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悪行ノートと赤ペン殿下

婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノート、なぜか毎朝赤ペンで添削されています ~犯人は冷徹な王太子殿下でした~

作者: 富益 啓
掲載日:2026/10/04

 婚約破棄されたい。

 できれば、なるべく早く。可能なら、今学期中に。


 王立セレスティア学園の二年生、リーゼロッテ・ヴァイスフェルト侯爵令嬢――つまり私がそう決意したのは、十七歳の春。階段から盛大に転げ落ちて、前世の記憶を取り戻した翌朝のことだった。


 前世の私は、日本という国で働く、くたびれた会社員だった。趣味は寝る前に読むネット小説。特に好きだったのは「悪役令嬢もの」。

 そして目覚めた私は、気づいてしまったのだ。


 金髪縦ロール。吊り目。王太子の婚約者。成績優秀で口が悪い。

 ――これ、完全に悪役令嬢のスペックでは?


 しかも今年、学園には平民上がりの男爵令嬢が編入してきている。名前はミア・ローゼ。ふわふわの栗色の髪に、春の陽だまりみたいな笑顔。

 はい、ヒロイン確定。


 前世で読み込んだ数百冊の知識によれば、この先の展開はだいたい二択だ。

 ヒロインをいじめて断罪され、処刑か国外追放か修道院送り。

 あるいは、断罪を回避しようと奮闘するうちに、なぜか王太子に溺愛される。


 どちらも嫌だ。


 処刑は論外として、溺愛も困る。

 私の婚約者、王太子ジークハルト殿下は「氷の王子」と呼ばれるほど冷徹(れいてつ)な方で、婚約して五年、一度も笑顔を見たことがない。定例のお茶会での会話は「ああ」「そうか」「問題ない」の三語でローテーションしている。

 あの方の妃になって、一生王宮で胃を痛めて暮らすくらいなら。


「私、辺境でパン屋をやりたいのよ……」

「お嬢様? まだ頭を打った影響が?」


 侍女のアンナが、心配そうに私の額へ手を当ててくる。大丈夫、正気よ。むしろ前世の記憶のおかげで、人生で一番冷静だ。


 目指すは、ほどほどの婚約破棄。

 処刑されるほどの悪事はせず、けれど「こんな女とは結婚できない」と思われる程度に意地悪をする。そして円満に破棄され、北の辺境にある祖母の領地ノルトマルクで、焼きたてのパンと薬草茶に囲まれて静かに暮らすのだ。


 私は新品のノートを開き、表紙にでかでかと書いた。


 『悪行(あくぎょう)ノート』


 ちなみにその日の午後、階段から落ちた私のお見舞いに、殿下が侯爵家まで来てくださった。


「……具合は」

「おかげさまで、問題ありません」

「そうか」


 以上。滞在時間、およそ三分。

 お見舞いの花束は、なぜか私の好きな白いマーガレットばかりだった。たぶん、侍従が適当に選んだのだろう。あの方が私の好みなんて知っているはずがない。


 帰り際、殿下は扉の前で一度だけ振り返った。何か言いたそうに口を開いて、閉じて、結局「お大事に」とだけ言って去っていった。


「ほら、アンナ。あれが私の婚約者よ。五年間ずっとあの調子なの」

「お嬢様。殿下、お嬢様が落ちたと聞いて、公務を放り出して馬で駆けつけたそうですよ」

「三分で帰ったけど?」

「……そういうところだと思います」


 何が「そういうところ」なのかは、よくわからなかった。


 ――この一冊のノートが、まさかあんなことになるなんて。


 ◇


 悪行その一。噴水作戦。


『ミア嬢を中庭の噴水に突き落とす。

 ※ただし水深は膝まで。季節は春。怪我はさせないこと』


 我ながら完璧な計画だ。悪役令嬢の伝統芸能でありながら、安全面にも配慮している。


 ところが計画を書いた翌日、事件が起きた。


 昼休み、中庭のベンチで計画を読み返していたら、向こうの渡り廊下で一年生が階段を踏み外しかけたのだ。思わず駆け寄って腕をつかみ、怪我がないのを確かめて――戻ったときには、ベンチの上のノートは消えていた。

