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廊下の開け放された窓から、心地よい風が入り込んでくる。
ようやく春の陽気になってきた。残っていた雪も溶けて、冬の間は恨めしかった白い塊が妙に名残惜しく感じた。
高校に入学してから一年が経ち、僕も二年生となった。
そして新学期によるどたばたもようやく落ち着き、僕は久しぶりに哲学部の部室に向かった。
部室の扉を開けると綾莉先輩は先に来ていて、ぼけらぴーとしていた。いつもの光景だ。
ただいつもと違うのは、綾莉先輩の綺麗な顔の真ん中――鼻にティッシュがつめられていることだった。
「……鼻血でも出たんですか?」
「花粉症なのです」
挨拶も忘れてたずねると、綾莉先輩がそう答えた。鼻にティッシュを詰めている割にははっきりとした口調で言った。慣れているのだろうか。
そういえば、そんな季節なんだと思いだした。
「平気な佐以くんがうらやましいのです」
「いえ、僕も薬を飲んで抑えているだけですよ」
「佐以くんも花粉症なのですか?」
「えっ、あ、まぁ……」
つい流れで、自分を花粉症にしてしまった。
何をやっているんだか。きっとアレか? 病に憧れるお年ごろ、ってやつだろうか。
「お薬は、眠くなってしまいそうで飲んだことはないのです」
「眠くなるのなら、むしろ先輩は好きそうですけどね」
「薬で眠るのは邪道なのです」
そうですか。
それにしても部室が蒸し暑い。
あ、なるほど。窓が閉められているからか。
「綾莉先輩。窓、開けますよ。せっかくいい風が吹いているのにもったいないですからね」
「え……あ、はい……」
僕は先輩の返事を待たずに、しっかり鍵の掛っていた窓を開けた。その途端、涼しい風が入ってくる。ふぅ。
先輩が風に揺れる髪の毛を手で押さえた。絵になっているんだけど、鼻のティッシュがやっぱり変だった。
僕は荷物を机の上において椅子に座った。新学期が始まってからいろいろ忙しかったけれどようやく落ち着いた。たまにはのんびり部活もよい。まぁ部活といっても活動内容は何もなく、ぼーっとするだけなんだけどね。
ぼんやり先輩の顔を見ていると、さすがに恥ずかしくなったのか、綾莉先輩は鼻のティッシュを取って、そっとゴミ箱に捨てた。いつもは部屋の隅にあるごみ箱が、今日は綾莉先輩が座っている椅子のすぐ横に置いてあった。
「新学期になってからようやく落ち着いてきたのです。ところで、今日は何日でしたでしょう?」
小さく咳払いして誤魔化すかのように、珍しく綾莉先輩から話しかけてきた。
「四月十三日ですね。残念ながら十三日の金曜日じゃないですよ」
なんとなく綾莉先輩が気にしそうなことを先に言ってみた。
「……別に残念ではないのです。あの、先月の……」
「はい。その通りです。先月が十三日の金曜日でしたね。……って綾莉先輩、どうしたんですか?」
「……何でもないのです」
急にぶすっと黙り込んでしまった。
なんか変なことを言ってしまっただろうか。それとも、くしゃみを我慢しているのかな?
僕が不審に思っていると、先輩がぽつりと言った。
「佐以くん、来たばかりで申し訳ないのですが、少し席をはずして頂けますか?」
「……いいですけど」
なんだろうと疑問に思いつつ、僕は席を立って部室を出た。
せっかく外に出るのだから何か飲み物でも買ってこようかな――と思いついて、財布が机の上に置いた鞄の中に入っていたことに気づく。
というわけで、僕はいったん閉じた扉をがらりと開けた。
「――っっくしょょんっ」
そんな僕の視線に映ったのは、ティッシュに向けて派手にくしゃみをした綾莉先輩だった。顔にあてたティッシュから、どろーっとした液体が伸びる。
「あっ……」
目が合った。
「ひどいのです」
先輩が、顔を赤らめ今にも泣きそうな表情を見せる。
「い、いや、確かに見てはいけないものを見てしまった気はしますが、鼻ティッシュはOKで今のがダメ、という明確な基準が……」
「基準も何も、女の子の秘密をのぞき見るなんて、サイテーよ」
ほづみが綾莉先輩に同調した。
「――ていうか、いつの間にお前はっ」
さっき部室に入ったときはいなかったし、僕がいったん外に出たのはほんの一瞬。誰かがすり抜ける機会なんてなかった。
ほづみは豊満な胸を張って答えた。
「ロッカーの中に隠れていたに決まっているじゃない」
「幼馴染が綾莉先輩化しているっ!!」
綾莉先輩が拗ねてしまった。
わざわざ僕に背を向けて座って、身体全体で拗ねっぷりを表現している。
