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09 ナンセンス

 自習の時間は落ち着かない気分だった。

 浜島は頻繁に時計を見たり貧乏揺すりをしたりと僕以上に落ち着きがなく、柳瀬もいつもより口数が少なかった。ガクちゃんはヘッドホンをしたまま黙々と英文解釈に集中していた。

 理科室での修羅場もどきの騒動後、それ以前に教室に戻っていた騒動を知らない浜島から、富樫が走って教室に入って来てそのまま平岡さんの手首を掴んで強引に連れ去って行ったと聞いた。そう話した浜島に何があったのかと訊かれガクちゃんが至って簡潔に事情を告げた。

 行き違いがあったようだよ、と。

 浜島は詳細を聞きたかったようで消化不良の表情をしていたが、それ以前のことを話しそうもないガクちゃんを見て諦めたのか黙々と英語の教科書を広げ始めた。

 そしてその時間、彼女は戻らなかった。


 四時限目が終わるチャイムが鳴り、永田さんは文化祭実行委員の会合があると教室を出て行った。

 僕はガクちゃんと売店にパンを買いに出た。

「ホント、畠中ちゃんってよく食うよなぁ。そんなに痩せてて、パン五個もどこに入るんだよ」

「五個くらい、普通じゃない? ガクちゃんだって、多いよ」

 ガクちゃんの昼食は家から持参の大きめの弁当箱とパン二個。ガタイもまるで違うラグビー部と帰宅部の胃袋を比較するのもどうかと思うけど、パン五個って多いのかな。

「──っと、畠中ちゃん、あれ…」

 急に立ち止まりガクちゃんが指差す中庭に富樫と加納さんがいた。

 自販機から取り出した飲み物を加納さんに手渡している。

「平岡さん、戻ってなかったよな」

 富樫も戻ってるし、もう教室にいるだろう。そう思いつつ、ふと気になって渡り廊下から見上げると屋上の柵に凭れてスカートを靡かせている肩までの髪型の後ろ姿が見えた。

「ガクちゃん、屋上」

 今度は僕が指差し、ガクちゃんは息を呑んだ。

「思い余ったりしてないよな……。行こう!」

 走り出したガクちゃんの背中を慌てて追った。

 ねぇ、ガクちゃん、速いよ。速すぎるって! パンが落ちるって! パンが潰れるっっ!!

 でもさ、思い余ってたら背中から柵に凭れたりしてないよね。思い余った経験ないから何とも言えないけど。

 息も絶え絶えに屋上に着いてガクちゃんが重い扉を力いっぱい開けた。

 目に飛び込んで来たのは、後ろ手に肘を柵に絡めて背中を逸らしストレッチのような動きをしている平岡さんだった。路地を横切る時に人間と目が合った猫のような表情だと思って、僕は笑った。

 前に立ったガクちゃんは、大きな勘違いで錯乱中なのだろう。驚いて固まった表情の平岡さんは、ガクちゃんの後方にいる僕に視線を移して一緒に笑ってくれた。

「授業、サボっちゃった」

 この人の笑顔は一体何度、僕を釘付けにするんだろう。


「自習だからノーカウントだよ」

 ガクちゃんが彼女の隣りで柵に凭れて並び、そのまま黙った。


「良い子って、今どきナンセンスなのね」

「彼に言われたの?」

「富樫くんは──、そうは言ってないけど」

 彼女は言葉を切ってじっと宙を見つめた。


 1年の時に、阪井が平岡さんのことを健全度が高過ぎて二次元っぽいと言っていたのを思い出した。

「あーあ、なんだか急にお腹空いてきちゃった。もうパン売り切れてるよね」

 渡り廊下の辺りを見下ろして、恨めしそうにおどける彼女は、どんな経緯があったのか分からないけど富樫の話題は触れたくないような気がした。

 ガクちゃんも察したようだった。

「がめつく買い占めてるヤツがそこにいるから分けてもらいなよ。俺、飲み物買ってくるから」

「そんな、悪いよ」と呼び止める僕や平岡さんの声を聞きもせず、ガクちゃんは走り去った。元ジュニア選抜のスリークォーターバックは伊達じゃない。なんで東高に入っちゃったんだろう。僕が買いに走るより速いのは明らかだけど、いきなり二人きりにしないでほしい。


「食べられるだけ好きなやつ食べて」

 とりあえず僕も座り、買ってきたパンを彼女の前に差し出した。

「いいの?」

 透き通る瞳で僕の目を覗き込む。

「いいよ、好きなの取って」

 風に消されそうな声しか出せない僕に「じゃあお言葉に甘えるね」と、小さく、だけどゆっくりと丁寧に言って、りんごのジャムパンを一つ手に取った。

「ありがとう」

「一個で良かったの?」

「あ、うん。もちろんパンのこともだけど」

 ……パンのことも?