 あんなものを誰かに読まれたら、婚約破棄どころか普通に退学である。


 ところが翌朝。ノートは何事もなかったかのように、教室の私の机の中に戻っていた。

 学園の机には一つずつ鍵がかかる。そして私は、その鍵をかけて帰ったはずだった。


「……鍵、かけ忘れたのかしら。親切な方が届けてくださったのね。読んでいないといいけど……」


 ほっとしてページを開いた私は、固まった。

 噴水作戦の横に、見覚えのない赤い文字が書き込まれていたのだ。


『添削:春先とはいえ水は冷たい。濡れたまま放置すれば風邪をひく。

 →乾いたタオルと、温かい紅茶を用意すること』


「……誰?」


 几帳面(きちょうめん)で、少し右上がりの、とても綺麗な字だった。

 怖い。普通に怖い。


 けれど言われてみればそのとおりだ。怪我はさせたくないし、風邪もひかせたくない。悪役令嬢にも最低限の良心はある。


 そして放課後。


「あら、ごめんあそばせ!」


 噴水の縁に腰かけ、水に落ちたハンカチへ手を伸ばしていたミア嬢の肩を、私は横から、えいっと押した。

 つるりと縁から滑り落ちて、ばしゃん、と派手な水音。膝までの水にぺたんと尻もちをついたミア嬢が、ぽかんと私を見上げる。


 よし。あとは高笑いして立ち去れば――。


「……ほら、早く上がりなさい。これで拭いて。紅茶も飲みなさい。冷えるから」


 気づけば私は、タオルで彼女の髪をわしわし拭いて、保温瓶の紅茶を押しつけていた。

 添削のせいだ。全部、赤ペンのせいだ。


 ミア嬢は紅茶をひと口飲んで、ぱあっと顔を輝かせた。


「リーゼロッテ様……! 噴水の縁に毒蛇がいたんですね!? 私の手のすぐ先に! だから突き飛ばして助けてくださったんですね!?」

「いないわよ、蛇なんて」

「ほら、そこに!」


 いた。

 水草の陰を、緑色の細い蛇がするすると逃げていく。

 ……いたわ。本当に。


「一生ついていきます、お姉さま!」

「お姉さまはやめて」


 しかも騒ぎを聞きつけて、なぜか殿下まで中庭に現れた。

 銀の髪に、氷みたいに薄い青の瞳。今日も見事な無表情だ。


 殿下はびしょ濡れのミア嬢と、タオルを持った私を順番に見て、静かに言った。


「リーゼロッテ。君は相変わらず、優しさを隠すのが下手だな」

「隠してません。悪意を隠していないだけです」

「そうか」


 そうか、で流された。

 なお、そのとき殿下の口元がほんの少しだけ緩んでいた気がしたのだけれど、たぶん春の陽射しのせいだと思う。


 ちなみに私は、ノートを寮には持ち帰らない。寮の部屋は毎朝アンナが掃除してくれるので、うっかり見られたら大変だからだ。鍵のかかる教室の机こそ、最も安全な隠し場所なのである。

 ……その「最も安全な隠し場所」に、ノートは勝手に戻ってきたわけだけれど。


 その日の放課後、私は誰もいない教室でノートを開き、赤い文字の下に、震える手で書き足した。


『あなたは誰ですか。勝手に書き込まないでください。添削は禁止です』


 机に戻して、鍵をかけて、引き出しを三回引っぱって確かめた。これで懲りるだろう。

 翌朝。教室の机から取り出したノートには、やっぱり赤い文字が増えていた。


『却下』


「……短っ!」


 たった二文字。しかも、やたらと達筆。

 思わずノートを床に叩きつけそうになって、やめた。表紙が傷むのは嫌だ。私は物を大事にする悪役令嬢なのである。


 ◇


 その後も、赤ペンは止まらなかった。


 悪行その二。教科書隠し作戦。


『ミア嬢の魔法学の教科書を隠す。

 ※試験前は避けること。勉強に支障が出ないよう、三日以内に返却』


『添削:彼女の教科書は兄弟のお下がりで、表紙が取れかけている。

 →隠すついでに製本し直しておくこと。製本屋は学園通り三番地の「青い栞(しおり)」がよい』


 なんでそんなこと知ってるの?