ほづみはほづみで、勝手に空いている席に座って、いちいち僕に視線を向けては、非難のまなざしを向けて来る。今日はテニス部が休みなんだろう。休みのときは、哲学部の部室に来て綾莉先輩と談笑していることも多い。そのときも女と男ということで軽い疎外感があるけれど、今のこの状況はその比ではない。
なんなんだ、これは。いつもの居心地のいい部室はどうした? 女って怖い。
「あの……綾莉先輩?」
と僕が声をかけるたびに、先輩は身体をぴんと伸ばして、不自然なまでに僕から顔をそむける。そのわざとらしい動きに、つい苦笑してしまう。
「……何してるんですか」
「つん、としているのです」
先輩が答えた。
「あぁ、わさびでも食べたんですね」
「――――っっ!!」
僕がそう言うと、ようやく先輩は振り返って僕と目を合わせてくれた。
とっても怒りに満ちた形相で。
「……佐以が冗談言うのって、珍しいわね」
ほづみが驚いた様子で呟く。そうだっけ。
「それとも……マジボケ?」
失敬な。
綾莉先輩がもっと拗ねてしまった。
部室の隅っこに行き、全身をカーテンにくるんでしまった。
カーテンの裾から先輩の細い足首が覗かせている。
「……くちゅんっ。――くちゅんっっ!」
二度ほどくしゃみをして、先輩が出てきた。ばつが悪そうな顔をして。
どうやらティッシュを取りに来たようだった。カーテンで拭かなかったのはさすがに女子と言うべきか。
ほづみが視線で「今が謝るチャンスよ」と合図を送ってくる。
はぁ。仕方ない。きっとわさびにトラウマがあるんだろう。とりあえず謝っておこうと僕は口を開きかけた。
「……甘いものが食べたいのです」
そんな僕の機制を制して、綾莉先輩が言った。
「え?」
「鼻が詰まっていても、甘いものの味は分かるのです」
まぁプロフィール欄の「好きなもの」に「甘いもの」と書くのではなく、プロフィール欄に「甘いもの」とあって「好きなもの」と書きたいのです、と豪語する人ですからね。よく考えると意味わからないけど。
「はい。分かりました。買ってきます」
さすがに余計な口をたたくことはしないで、僕は素直にうなずいた。綾莉先輩の機嫌が直るのなら、購買のあんぱん程度、安いものだ。
「ちなみに、購買のではなくて、ちゃんとしたお菓子屋さんの甘いものがいいのです」
「あ、ついでに私のも買ってきてね」
ほづみが便乗した。
「……分かりました。行ってきます」
ちょっと痛い出費になりそうだった。
うちの高校は畑の中に建っていて周りには何もないけれど、駅からはそう離れていない。駅には小さいながら駅ビルがあるし、周りにはコンビニ・本屋・ファーストフード店なども立ち並んでいて、学校の周辺よりはにぎやかだ。この時間帯はうちの学校の制服がよく見られる。
そんな駅前の商店街の中に、洋菓子店「てぃあら」がある。テレビや雑誌の取材が来るほど有名ではないが、うちの学校ではよく名を聞く洋菓子屋である。多少値が張るものも、コンビニや購買に置いてあるスイーツよりも品質・味が良い。
その「てぃあら」の隣にある本屋の前で見知った人物に出会った。隣のクラスの米沢兵吾だった。自転車を脇に置いて、新刊を立ち読みしている。
「ん? 佐以? 珍しいじゃん。こんな時間にほっつき歩いていて」
先に兵吾が気づいて声をかけてきた。
「ちょっと買い物にね」
と答えて、僕はふと思った。
これはチャンスかもしれない。僕はあくまでさりげなく兵吾に話しかけた。
「あのさ兵吾。実は部室で、綾莉先輩とお茶していて、その菓子の買いに来たんだ。ほづみもいるんだけど、一緒にどう?」
「え、マジ。行く行く」
よし、成功だ。
事情をうまく説明して、綾莉先輩とほづみ、それに僕と兵吾の分の料金を割り勘にさせた。これで理不尽に払われそうだったほづみの分の料金を兵吾に押し付けることに成功した。しかも帰りは自転車付きだ。
店内の雰囲気が苦手という兵吾を外に置いて僕は店に入った。ショーウインドウを確認し、とりあえず財布にも優しい定番商品であるシュークリームを四つ買うことに決めて、女子高生や主婦の列に並んで待つ。
待つことしばし。僕の前の列があと一人になったときだった。
(――あっ)
ふと視線を向けた先の商品に、僕は目を奪われた。偶然見つけただけの商品。けれどそれが必然だったかのような錯覚。まさに一目惚れだった。
「お待たせしました。お次の方どうぞ」
店員さんの声で僕ははっと我に返った。
お店の雰囲気に飲まれたのか、それとも兵吾に会ってたまたまお金が浮いていたからか。僕はつい言ってしまった。
