態に心の中は騒々しく散らかり放題。
ああ、結局聴いちゃってます…。
彼女の名前や彼女本人の声から意識を散らすのは、やっぱり難易度マックスだ。聴こうとするべきではないという頭と、自然に彼女の声を追い掛けてしまう耳がせめぎ合う。
「お疲れ様。プラネタリウム、バッチリだったみたいね」
「うん、かなり上出来。綺麗だったよー」
「私も観たかったなぁ」
「明日観られるから、マユは徳山先生を誘って来てよ」
「誘って来てもなにも。 私、先生の連絡先なんて知らないよ」
「やだなぁ、もう。実習最後の日に、文化祭来るって言ってたじゃん?」
「そうなの? いつ? 何時頃?」
平岡さんの食い付きっぷりに、胸がズキンとした。
胸が痛むのは何故だろう。彼女が誰をどう思おうと僕には関係ないのに。正確に言えば、僕は関係できる立場ではない。というか、もし仮にほんの少しでも関係できる立場だとして───関係できる立場というのがどんなものか分からないけど───彼女が誰をどう思おうと僕の現状は何一つ変わらない。良くも悪くも。
「徳山先生ほどのイイ男なんて贅沢言わないけど、男子のレベルがマジで酷い。無理して物理なんか取らないで無難に生物取って女クラのままで良かったー」
「もうシオリってば、そればっかり。シオリはね、2年になったら修学旅行用の彼氏作ってカップル旅行気分を味わうんだって浮れてたのよ」
「始業式初日に諦めたけどね。あー、もう。どっかにイイ男落ちてないかな」
「シオリが気に入る男なんて校内どこを見渡しても落ちてないわよ。2組なんて真面目な子が多いだけ、まだマシな方じゃない? 理系のオタクっぽい男子ばっかりで恋愛対象って意味ではあり得ないけどね。モテないくせにチャラ男だとか進学校のくせにイキがってる勘違い野郎とかマジで引くし」
「まー、小池とかちょっとチャラいけどねー」
「ユオもシオリも、東高内に彼氏いる人を目の前に遠慮なしね」
「あ、そうそう! ちょうどその話してたの、マユのこと。斉藤さんたちから聞いてない?」
「え? ううん。ユオちゃんたちが待機してるってことしか…。私のこと? なあに?」
「マユが趣味悪いって話」
また三人が笑う。
「そっ、そんなこと話してたの?」
「もう、相変わらず良い反応するんだから。マユのこういう所を可愛いって思ってる男子も多いんだよ。自覚ないでしょ」
「自覚って……」
「やだー、またそういう顔して! 男じゃなくても押し倒したくなるわ」
盛り上がる壁の向こう。………平岡さんの“そういう顔”が見たい。身悶えしそうなくらい見たい。
「マユならもっとイイ男いるでしょ、あんな五流以下のボリウッド系じゃなくて」
「例えば……、そうね。2組の中なら誰があり? 2組から選べってのも無理があるけど、私たち他のクラスの男子は名前言われても分からないから」
「あ、それ聞きたい。そもそもマユってどんな感じが好きなの? ドラマとかの話題にも入って来ないから、芸能人のタイプとかも分からないし」
「あ、私あんまりテレビ見ないから。部活終わって家に帰ると遅いから眠くなっちゃって」
「音楽もJPOPとか聴かないでしょー? マユのタイプって何気に謎なのよねー」
「タイプって言われても……。今までそういう風に男の子を意識したことなかったから」
「じゃあ中学の時とか彼氏いなかったわけ? マユが?」
「うん」
「残念男が初カレなの?」
「うん、…っていうか、残念男って……」
「ちょっと嘘でしょ? あれが初カレで、しかも今まで自分から誰も好きになったことないって。なのにあんな男に」
「シオリ言い過ぎ」
「あ、うん、ごめん」
「ねえ、マユ。私もマユがどんな子に好印象を持つのか興味あるな。彼氏のいるマユにわざわざ選ばせるんだし、私たちも無理して2組の中から選んでみるわ。こういうの小中学生の修学旅行トークみたいで面白いじゃない」
岩崎さんの無茶苦茶な提案に松野さんは大いなる不満の声をあげたが、言動を窘められた栗原さんは幾分トーンダウンしていた。
“なのにあんな男に”
途切れたその言葉の意味するものは、僕たちが平岡さんを避けてしまう原因となった例の一件のことなんだろう。
岩崎さんが遮ってくれて良かった。
もしも栗原さんが最後まで言い切っていたら───平岡さんが何か答えていたら───
それがどんな言葉でも聴きたくなかった。
「畠中くん、かな」
悶々と考えごとをしていた頭の中に、突然注がれた自分の名前。彼女の声。
モップ掛けの手が止まる。いや、心臓まで止まりそうなくらいの驚きだった。
何故突然、自分の名前が聴こえたのか全く理解できなかった。聴いているのがバレていて壁越しに呼ばれたのかとドキリとしたくらいだ。
「えーっと、言わせておいてごめん。マユがいいって言ってるの、どの子? 剣道部の背の高い方の子?」
「それは柳瀬くん」
平岡さんが笑いながら答えた。
岩崎さん、さっき会ったよね。この教室で。映写機の投影の時に会ったよね。
───っていうか…。
“マユがいいって言ってるの”
えええええええええっっっっっっ?!