「心配掛けたんだよね。四時限目サボったこと。東堂くんにも畠中くんにも」

 言葉が出なかった。心配はした。でも言葉選びが下手な僕が喋ると富樫の話題に触れてしまいそうだった。


「何でき……かなかったのかな」

 風に流されてよく聞き取れなかったが、彼女の独り言は“気づかなかったのかな”とも“傷つかなかったのかな”とも聞こえた。

 聞き返そうとした時にまた風が吹いて、揺れた彼女の髪のから漂う甘い香りにドキドキしてしまった。結局、口を噤んだまま視線をコンクリートの地面を彷徨わせた。

「時々見て気になったけど、畠中くんて、いつもその量を食べてるんだよね?」

 声が近い。憧れの──いや、憧れることしか出来ない相手と二人きりで、名前を呼ばれるシチュエーションに緊張する。

 顔を上げると思った以上近くに彼女の笑顔があった。

 焦げる。このままだと彼女が見ている前でジリジリと焦げ始めてしまいそうだ。

 この距離から微笑まれると沸騰を通り越しそう。実際すごく顔が熱いし、緊張で手のひらも背中もジリジリした。


 彼女の顔は本当に綺麗だった。真っ黒な長いまつ毛や茶色掛かった澄んだ瞳に文字通り釘付けにされた僕は、自分が息をしているかも自信がなくなるくらい彼女に見惚れた。無理やり喉の奥で息を呑み込んで、息をしていることを自分に確認させた。

「痩せの大食いなんだね。羨ましいな、私なんか食べた分だけ丸くなっちゃう」

 そう言って自分の頬を軽く摘まんだ後に、彼女は小さく「不公平だよ」と呟いた。

 こんな時は「全然太ってないよ」とか「今のままで充分に可愛いよな」なんて受け返すのがマナーなんだろうか。そんな気の利いた言葉、僕には言えそうもない。ある程度自信のある人か女の子慣れした人のセリフだと思う。

「……ごめん、喋るの下手で」

 楽しませることも励ますことも言えないこんな退屈な僕で。

「そんな風に思ったことはないよ。畠中くんはいつも慎重に、相手を傷つけない言葉を選んでくれてる」

 そんな良いもんじゃない。選ぼうにも(うま)い言葉なんて浮かばない、つまらない人間なんだ。

 でも嬉しかった。僕のことをそんな風に見てくれる人がいたこと。それが平岡さんだってこと。


「考え過ぎてどうにもならなくなる時って、あるよね。あれこれ考え尽くしたつもりで……、ふと思うの。こんな平凡でつまらない頭でどんなに考えても、結局は発想も乏しいんだろうなぁ、って。お釈迦様の手のひらの周りを回ってるだけの孫悟空みたいね」


 2年になって、挨拶とそのオマケのような日常会話だけど、平岡さんと話すようになって僕なりに感じたことがある。

 普段は誰とでも打ち解けている彼女が、自分の感じたことや自分のことを口にする時、ほんの少し言葉を止めたり詰まらせる。まるですうっと心を閉ざすみたいに。

 そのことに気づいた時は、彼女と親しい女子たちは何とも思わないのかと不思議に感じた。皆、テレビの話しや学校での出来事など語ることは尽きないみたいだった。平岡さんが途中で言葉を止めても別の誰かが喋り出し、常に会話は回っていて、彼女はいつも笑顔でその輪の中にいた。

 富樫とここで話し合っている時、平岡さんが言葉を止めてしまっていたら会話が成立するとは思えない。気持ちや主張を言うように求められれば求められるほど、彼女は言葉を詰まらせ、そして意思とは関係なく心が閉じていたかもしれない。


「地球規模で見たら俺たちが歩いてる距離なんて、孫悟空の比じゃないよ」

 戻ってきたガクちゃんが紙パックのコーヒー牛乳を僕と平岡さんに放った。

 僕たちがお礼を言うとガクちゃんは、僕と反対側の平岡さんの隣りに座った。

「でもさ、人間は飛行機やロケットを作ったじゃん? 例えたら、俺たちは今、飛行機を開発する勉強をしてる段階なんだよ。大学だとか専門学校に行って、飛行機を設計する段階。社会人なりたてで、ようやく飛行機を製造する段階ってトコかな。その後、試験走行なんかを繰り返してやっと飛べるわけ。つまりさ、高校生の知識と経験で見えるものなんてたかが知れてるってこと」

「東堂くんって冷静に現状把握できてるのね」

「いやいや。発想力の限界を孫悟空に例えるセンスは捨てたもんじゃないから自信持ちなよ」

「東堂くんが言ってくれたみたいに、今の私が導き出せる精一杯の答えだと思いたい。でもそれじゃ足りなくて、きちんとした答えを出さなきゃいけない時もある」

「それは先を急ぎ過ぎってことじゃない?」

「そうなのかなぁ」

「精一杯出した答えがいつも正しいとは限らないし、それが不正解だった時の言い訳にもならないけど、たくさん考えたらその数だけ教訓も出来るんじゃないかな」

 ガクちゃんの言葉を最後に、三人黙ってパンを食べてチャイムが鳴るまでを過ごした。



 何かが喉につかえるような感覚は、校庭から巻き上がった砂埃なのか、味が分からなかったパンなのか、何か言おうとして何も言えなかった心残りなのか──

 言えなかった僕とは対照的に、ガクちゃんはあの状況の平岡さんから会話を引き出していた。

 本当に役立たず過ぎてなんだか悔しかった。

 対人関係での出来事の何かを “悔しい” と感じた自分にも驚いたけど、何が悔しいのかよく分からないこともモヤモヤした。

 ガクちゃんに嫉妬?

 違う。そもそも嫉妬できる土俵にすら立っていない。

 喉につかえていたのは砂埃でもパンでも気の利いた言葉でもなかったのだろう。

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