「えーと、シュークリームを四つ。それとこちらの商品を――」
「んーっ。おいしぃ」
「はい。とっても幸せなのです」
綾莉先輩が柔らかそうなほっぺたを押さえながら笑顔になる。機嫌はすっかり直ったようだ。自分が買ってきたとはいえ、シュークリームは確かに美味しい。けれど僕は純粋にシュークリームの味を楽しめなかった。
今僕たちは、いつもは窓際に置かれている椅子を三つくっ付いた机に寄せて、兵吾を加えた四人で簡単なお茶会をしていた。
僕はさりげなく部室の扉に視線をやった。
部室に入って右側の戸棚の上に「てぃあら」のお菓子が入った箱が置かれている。さりげなく、シュークリームとおしぼりを出して置きっぱなしにしているけれど、あの箱の中にはまだもうひとつお菓子が残っている。
(しまったなぁ。アレだけ別の袋に入れてもらえばよかった)
とはいえ、店の外には兵吾がいたし、隠せるような鞄を持っていかなかったので、やはり袋を二つ持つわけにはいかなかった。そもそも、このあと一人でもう一度「てぃあら」に寄って買いに行けばなんの問題もなかったのに。
とはいえ、つい勢いで買ってしまったのは仕方ない。今は問題をどう解決するか、それが重要だ。
すぐに視線を戸棚からみんなに移す。
今ここで、あのお菓子が晒されるのはあまり望ましくない。みんながいる前で、あの箱から自分の鞄にお菓子を移すのは困難だ。空き箱を捨てるふりをして、お菓子ごと箱を持って部室を出て、教室にでもいったん隠すか? けれどゴミ箱が綾莉先輩のすぐ横にあるのにわざわざ部室を出るのは不自然に思われる可能性がある。兵吾やほづみにならともかく、綾莉先輩に気付かれる恐れはある。
よし。ならば逆転の発想だ。
お菓子を外に持ち出すのではなく、ここにいる全員を部室から追い出すのだ。
「あー。美味しかった。けどシューがはみ出て手が汚れちゃったかなー」
僕はとてもさりげなくそうつぶやいて、綾莉先輩の前の机に置いてあるティッシュ箱を手に取った。
「あっ――」
何か物言いたげな綾莉先輩の視線を受けながら、僕はティッシュを抜き取り抜き取り抜き取り、手を丁寧に拭く。ついでに唇回りも拭く。さらにおまけに机の上も……とやっていたら、箱の中からティッシュが切れてしまった。
「あ、ちょうど無くなっちゃいましたねー」
僕はとてもさりげなくそうつぶやいて、空になったティッシュ箱をゴミ箱へと捨てた。
ちらり視線を綾莉先輩に向けると、さっきまでの幸せ顔が一変。甘いものが全世界から消えてしまったかのような、絶望的な顔をしていた。
「あの、私、お手洗いに行ってくるのです」
しばらくして、そわそわしていた先輩がそういって立ち上がった。
「あ、綾莉さんが行くなら。じゃああたしも」
ほづみも立ち上がる。
二人は並ぶようにして部室を出て行った。
よし。予想以上に上手くいった。花粉症の綾莉先輩にとって、ティッシュ箱は命綱のようなもの。無くなれば当然補充に動くはずだ。すると女の特性で、なんとなくほづみが付いていく、完璧だ。
後は兵吾だけど、これは問題ない。
「ねぇ。兵吾。ジュース買って来て」
「ああ。……って何で俺がっ」
「気が利く男ってことで、ほづみへのポイントアップ」
「行ってくる」
女二人から遅れること一分弱。あっさりと兵吾も部室を出て行った。
三人のうち誰が一番初めに戻ってこようとも、一分もあれば十分だ。
「よし――」
僕が戸棚の上の箱に手を伸ばしたとたんだった。
廊下に気配がしたと思ったら、ノックもなしにがらっと一気に開かれた。
馬鹿な。彼らが帰ってくるには早すぎる。
慌てて手を引っ込めて目をやると、元気そうなショートカットの女の子が跳ねるように立っていた。
「あーやっぱりいた。副会長。橋本会長がお呼びですよー。部活ばっかで遊んでないで仕事してくださいーって」
彼女は新一年生の中島さとみちゃん。入学したばかりだというのに、もうこうやって生徒会の仕事をしている。まるで去年の誰かさんを見ているようだ。
「心外だね。遊んでばかりって、橋本会長に言われる筋合いはないんだけど」
「でもでも、会長命令は絶対ですよ。ほらほら、機嫌を損ねないうちに早く行きましょう。何か上原せんぱいに急用があるみたいですよー」
さとみちゃんはなぜか嬉しそうに僕を急かした。
まぁ僕は生徒会執行部の一員でもあるわけで、会長命令とあれば、行かないわけにはいかない。
さとみちゃんにばれない程度に、ちらりとお菓子の箱に目をやる。
