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さすがに砂糖壺は借りずに、まな板と包丁と使うかわからないけれどみじん切りされた玉ねぎを調理部に返して、僕は部室に戻らず図書室に向かった。
ここはもう一度定番で勝負。本で感動大作戦だ。
まぁ、たまねぎのみじん切り並みにオーソドックスだけれど。
定番のパトラッシュの話から、若い女性向けの悲恋物など、思いつく限りの本を借りた。
部室に戻るなり、両手に抱えた本を、どさっと先輩の机の前に置いた。
「こんなに読めないのです」
「ふっ。敵前逃亡ですか」
もっともなお言葉に挑発して返す。
それが効いたのか、綾莉先輩は本の山から一番文字が大きそうな本を手にとって読み始めた。僕も適当な本を読んでみる。
しばし時間経過。
先に読み終わったのは、綾莉先輩の方だった。ぱたんと本を閉じて机の上におく。先輩は平然としていて、涙ぐんでいる様子もない。
僕の視線を受けて、綾莉先輩はなぜか悪人風に胸を張って答えた。
「ふっ。読者を泣かせよう、感動させようと思って書かれた作品を見ると、逆に泣けないのです」
「ああ、それ、なんかわかる気がします」
負けず嫌いというか。製作者の意図につられるのが嫌というか。
だがこの作戦には一の矢だけでなく、二の矢も用意されている。
ずばり貰い泣き作戦だ。僕は次の本を物色している先輩をちらちらと見つつ、本に集中する。
けれど……
うーん。さっきの先輩じゃないけれど、泣こうと思って本を読んでみると、意外と泣けないものである。それに、先輩に見られているのも恥ずかしいし。
僕は先輩の視線をごまかすかのように言った。
「先輩って、目の前で人が殺されても平然としていそうですよね」
「失礼なのです」
さすがに気分を害したようだ。
「気絶する自信があるのです」
「そうですねー」
むぅ。さすが泣かせてくださいというだけのことはある。強敵だ。
さて次の手はどうするか、僕が真剣に悩んでいるのを、先輩が楽しげに見ている。
思わず皮肉でも言ってやる。
「泣くという割には、なんか楽しそうですね」
「はい。こうやって佐以くんとお話しするのは楽しいのです」
ストレートな言いようにドキッとした。
「一人でぼんやりとするのも大好きですが、佐以くんが部室に来るようになってから、こうやって色々お話しするのも楽しみになったのです」
もともと一人でいる先輩のもとに押し掛けたようなものだから、心の片隅ではもしかして迷惑がられているのではないだろうか、とも思っていた。それだけに先輩の言葉を聞いて悪い気持ちはなかった。――というより、むしろ嬉しいというか。
けどそれをそのまま返すのは照れくさいし……と考えて、急に一つの方法が頭に浮かんだ。
「――僕は迷惑ですけどね」
「はい?」
「ですから。迷惑って言ったんです。面倒です。ぶっちゃけ、会長命令で仕方なく付き合わされているのが現状なんですよ。それなのに毎日毎日振り回されて、サイアクです」
ぽかんとしている綾莉先輩に向け、さらに続ける。
「本来なら先輩の顔も見たくないですけど、仕方なく来てやってる、ってところですかね?」
心にもないことだけど、これはこれで言っていて意外と楽しい。
今なら、どんな切り返しが来ても華麗に切り捨てられそうな気がする。さあ先輩はどう出る? さっきからあまり反応ないけど。
「どうしたんですか。もしかしてショックで声も出ないんですか。それと――」
も、の形で口を開けたまま、僕は固まってしまった。
綾莉先輩の大きな瞳が、いつもより頻繁に瞬きしている。そしてそのたびに、目尻の辺りにキラキラとした雫が浮かび上がってきているような……
「……あ、綾莉先輩……?」
僕の問いかけに、先輩がはっと我に返った。その途端、瞳に溜まった雫が頬を伝って落ちた。
「――痛いです。目にごみが入ったのです」
綾莉先輩はやや乱暴にごしごしと目じりを手で擦って言った。
「……あ、あぁ……それは痛いですよね。大丈夫ですか?」
先輩は何も答えず、無言でこくこくと頷いた。
そっか。それはさすがに仕方ない。痛くて自然と涙が出てしまうのは分かる。とはいえ、これは「痛い」だから、泣かせたにはカウントされない。
先輩を泣かせたことにならなかったにもかかわらず、どこかほっとしている自分がいた。
「あの、嘘ですからね。さっきの」
目をいまだにごしごししている綾莉先輩は聞いているのか分からないけれど、同じように無言でこくこくとうなずいた。
さっきまでの変なテンションはどこへやら、なんかとても気まずい。
「……僕、何か飲み物を買ってきますね」
そう言って、僕は半ば逃げるように部屋を出た。
「……ふぅ」
