12 サンドイッチに焙じ茶
「畠中くん、お腹空かない?」
そう言えば……と思い、時計に目をやると十二時半を少し過ぎていた。
部活の人たちもいるけど、終業式で売店は開いていなかった。そう思うとますますお腹が空いたような気になってくる。
「前にパンをご馳走になったままでしょ? 今日売店が開いないから、ちゃんとしたお返しはできないけど、サンドイッチで良かったらどうかなぁ? 」
口に合うか分からないけどね、彼女は自信なさそうに言ってトートバッグの中から淡いミントグリーン色の布に包まれたランチボックスのようなものとステンレス製の小さな水筒を取り出した。
「いいの?」
「他に生徒がいない時ならいいって中野先生からお許しもらってるから時々こうしてるの」
確かに資料室で食べ物を広げて良いのかってことも気になったけど、彼女の昼ごはんを分けてもらっても良いのかって意味だったんだけどな。
でもようやく彼女が笑顔になったし、彼女に笑顔で誘われたら断れる男なんているわけない。
こういう場合、なんてお礼を言えば良いのだろう? いや、遠慮しないと図々し過ぎるだろうか…なんて考えていると、内扉が開いて中野先生が顔を出した。
「お二人さん、お昼休憩中に申し訳ないけど、これから3年生たちが進路資料室を使うことすっかり忘れてたの。中庭か屋上でランチできる?」
「先生、屋上って一応立ち入り禁止ですよねぇ?」
その立ち入り禁止に彼女はいたし、僕とガクちゃんも平気で立ち入ったんだけど。
「教室棟の屋上はね。でも教科棟の屋上は良いのよ。吹奏楽部や合唱部も時々使ってるわよ?」
教科棟なんて普段そんなに来るわけじゃないから知らなかった。
僕たちは荷物を持って廊下に出た。
彼女と一緒に階段を昇り、吹奏楽部の楽器の音色が流れる中、僕たちは教科棟の屋上に辿り着く。
「見て、見て。ベンチまであるー」
駆け出す彼女の乾いた足音に合わせて忙しなくスカートの裾が揺れる。
貯水槽を囲うフェンスの脇に日焼けしたプラスチックの長いベンチがあり、隅にペンキ缶が灰皿の代用で置かれていた。教科棟の屋上はタバコを吸う先生のささやかな憩いの場なのだろう。
「座ろっか」
彼女は右寄りに腰掛けてトートバッグをベンチの端側に、資料室で広げたミントグリーン色した包みを真ん中にを置いた。彼女の荷物を挟んで反対側に腰掛けると、彼女は包みを開きランチボックスを取り出して蓋を開けた。
中には長方形のサンドイッチが五組ほど綺麗に収まっていた。
トートバッグから携帯用のウェットティッシュを出して僕に勧めてくれたので一枚取って手を拭く。女の子って用意が良いんだな。それとも平岡さんが噂通りお嬢様だからなのかな。
「畠中くんには少ないかもしれないね。お口に合うか分からないけど食べられるだけ食べて」
「平岡さんは?」
「私は教室で理恵ちゃんたちとお菓子を食べちゃったからお腹が空いてないの」
確かに永田さんたちは間食をしていたのを見掛けたけど、それは平岡さんが教室を出てからのことだった。
僕に遠慮させないために気を使ってくれてるのだろうか。
「でも」
平岡さんも食べた方がいい、そう言おうと思った。彼女だって本当はお腹が空いているはずだし、それに彼女が持ってきた昼食なのだから。
「実は作りすぎて朝も同じ物を食べてきたの。こんな風に言うと、食べ飽きた物を押し付けてるみたいで申し訳ないけど」
もしかして、これは彼女の手作り?!