彼女は扉を開けたまま廊下に立って僕を待っている。お菓子自体なんとなくさとみちゃんに見られたくない。隠すためにはいったん扉を閉める必要があるけれど無理そうだ。
「分かったよ。今顔を出すから」
仕方ない。そのままにしておこう。急用がなんだか分からないけれど、上手くいけば綾莉先輩たちより早く戻ることができるかもしれない。
結局僕は置き手紙を残して、さとみちゃんとともに部室を後にした。
「……まさか仕事が書類探しだとは思いませんでしたよ。だから普段からしっかりと机の上は整理するようにと言っていたのに……」
会長の机を漁りながら、僕は愚痴を言った。
「整理した君が一番良く分かっているだろうと思ってね」
当の会長が、普段は僕が使う席に座ってスポーツ新聞を読みながら答えた。
「……整理した状態のままだったら、何の問題もなかったんですけどね。最上級生としての自覚はないんですか」
「あえて仕事を与えることで後継を育てるのも立派な仕事だと思うのだよ」
「またそれですか……」
せっかく部活でぼけらぴーできると思っていたのに、いろいろ面倒な日だ。
生徒会室には珍しく他にも人がいたけれど、みな僕たちのやり取りに慣れているのか、おのおの仕事をしていて手伝ってくれそうにもない。ただ一人、生徒会に入って間もないさとみちゃんがおろおろとしていた。
「あの、上原せんぱい、手伝いましょうか」
「いや大丈夫だから」
「中島さんは何も気にすることはない。上原君は、美崎さんとの至福のひと時を邪魔されて気が立っているだけだよ」
「なに訳のわからないこと言ってるんですかっ」
「えー。でも私が行ったときは一人でしたよ」
「なるほど。ではどんな様子だったのかな」
「えーとですね……」
何、話しているんだか……
あれこれと勝手なことを話している二人を無視して、僕は心を無にして一心に書類を探す。なんかおかしな表現かもしれないけれど、それくらい頑張っているということだ。
「うむ。そのようだから、君には仕事を頼もう」
会長がさとみちゃんを呼び寄せてなにやら話している。さとみちゃんは「はいっ。任されましたっ」と生徒会室を出て行った。
まぁ仕事があった方が楽だというのは、僕も分からないでもない。でも会長が勝手になくした書類を探すという仕事はどうかと思う。
――あっ、あった。
さとみちゃんが出て行ってから、かなり経ったころ、ようやくお目当ての書類を見つけた。会長の机にあったはずなのに、どうして去年の見積書ファイルと一緒に綴じられているのだろうか。……謎である。
「うむ。確かに。これで仕事が捗る」
「じゃあ、僕は行きますね」
時計を見た。もうみんなはとっくに戻ってきている頃だろう。はたして、お菓子は無事だといいけれど……
扉を開けたら、ちょうどさとみちゃんと鉢合わせした。
「あっ……上原せんぱい……っ」
「さとみちゃん、お疲れ。じゃあ後は会長のお守りを頼んだよ」
僕は驚いた様子のさとみちゃんに軽く声をかけて、部室に向かった。
携帯電話を見ると、部室を出てからちょうど三十分たっていた。他の三人はどうしているだろうか。もしかして、もう帰ってしまったかな。
「あ、お帰りー」
部室には三人とも残っていた。兵吾とほづみは向かい合って、部室にあるオセロをしながら談笑していて、その横向かいの席に座った綾莉先輩は、オセロ勝負を見ているのか見ていないのか、顔を右に左へと傾けて、ときおりあらぬところに視線をさまよわせていた。
「左の鼻を上にしていると、左の鼻から息が通るのです。代わりに右の鼻が詰まりますが、今度は右の鼻を上にするように顔を傾けていると、右の鼻から息が通ります。これを繰り返すことで鼻の空気の通りを正常に保ち、鼻水が出るのを防いでいるのです」
僕の視線に気づいて、綾莉先輩が言った。
先輩が意味のある行動をしていることが意外だったけれど、さすがにこれ以上拗ねられるのは面倒なので黙っておいた。寸前まで出かかったけど。
ちなみに先輩の机の上には、トイレットペーパーが一ロールと、ティッシュ箱がそれぞれ置かれていた。
僕は先輩から視線を逸らしつつ、さりげなく戸棚の上を見た。よかった。箱はそのまんまだ。……とほっとしたのもつかの間。
「なっ――」
箱の中のお菓子が消えていた。
書いているときはまったく気づかなかったのですが、米澤穂信先生の小市民シリーズの『シャルロットだけはぼくのもの』の影響が色濃く出ていますね。とても比べられるレベルでないので恥ずかしいですが。
探偵側が犯行を企てるという緊張感が好きです。