自販機でジュースを買って部室に戻りながら、僕の口から思わず空気が漏れた。なんかまだ部室に戻るのは気まずい。どうせならジュースだけじゃなくて、購買で甘いお菓子でも買ってくれば良かったかな。そうすれば、少しでも先輩の機嫌が良くなるかもしれないし。
そんなことを考えながら重い足取りで階段を登りきると、右手にある調理部の部室から、藤沢さんがひょいと顔を出した。
「あ、上原くん。ちょうど良かった。さっきはごめんねー。たまねぎ冷やしちゃって。涙、出なかったでしょ」
「い、いえ……」
やっぱり。玉ねぎを貰うとき微妙な顔をしていたのは、その原理を知っていたからなんだろうs。
「でね、お詫びと言っちゃなんだけど、これおっそわけー」
そう言って、藤沢さんがちっちゃなお盆を僕に手渡した。
「わっ。ありがとうございます」
作っていたお菓子はケーキだけじゃなかったみたいで、お盆には、一口サイズのプチシューが、六個載せられていた。
甘いもの。綾莉先輩が喜びそうだ。
僕はバランス崩さないようジュースとお盆を持って部室に急いだ。
「美味しいのです」
プチシューをぱくりと口に運んで、綾莉先輩が満面の笑みを浮かべた。
僕もひとつ手にとって食べる。確かにシュー生地もしっかりしていて「てぃあら」のみたいに美味しい。
僕がプチシューの余韻に浸っていると、ふと綾莉先輩が僕の顔をちらちらと見ていることに気づいた。
僕が視線を向けると、先輩はどこかもじもじとした様子で言った。
「あの……さっき涙が出たのは目が痛かったからなのです」
「は、はい」
「それと、その……佐以くん。先程の発言は……」
「あ、はいっ。もちろん、嘘ですからっ」
やっぱりさっきのことを気にしていたのだろうか。
僕の答えだけ聞いた綾莉先輩は、どこか照れくさそうにプチシューを一気に口に入れた。そんな綾莉先輩に対して、僕は間髪いれずに意気込んで言った。
「綾莉先輩がお喋りして楽しむことに新鮮さを感じているように、僕も、せかせかした生活を送ってきた自分からすれば、ぼけーっとした空間は、新鮮でとても楽しいんです。綾莉先輩と出会えてよかったと思っています」
さすがに言っていて、ちょっと恥ずかしかったけど言い切った。
先輩の反応がない。恐る恐る顔を覗き込んでみて、僕は思いっきり戸惑った。
綾莉先輩が手で口を覆っていた。
ぎゅっと閉じられた瞳から、大粒の涙が流れて頬を濡らす。
――泣いている。これって、まさか、嬉し泣き?
いや。というより、もしかして……
僕はお盆の上に残っている三個のプチシューの中から、一個を選んで手に取って、シューの外側だけ軽くかじって中身を見てみた。
「うゎぁ……」
――予想的中。
生クリームやカスタードクリームで白か黄色いはずの中身が……緑一色だった。麻雀の役満ではない。
なんとなく想像できたけれど、ちょんと舌の先で確認する。鼻の奥がつんとて、涙が浮かんできた。わさびである。少しでもこれなのに、丸ごとぱくっと食べてしまった綾莉先輩の衝撃は……想像しがたい。
「佐以くん……ちょっとそこに座りなさい」
「えっと……もう座っていますけど」
珍しいというより、初めて聞いたかもしれない命令口調。涙で潤んだ瞳がマジで、かなり怖い。
「――やっぱり佐以くんは、私のことが嫌いなのですね。陰湿ないじめなのです。テロリズムなのです」
「いやいや。僕も騙されたんですって。たまねぎを借りたとき、綾莉先輩を泣かそうとしているのが分かって、それで調理部の人が気を効かせてくれて作ったんですよ」
「だからって、せっかくの甘くて美味しいお菓子にこのような行為をするとは、冒涜なのです。お腹に甘いカスタードクリームではなく、わさびを詰められたシューさんの気持ちを考えると、悲しくなってしまうのです」
――シューさんって。
心の中のツッコミを何とか抑える。
ぽろぽろと涙を流しながら綾莉先輩の演説は続く。
それを半ば聞き流しながら、僕はふと気づいた。
「あの、先輩、もしかして今、悲しくて泣いてるんじゃないですか?」
「あ――」
我に返った先輩がそっと目尻を拭って、涙に濡れた指先を見た。
「……無残な姿になってしまったプチシューのことを考えていたら、自然と泣いてしまったのです」
「わぁ。良かった。悲しくて泣けることが分かって、これにて一件落着ですねー」
僕は大げさに喜びを表現した。
「――それはそれで、お菓子のことは別なのです」
「うっ……」
けれどやっぱり、どこかスイッチが入ってしまった綾莉先輩には通じなかった。
「良いですか。古来より人間は甘いものを作り出すことに命を燃やし続けたのです。遠く西洋から、反対側の日本まで、数多の職人さんが……」
それからも、僕は長々と説教された。僕だって被害者なのに。
けれど不思議と綾莉先輩と近付けたような気がした、とある秋の日だった。