僕は同年代の女子の手料理なんて食べたことがない。あるとすれば中2の時のキャンプ飯だけど、もれなく男子の手料理成分も混じっているし、ああいうのは除外対象。ガクちゃん流に言えばノーカウントだ。
「自分で作ってるの?」
「うん、そうだけど…。やっぱり不安?」
心配そうにおずおずと僕の目を覗き込む彼女。目の奥まで覗き込むように見つめられたら、平岡さんの手作りサンドイッチを前にして高揚しまくってるのがバレる。ゴクリと唾を呑み込む音もバレる。ごまかすために短く咳払いをして軽く呼吸を整えた。
「ううん、そんなことない。…いただきます」
頭を下げて一番端のたまごのサンドイッチを掴んで咀嚼した。
美味しいです、心配しなくても充分すぎるほど美味しいです。少し薄めの優しい塩加減に黒胡椒なのかピリリと香ばしいアクセント。
僕なんてまともに包丁すら握ったことがないようなものなのに、女の子って高校生にしてこんなにもきちんとしたものを作れてしまうのか。声にならない感激で飲み込むのさえ惜しいと思ってしまう。売店のパンのお返しが憧れの女の子の手作りサンドイッチだなんて、まさに海老で鯛を釣りあげた気分。鯛どころの話じゃない。僕にとっては財宝満載の難破船以上だ。
「無理しなくて良いからね?」
横から恐々と声を掛けられてハッとする。感激のあまり言葉にならない幸せで胸を詰まらせていた僕は、きっと神妙な面持ちでゆっくりと噛み締めながら食べていたのだろう。彼女の目には食べたくもない物をどうにかこうにか口に運んでいるように見えてしまったみたいだ。
「よその人が握ったおにぎり食べられないとか、他人の手料理が無理っていう人もいるじゃない? もし畠中くんがそうだったらごめんなさい」
「もしそうならコンビニに行ってます」
「コンビニのお総菜が食べられない可能性はありませんか?」
「だったら売店のパンも食べてませんよ」
「なるほど、そうですね」
面と向かって彼女の手料理を「美味しい」と伝えることは、女子とまともに会話したことない僕にとって、彼女に「可愛いね」と言うくらい恥ずかしくて照れ隠しに丁寧語で凌いだ。
そんなことを知ってか知らずか口調を合わせた彼女が笑う。丸い大きな目が薄い三日月型に細められる人懐こい笑顔。いつもの彼女の笑顔。僕の好きな───
不意に彼女は大きく息を吐き出してベンチの背もたれに背中を沿わせて空を仰ぎ見た。
「進路一つ決めるのも大変だよね。高校受験の時は、偏差値が合ってるとか通いやすいとか制服が可愛いとか仲の良い友達と一緒だとか、そんな感じで決められたけど、高校の先って難しいよね」
「平岡さんは、ある程度定まってるって……」
「うん、そうなんだけどね。自分一人の問題じゃないっていうか、結局は自分の道って言ってもまだ未成年だし。家族が賛成してくれるか、ダメだって言われたら別の道を考えるのか」
周りがケータイを持っていても持たない彼女。大きな家に住むお嬢様だという噂だし、きっと厳しい家なんだろう。大きな会社を経営してたりして継ぐように言われてる、なんてドラマみたいな背景があるのかな。政略結婚みたいな縁談があるとか? 僕の想像力って存外安っぽいよな。
「いくら何かを頑張っても、自分の目的のために頑張ってるんじゃなかったら意味ないよね。“良い子”でいるために勉強したり言い付けを守ってるなんて、十六歳にもなってダメだよねぇ」
一生懸命に言葉を繋ぐ彼女の横顔が切なかった。
「僕も変わらないと思う」
親の同意はさておき希望の道が定まっている彼女と、そうでない僕とを同じなんて言ってしまっては失礼だけど。
「進路も考えたことなかったけど、勉強してる。何のため? って訊く?」
彼女は「ううん、訊かない」と笑ってくれた。
「ありがとう」
ガクちゃんみたいに説得力のあることを言えないのがもどかしいと心の中で悶えながらも、ありがとうと笑うのが精一杯だった。
「あのね、お茶なんだけど、この水筒カップが一つだけだから使いさしなの。それでもいい? 嫌なら自販機で買ってくるよ?」
剣道部の人たちが日頃から男女気にせず、当たり前のように仲間の弁当をつまんだり飲み物を回し飲みしたりしているのは知っている。1年の頃から見慣れた光景で、富樫が永田さんの飲み物の残りを貰い受けたり、永田さんが浜島や柳瀬と弁当のおかずをトレードしていたものだった。2年になってクラスにいる剣道部のメンバーは変わっても彼らの行動は同様だった。浜島がこのカップでお茶を啜っていたのも見覚えがあった。
