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窓の外に冷たい風が吹き荒れている。宙に舞った枯れ葉が四階からも見られた。
秋も深くなり冬が間近と迫った日、僕は哲学部の部室で宿題をしていた。
部室では他にも普通に勉強したり生徒会の仕事をしたり、そしてぼけらぴーしたりと、まぁなぜかこの場所は落ち着くのだ。
綾里先輩はいたりいなかったりするけれど、今日は僕の向かいの席でぼけらぴーとしていた。
「綾莉先輩は携帯を弄ったりはしないんですか?」
宿題がひと段落したので、僕は気になったことを聞いてみた。
「はい。ぼけらぴーしていた方が楽しいのです」
楽しいんだ。
「いや。別にいいですけど……先輩は、携帯電話買わないんですか」
綾莉先輩と出会って間もないときは、持っていないと言っていた。あれから大分たつので、もしかして買ったのかなと思ったんだけど。
「いえ。買う予定はないのです」
きっぱりと言い切った。きっと、時間を潰せる携帯ゲーム機などは、ぼけらぴーするのには邪魔というか邪道なのだろう。
「ところで、宿題の方はもうよろしいのですか?」
「えぇまぁ。ひと段落しましたので。生徒会の仕事に加え宿題もいっぱい出されて、泣きたくなりますよ」
思わず愚痴がこぼれてしまう。
すると綾莉先輩は、何を思ったのか急に僕の顔をじっと見て言った。
「佐以くん、宿題がひと段落したようなので、ひとつお願いがあるのですが」
「はい。何ですか?」
「私を泣かしてください」
「……は?」
僕はきょとんとしてしまった。相変わらず唐突な人だ。
「今、佐以くんの言葉を聞いて思ったのですが、私が最後に泣いた記憶にあるのは三歳のとき。お気に入りの人形を捨てられ号泣したときなのです。あれで涙が枯れ果てたのか、それ以来、血はありますが、涙はない冷徹な女になったのです」
「冷徹……ですか」
僕は宿題をしていたノートを閉じて、綾莉先輩の顔を見た。目の前のぽけーとした先輩の表情は、どう見ても冷徹のイメージからかけ離れている。
「はい、冷徹なのです。どれくらいかと言いますと、バスのボタンを押すのを楽しみにしている子供の目の前で平然とボタンを押せるくらいの冷徹さなのです」
「うゎぁ。結構アレですね」
「はいなのです」
まぁ。それが冷徹かはさておき、確かに綾莉先輩が泣いている姿は思い付かない。
「親や友達が亡くなったら、悲しいとは思いますが、号泣できるかと問われると首を傾げてしまうのです」
そう言って先輩は律儀に首をかしげた。
幸いなことに家族・友人ともに健在なので、僕もそういう体験をしたことないけれど、何となく分かる気がする。
「だから、泣かしてください……と」
「はい。自分が泣ける女なのか、確かめてみたいのです」
理由はともあれ、泣かせてくださいというお願いには、不思議と嗜虐心がそそられた。周りの人に尽くして「いい人」をしていた僕としては、人を泣かすということに、なんとも倒錯的な魅力があった。
「ただし、痛いのとえっちなことはだめですよ」
「し、しませんよ」
えっちなことはさすがに考えていなかったけれど、痛いのは、頭の片隅で考えていた。残念ながら、足の小指をたんすの角にぶつけて悶絶作戦――は、やる前から終わってしまった。
気にしているようだけど、貧乳と連呼するのは……えっちなことになるのだろうか。僕はそっと綾莉先輩の胸部に視線を向ける。制服を押し上げる胸の膨らみは決して大きくはないけれど、別に卑下するほどではないと思う。
って、じっくり見てしまったことを恥じて慌てて視線を逸らす。綾莉先輩は気づいていないようできょとんとしてる。
「分かりました。それでは準備してきます」
綾莉先輩に見られながら泣かす方法を考えるのは難易度が高かったので、いったん席を外すことにした。
僕は先輩の期待のまなざしを背中に感じながら、部室を出た。
「さて、どうしようかな……?」
軽く口に出して頭の中で整理する。
先輩の意図を汲めば、「悲しい」ことで泣かすのがベストだろうけど、先輩が指定したのは、えっちなことと痛いことがNGなだけで、あとは自由だ。
となれば、ここはオーソドックスな方法でいってみるか。