 今度こそ添削は無視する。私は悪役令嬢なのだ。正体不明の赤ペンに指図されるいわれはない。

 そう決めて、放課後、ミア嬢の教科書をこっそり抜き取った。


 手に取った瞬間、表紙がぺろりと剥がれた。

 中を見ると、取れかけたページが何枚も、糊と糸で不器用に繕ってある。余白には、兄弟の誰かが書いたらしい幼い落書きと、ミア嬢の小さな字で「ぜったい合格する」。


 ……これを隠して、三日後に、もっとボロボロにして返す?

 それはもう悪役ではなく、ただの人でなしである。悪役令嬢には悪役令嬢の美学というものがある。


「……製本屋、どこだったかしら。学園通り三番地」


 結局、私は製本屋へ教科書を持ち込み、新品同様になったそれを、三日後にこっそり机へ戻した。

 添削に従ったわけではない。私の美学に従っただけだ。結果が同じなのは、たまたまである。

 翌日、ミア嬢は涙目で教科書を抱きしめて、私のところへ飛んできた。


「お姉さまですよね!? 表紙の内側に『ヴァイスフェルト侯爵家御用達』って刻印が入ってました!」

「製本屋ぁ……!」


 悪行その三。お茶会いびり作戦。


『お茶会でミア嬢の作法をねちねち指摘し、恥をかかせる。

 ※人前で泣かせるのは可哀想なので、指摘は小声で』


『添削:彼女は来月、伯爵家の茶会に招かれていて作法に不安がある。

 →指摘は正確に。ついでに焼き菓子の取り方も教えること』


 もはや添削というより、指導案である。


 結果、私はお茶会で小一時間、ミア嬢に正しいカップの持ち方からスコーンの割り方までをねちねち教え込んだ。翌月の伯爵家の茶会で、ミア嬢は「所作が完璧」と絶賛されたらしい。