彼らにとってなんでもないことでも、僕に対して恐縮させてしまったことが申し訳ない。そして昼食の提案は彼女からだとしても、彼女の分しかない食べ物や飲み物を気心の知れない僕のような男子に分け与えるような不意な状況を作ってしまったことが更に申し訳なかった。
「嫌なことはないよ。むしろ平岡さんが嫌じゃない?」
「ううん、私は全然。 畠中くんが嫌じゃないなら」
嫌なわけあるはずないよ。そりゃ、僕なんかが彼女が口を付けるカップを一緒に使わせてもらうなんて、こんな不足の事態でもない限り躊躇はする。だってそれは僕のような地味階級の憧れにして青春の王道中の王道“間接キス”ってやつで、無縁この上ない次元ものだから。
彼女はトートバッグからステンレス製の小ぶりな水筒を取り出して、カップを兼ねている蓋の部分に湯気が立つ褐色の液体を注ぐ。伏せられた艶やかな長い睫毛や整った輪郭から目が離せずドキドキする。
「熱いから気をつけてね」
ドキドキしながらカップに口をつける。湯気の立つ熱い焙じ茶が口の中を心地良く滑った。
他に誰もいない屋上に二人でいるだけでも夢みたいなのに、手作りのサンドイッチまで食べて、その上彼女の水筒のお茶を飲むなんて、絶対に僕の一生分の幸運を使い果たしてる。明日から不幸しか来ないかもしれない。いや、無情な目覚まし音が頭上に響いて、夢落ちとか。もうどっちでもいいや。今この瞬間が僕の人生のピークでも、夢の中だとしても、どちらにしてもこの瞬間は千載一遇なんだ。
「サンドイッチに焙じ茶って変だよね。私の家って、こういうお茶ばっかりなの」
恥ずかしそう視線を流す彼女。飲み干して僕が返した上蓋のカップにお茶を注ぎ、彼女はそれをごく自然に自分の口に運ぶ。その姿に、鼓動の衝撃で眩暈がしそうなくらい僕の心が騒ぎ出した。
繊細で滑らかな彼女の喉元がお茶を飲み下すリズムで小刻みに揺れる。
彼女の揺れる喉元に僕の中で何かが弾けた。
ただの憧れだとか、そんな風に自分自身を言いくるめられる時間には後戻り出来ないのところに立っているのだろう。膨れ上がった感情が、荒く注ぎすぎた炭酸水みたいに胸の底でせり上がる。
真っ青な空に浮かぶ大きな入道雲でさえも押し流す微風のように、この強く緩やかな流れに抗えない気がした。
そして僕は思ってしまった。富樫とこんな風に一つのカップでお茶を分け合わないで、と。
言えるわけがない。言える立場じゃない。むしろ咎められる側は僕の方。こんなこと考えること自体が理不尽なのだ。
でも苦しいと思った。今僕の目の前にある彼女の笑顔さえ富樫に向けないでと思ってしまうほど。
さっきまでこの瞬間に僕の幸運を使い果たしても構わないと思うくらい嬉しいと感じていたのに、胸が苦しい。こんな気持ち、初めてだった。消えてしまいたいくらい理不尽で情けなくてどうしようもない気持ちになった。
「分からないんだよね。今までずっと、良い子にしなさいって言われて来たから、良い子過ぎて面白味がないとか、良い子ぶってるってダメ出しされても全然直せなくて。言わたれたことだけ守ってきたツケが回ってるのかも。つくづく甘ちゃんだなぁって思う」
以前、教室棟の屋上で富樫が去った後に彼女は一人そんなことをていたんだろうと思った。
彼女のことを出来過ぎていて二次元みたいだとか、優等生ぶってるなんて言う人たちに彼女の苦悩なんて分からない。そんなことを言ったら「他の人には他の人の苦悩がある」と彼女は逆に自分を批難した人たちを擁護するだろう。僕が見てきた彼女はそういう人だ。
「殻を破るのって勇気いるね」
彼女はどこか遠くを見つめていた。
モラルとして長い間培われた“優等生”という殻の中で彼女は悩んでいるのかもしれない。
臆病で自己主張もなく誰かと衝突することもなく生きているだけに、少しだけ彼女の葛藤が分かるような気がした。
彼女ほどの人にそんな悩みなんてないと思っていた。けれど彼女も生身の人間なんだ。僕の目の前にいる平岡繭子という明るくて頑張り屋で人気者の女の子は、二次元なんかじゃない。
「前にも話したけど私は理系脳じゃないから、畠中くんの相談相手にはなれないかもしれないけど、進路資料室で会って今こんな風に話してるのも何かの縁だし、また良かったら進路のこととか話して」
彼女が焙じ茶を注ぎ足してくれたカップを受け取って口を付けた。体中が熱くなったのは熱いお茶のせいじゃなく、モテない地味男の永遠の憧れ“間接キス”のせいだろう。