僕は廊下をまっすぐ歩いて、突き当たりの部屋に向かった。調理実習室である。今ここでは、調理部が活動しているはずだ。
僕は扉をノックして開けた。
「失礼します。突然すみません」
「あれぇ、上原くんじゃない?」
突然の訪問者に、活動中の部員の視線が集中する中、運がいいことに、生徒会で一緒に仕事をして顔見知りの藤沢先輩がいてくれた。そういえば、調理部の部長だか副部長だかをやっているんだっけ。
藤沢さんは、手を止める部員たちにてきぱき指示をして、僕の元に来た。
「どうしたの? 会長の気まぐれ召喚命令?」
「いや。そうではなくて、借りたいものがあるんですけど」
「いいわよ。なに?」
あっさりとOKをもらえた。
「えーと、包丁とまな板。それに玉ねぎを一つ」
「包丁とまな板は良いとして、玉ねぎ? まぁ、常備してあるからいいけど、でも玉ねぎはちゃんと返してくれるのかなぁ?」
うっ。
「えっと、刻んだので良かったら……」
「うーん。ケーキにはちょっと合わないかしらねぇ」
「ですよねぇ。すみません。あとで買って返しますんで」
調理部ではケーキを作っていた。時期的にそろそろクリスマスケーキだろうか。ちなみにこのあたりでは東京と違って、ホワイトクリスマスが当たり前で、ドラマや漫画などでホワイトクリスマス云々遣っていると、ああやっぱり田舎なんだなと思ってしまう。
「あはは。ごめんごめん。いいって。一個ぐらい。ちょっと待っててね」
生クリームの香りが漂う中、藤沢さんは冷蔵庫から玉ねぎをひとつ取り出して、包丁とまな板と一緒に渡してくれた。
「ありがとうございます」
「いいわよ。でも玉ねぎだけみじん切りして何をするの?」
「えーと。実は……」
僕が事情と目的を話すと、藤沢さんは少し苦い顔をした。
「あ……やっぱり、食べ物をこういうことに使うのはあまり良くないですか?」
「いや、みじん切りにしても冷蔵庫で保管しておけばいろいろ使い道あるからいいけれど……」
「……ん?」
どうも歯切れの悪い藤沢さんの言葉に首をひねりつつも、僕は調理部を後にした。
「佐以くん、戦士みたいなのです」
部室に戻って開口一番、綾莉先輩が僕を見て言った。
「……それって、包丁が剣で、まな板が盾みたいなものというわけですか?」
先輩が真面目な表情でうなずいたので、「調理人です」とはっきり否定しておいた。
まな板と包丁を先輩の前の机の上に置き、ウエットティッシュで手を拭く。
綾莉先輩はまな板の上に置かれた玉ねぎをつんつん指で突っついて遊んでいる。
「なるほど。玉ねぎのみじん切りですね。けれど血はあるけど涙はない冷徹な女である私には効かないのです」
その言いまわし、気に入ったのだろうか。
それはさておき、綾莉先輩は、机にあごを乗せるように、ずいっと顔をまた板の近くまで寄せてきた。よしよし。逃げようとしなかったことは偉い。
僕はたまねぎを手にとって皮をむく。むいた皮をまな板の端に寄せて、白くまん丸な玉ねぎをまな板の真ん中に乗っけた。
指先を丸くして包丁を入れる。先輩の丸い瞳にじっと見つめられながらだと妙に照れくさいけれど、それでもタッタッタと小気味よい音が響く。うーむ。我ながらよい出来栄えだ。
けど……あれ?
先輩泣かして自分も泣く、ってのを覚悟していたんだけど、不思議なことに、ぜんぜん目が痛くならない。綾莉先輩も平然としている。
戸惑う僕を見て、まな板に顔を近づけていた綾莉先輩が上目遣いに言った。
「たまねぎ冷たかったのです。冷蔵庫で冷やしてありませんでしたか? 玉ねぎ冷やしておくのは、切るとき目が痛くならない対策なのです」
「そ、そうなんですか」
てっきり腐らないためかと思ったけれど、そういうわけだったのか。さすが調理部。つまり綾莉先輩は玉ねぎを触ったときにそれに気付いたから、平然と近寄って来たというわけか。――くっ、完敗だ。
落ち込む僕を見て、綾莉先輩が励ますように言った。
「けれど食べ物を使うという手は良かったのです。――甘いものを食べさせて、嬉し涙を誘うのは非常に効果的かもしれないのです」
「……やりませんよ」
涙のかけらも見えない先輩の、期待した眼差しから目をそらした。
包丁とまな板を返すついでに、調理部から砂糖壷でも借りてこようかな。




