01 青春の墓場
「あ、繭子さんだ」
隣の席の浜島が発したその名前に、思わず耳が反応してしまう。
教室前方の入り口の前に立った彼女は浜島の視線に気づくとにっこりと手を振り、手に持った紙の束をひらひらさせて視線を少し前方に移す。浜島がシャーペンのノックの部分で前の席に座る柳瀬の背中を小突き、柳瀬が彼女の方へ歩いていった。
「浜ちゃん、あそこでヤナちゃんと話してるの富樫の彼女なんだろ?」
柳瀬の隣の席に座っていた阪井が椅子をずらして後ろに体を傾ける。
「そそ」
浜島が軽く流す。
彼女は手に持った紙を指さして何かを説明している風だった。
「でもご指名は富樫じゃなくてヤナちゃんなわけ?」
「あー、それな。あの二人が1年の責任者だから。繭子さんが責任者でヤナちゃんが副責任者。富樫は面倒くさいことには関与しないの。まあ、俺も他人のこと言えないけどね」
僕の隣の席の浜島とその前に座る柳瀬、窓際の最後列の席の富樫、この三人は剣道部で行動を共にしていることが多い。「繭子さん」──平岡 繭子さんは隣のクラスで剣道部。富樫の彼女。ちなみに三人とも、本人の前では「平岡さん」と呼んでいる。
少し前に浜島が、今年の1年部員で剣道未経験者は自分だけだと話していた時に、その他は中学で剣道部だった人たちで、柳瀬や平岡さんや永田さんは、キャリア十年超えだと言っていた。
キャリアの長い柳瀬、平岡さん、永田さんが責任者候補に上がり、東高の慣わし的に男子の柳瀬が副責任者に収まり、女子はジャンケンで負けた平岡さんが責任者になったとか。
永田さんというのは僕たちと同じ3組で、僕は中学も同じだったから顔と名前くらいは一致する。永田理恵さん…、だったはず。
中学の頃も全校朝礼などで、市大会優勝とか県大会出場とか表彰されていた。
目も眉も鼻も口も唇も大きめに彫刻されたようなエキゾチックな顔立ちで、真っ黒な髪を後ろに一つ結いに束ね、ピンと背筋の伸びた凛々しい風貌だ。西洋風の剣でも振りかざしそうな歌劇の男役みたいな雰囲気で、中学の頃は熱狂的な下級生女子もいたようだった。
浜島は高校で部活に入るつもりはなかったらしいのだが、入学から仲良くしている柳瀬の付き合いで剣道部を見学に行き一緒に入部していた。本人は「雰囲気が良かったから」と言っていたけど、柳瀬や富樫とは違い、ほぼ未経験に近い剣道初心者だ。
クラスの女子とあまり話すことはないが、平岡さんとはよく喋るしよく笑う。かなり仲良く見える。
「男女共部っていーよなぁ。女子と仲良く出来て。俺らクラスの女子から完全に姿見えてないし、中学の同級生に女友達を紹介してって言えば、“東高って可愛い子だらけなんでしょ〜”って取り合ってももらえねぇし」
不貞腐れる阪井。
「つーか、どうやったら富樫なんかが、あんな清純を絵に描いたような癒し系を落とせるわけ? あの厚顔無恥の富樫が」
阪井の嘆きに浜島が苦笑いした。
「四敗のち、一勝ってやつ? いくつ負けたって最後に勝ちゃ負けなんて帳消しだよな」
「浜ちゃん、何それ?」
「富樫、六月くらいから四回告ってことごとく惨敗だったんだけどね。でも九月の半ば過ぎだったかな、OK出たんだよ」
「マジで? 月一ペースでフラれて、OKされるなんてことあるか、フツー。逆にますます嫌われねぇ?」
「脅迫みたいなもんだよ」
「脅迫??」
「繭子さんに“これ以上フラれたら気まず過ぎるから部活辞める。以後は他人同士で”なんつってさ、最後には繭子さんも “私なんかに何度もありがとう” って言ったらしい」
富樫が自慢したんだ…、と浜島は言った。
「ひゃ〜。すげえな富樫。まあ富樫らしいっちゃ富樫らしいけど、ハート強えーな。俺なら一度撃沈したら、再浮上出来ねーよ」
「脅迫というか熱意の勝利というか、ね」
いつの間にか戻ってきた柳瀬が浜島と阪井の会話に言葉を挟み、目を細めて笑った。
扉の方を見ると、平岡さんは来た時のようにこちらに笑顔で手を振り去って行った。
「可愛いよなぁ。台湾のネットアイドルのなんとかってコに似てね? バレー部の先輩たちの間ではもっぱらの噂なんだけど」
阪井の言葉に浜島が頷く。うちの部の先輩たちも言ってるよ、と。アイドルや流行り物に興味がなさそうな柳瀬までもが、目のあたりがね、なんて補足してるし。
残念ながら、僕はその“なんとか”って子を知らない。けど、平岡さんと似てるのならちょっと興味のあるかも。
ちゃんと名前聞いとけば良かったな。そうしたら家に帰って兄さんの部屋のパソコンで画像を見たのに。
まあ、わざわざ横槍入れて食いつくのも変だし、いいや。
僕のことも顔見知り程度に認識してくれるのか、彼女は浜島たちと談笑する時のお裾分けみたいに、微かな笑みと軽い会釈をくれる。…と、都合良い解釈をしている。