嘘だろ? そんなの嘘だ。
嘘じゃなきゃ夢だ。
これは、たちの悪い夢だ。
「ああ、分かった! さっきベニヤ板班にいたかも。東堂くんの隣の席の子じゃない? 天パっぽくて、根暗な感じの頼りなさそうな子。地味過ぎて顔が浮かばないよ。残念彼氏といい、やっぱりマユの趣味は理解できない」
その後のガールズトークはちっとも耳に入って来なかった。聴こえたのかもしれないけど、覚えていない。
心臓がバカみたいに暴れて、頭の中が酸欠を起こしまくって、息苦しくて、息苦しくて……。僕はモップを握り締めたまま、しばらく床にへたり込んでいた。
その後も栗原さんの笑い声は響いていたし、彼女たちも2組男子の中から仕方なく誰かの名前を挙げていたのかもしれない。
だけど何も分からなかった。
“畠中くん、かな”
忌まわしき非モテ男の単純さ。
彼女の言葉を頭の中で思う存分リピート再生する単純さに我ながら呆れてしまう。
小学生の頃からどの女の子からも圏外だという自覚はあった。圏外どころか、名前さえ記憶されていない自覚もあった。
実際、岩崎さんたちも僕の顔は思い浮かばなかったようだし。
平岡さんは富樫の彼女で、2組で誰か一人と無理難題を押し付けられた結果だとは分かってる。しかもこれはガールズトークの余興だ。2組の中でという条件がなかったら徳山先生の名を挙げていたに違いない。
誰からも記憶してもらえない砂の一粒みたいな僕が、百万カラットダイヤみたいな平岡さんに顔と名前を覚えてもらえてるだけでも人生の大金星だ。
いつか彼女が記憶の中で高校時代をリプレイする時に、その物語のエンドロールに僕の名前がクレジットされていたらそれだけで本望だ。“東高で出会った皆さん”なんて一まとめじゃなく、名前があったら。
富樫や徳山先生みたな主役級の人たちみたいに大きくなくてもいい。たとえどんなに小さくても───
翌日には風邪を引き、三日間熱に冒されて文化祭には出られなかった。修学旅行明けに皆と一緒に引いておけば良かったなぁとベッドの中で無機質な天井を仰いだ。
徳山先生の訪問に平岡さんもさぞ喜んだのだろう。
そんなことをウジウジ考えては、一学期の終わりの日に平岡さんと屋上で過ごした時の気持ちを思い返し、また滅入ってはクラスの中でガクちゃんや柳瀬ではなく僕と言ってくれたことを思い出す。そんな風に布団の中で一喜一憂を繰り返し、思春期してる自分が滑稽だった。
クラスの大半の人に覚えてもらえないような──覚えてる人の殆どが卒業したら忘れてしまうようなこんな僕に、クラスの大半の男子の憧れの女の子が笑顔で話し掛けてくれるだけでも奇跡なのに。それだけでも一生の思い出にするべきなのに。
これ以上、何を望むことがある? 何を望むことが許される?
恋ってもっと爽やかで瑞々しくてまばゆいものだと思ってた。恋をしたら綺麗になるとかキラキラ輝くとか言うけど、そんなのは僕とは別世界の話しだ。僕は恋をすればするほど、自分の気づかないうちに心の奥底に沈殿していた何かが、波立って感情の上澄みを濁らせる。
さざ波さえも立たないと思っていた学校生活。
病み上がりの学校で、僕にとって受難の日々が始まるとはこの時は思いもしなかった。