言葉なんて交わしたことないけど、彼女からこんな笑顔をお裾分けして貰えるのなら浜島や柳瀬と席が近くて良かったな…、と密かに思っている。浜島たちと近い席にならなかったら、きっと今でも彼女について何も知らないままだろうけど。
以前から浜島や柳瀬たちと廊下で話す彼女を見掛けてはいたが、十月に入ってすぐの席替えで浜島の隣の席になり、彼女が富樫の彼女なんだということを知った。
だからなんとなく訊きそびれていた。いつかのことを。
「ってか、阪井ああいう感じタイプだったっけ?」
「いや、パスだ」
何か心当たりがあるのか、浜島が「だよなぁ」と呟いた。
「可愛いと思うよ、マジで。部活の先輩なんかも、今年の1年で五本の指に入るって言ってたし。ぶっちゃけ俺の好みの感じより富樫の彼女の方が数段可愛い」
「はあ」
「浜ちゃんだって綺麗な芸能人が山ほどいてもその中で好みってあるだろ? まさか好み以外は綺麗だとも認めないとか言うなよ?」
「まあそう言われたら分かるけど」
「俺はさ、もっと上目遣いとかアヒル口とかしちゃって甘ったるーい小悪魔ちゃんみたいな感じがいいの。7組の栗原ちゃん分かる? あの娘どストライク。充分過ぎるくらい高嶺の花だけどねぇ。富樫の彼女って健全過ぎて手出し出来なそうじゃん」
「その栗原さんって子は知らないけど、手出せそうな感じが良いってことかよ?」
「別にそこまで明け透けじゃねぇけどな。でも、一応健康な十六歳男子なわけだし、妄想の中だけでも期待したいじゃん」
な? と阪井は浜島と柳瀬を交互に見た。
「ここまで女子と隔たりあると、マジで誰でもいいとか思えてくるけど、富樫の彼女って見た目も雰囲気も健全度が高過ぎて朝ドラ感ハンパないってか、二次元っぽいんだよな」
「二次元?」
「そう、なんか作り物みたい。偽物って意味の作り物じゃなく、完成品って意味な。ちょっと完璧過ぎなんだよな。あんだけ可愛くて性格も明るくて謙虚で、部活も勉強も真面目なんだろ? 富樫もよくそんな完璧女子に何度もアタックしたよなぁ」
「何だか悪く言われてるみたいで居た堪れないから、それくらいにしといてあげて」
いつにも増して柔らかい口調で話しに割って入った柳瀬が阪井を諌める。
「繭子さんも富樫も、どっちも身内だからさ」
「言い方悪かった。ごめん、ヤナちゃん」
「うん、分かってる。確かに朝ドラっぽいし、知らない人から見たらやっぱり面白味のない優等生だと思うの分かるから。あれで結構面白い所あるんだけどね」
柳瀬は楽しそうに笑い、浜島は少し曖昧に頷く。柳瀬の方が彼女の色々な面を知っているのかも知れないし、単に浜島と柳瀬の笑いのツボは違うのかもしれない。またはそれぞれの持つ印象が異なっているのかもしれないが、それは多分誰にも分かりそうもない。
「そりゃそうだよな、テレビの向こうの芸能人だって仕事上のキャラだし、二次元だよな。俺も富樫の彼女をよく知らないから二次元っぽく見えるわけだし。案外よく知ったらベタ惚れしちゃったりしてな」
自分が意識してる相手を、他の誰かも同じように感じるのではないかと思ってしまうのは何故なんだろう。
平岡さんのことをタイプじゃないと言い切った阪井の言葉よりも、よく知ったらベタ惚れするかもと言った冗談の方が冗談ではなく聞こえる。まったく思春期って厄介だ。
「俺なんか話したこともない相手だから論外だけど、ゴリ押ししたら折れてくれた話とか聞くと、浜ちゃんやヤナちゃんなんか “俺でもいけたかな” …、なんて思ったりしねぇの?」
「ないない。どっちもフツーに友達だし」
大袈裟に首を振って可笑しそうに笑う柳瀬が浜島と目を合わせると、浜島も「ないね」と深く頷いた。
「まあそうだよな、外野があれこれ言ったって、友達の彼女ともなると告るとかどうとか、この先一ミリも考えらんねぇよな」
阪井は浜島と柳瀬それぞれに横目で視線を投げて、自分の席へと戻って行った。浜島が次に言葉を発するまでのほんの二、三秒の二人の沈黙が、何故だか十秒にも二十秒にも感じた。
「なあ畠中ちゃん、繭子さんの繭って字、難しいよな。最初書けなかったんだよね。糸と虫の位置が逆になったりしてさ」
読めるけど書けと言われたら書けない、そんな部類の漢字だったことは僕も同じだ。
チャイムが鳴りあっという間に数学の先生が入って来て慌ただしく授業が始まった。
浜島はそれきり何も言わず、教科書を開いた。
浜島、今はサラッと書けるんだろう。糸も虫も収まる所に収まって。僕も書けると思う。でもそれは内緒。書く機会もないだろうし、もしテストで出題されたら、とうの昔から書けたって顔しておこう。