「全部お姉さまのおかげです!」

「違うの。私はいびったの」

「はい! とっても丁寧にいびっていただきました!」


 だめだ、この子、無敵だ。


 ちなみにミア嬢は最近、やたらと私の後ろをついて回る。そして時々、右手の人差し指の先が赤く汚れている。


「それ、どうしたの?」

「えっ? あ、あの、苺ジャムです!」


 慌てて背中に手を隠すミア嬢。苺ジャムにしては、妙にインクっぽい色だった気がするのだけれど。


 そして、殿下である。

 私の悪行が善行に化けるたびに、殿下はどこからともなく現れて、例の無表情で言うのだ。


「教科書を製本し直したそうだな。君らしい」

「ミア嬢に作法を教えたと聞いた。面倒見がいい」

「先日の噴水の件、あの蛇は毒を持つ種だった。よく気づいたな」


 気づいてない。偶然です。


 極めつけは、婚約者同士の定例お茶会だった。

 いつもなら三語ローテーションで終わるはずのその席で、殿下はなぜか、私の手元をじっと見ていた。


「……君は、字が綺麗だな」

「はい?」


 私は招待状の返事を書いていたところだった。


「几帳面で、まっすぐだ。読んでいて楽しい」

「読んで……楽しい……?」


 手紙の文字を読んで楽しいとは、どういう感性だろう。


 殿下が焼き菓子を取ろうと、珍しく手袋を外した。

 その一瞬、右手の中指の内側――ちょうどペンだこのあたりに、洗い落としきれなかったような赤い色がうっすら残っているのが見えた。


「殿下、指が」

「ああ。公務の書類だ。訂正が多くてな」


 殿下はさらりと答えて、焼き菓子をひとつ取り、すぐに手袋をはめ直した。

 王太子ともなると、書類仕事も大変らしい。


 ――このときの私は、まだ何ひとつ気づいていなかったのである。


 ◇


 悪行その四。ダンス授業・足踏み作戦。


 ミア嬢への嫌がらせは、どういうわけか全部感謝されて終わる。ならば方針転換だ。殿下本人に嫌われればいい。


『ダンスの授業で、殿下の足を思いきり踏む。何度も踏む。

 「こんな粗忽(そこつ)な女は妃にふさわしくない」と思っていただく。

 ※ただし、殿下は来週剣術大会に出場されるので、骨は折らない程度に』


 翌朝、案の定、赤い文字が増えていた。


『添削:三拍目で君が左足を引けば、確実に踏める。

 →ただし、当日は乗馬用の硬い長靴で出る。骨は折れない。遠慮なく踏むこと』


「なんで踏まれる側が協力的なの!?」


 そして迎えたダンスの授業。

 殿下は本当に、つやつやに磨かれた乗馬用の長靴で現れた。ダンスの授業に。先生が二度見していた。

 私は殿下の手を取り、三拍目で左足を引き、全体重をかけて踵を振り下ろした。

 がつん、と鈍い音がした。


「……っ、痛い」

「えっ、殿下、大丈夫ですか!?」

「僕じゃない。君の足だ。長靴に負けている」


 そうだった。底の薄いダンスシューズで、石みたいに硬い革を力いっぱい踏んだのだ。跳ね返った衝撃が、踵から脳天まで突き抜けていた。

 痛いのは、私のほうだった。

 涙目になる私の腰を、殿下がさりげなく支えてくれる。それから、いつもよりずっと近い距離で、ゆっくりとステップを踏みはじめた。


「無理をするな。踏みたいなら、また今度踏めばいい」

「踏まれたいみたいな言い方しないでください」

「君にならな」

「はい?」

「……なんでもない」


 音楽の中で、殿下が小さく咳払いをする。

 気のせいだろうか。氷の王子の耳が、少し赤い気がした。


 結局その日の授業で、私と殿下は「最も息の合ったペア」として先生に褒められた。

 解せない。


 ◇


 さすがに一か月も添削が続くと、私も腹をくくった。


「アンナ。私、今夜、犯人を突き止めるわ」

「犯人、ですか?」

「ノートの赤ペンよ。幽霊か、妖精か、それとも私が夢遊病で書いているのか……」

「お嬢様の字ではありませんよ、あれ。お嬢様よりだいぶ達筆です」

「さらっと傷つくこと言わないで」


 調べた結果、書き込みが入るのは決まって、私が教室の机にノートをしまって帰った翌朝だった。

 つまり犯人は、放課後から朝までのあいだに、鍵のかかった私の机を開けている。


 その夜、私は寮をこっそり抜け出して、教室のカーテンの陰に隠れた。

 膝を抱えて、息を殺す。月明かりが、机の列を青白く照らしている。


 来るなら来なさい、赤ペンの怪人。


 一時間。

 二時間。


 ……そして、気づけば朝だった。

 しかも、寮の自分のベッドの上で。


「……っ!?」


 飛び起きた私の肩には、見覚えのない毛布がかけられていた。

 上等で、ずしりと厚くて、ほんのり柑橘の香りがする毛布だ。


「アンナ! 私、どうやって帰ってきたの!?」

「夜中に、寮母様と当直の侍女たちが、担架でお連れくださいました。教室で寝ていらしたそうで」

「担架!?」

「誰が見つけたのかは、寮母様も『さる高貴な方の護衛の方が』としか……。お嬢様、夜中に寮を抜け出すのはおやめください。私、心臓が止まるかと」

「……ごめんなさい」


 担架で運ばれる侯爵令嬢。想像しただけで顔から火が出る。悪役令嬢としての威厳が、木っ端みじんである。


 アンナが朝食の支度に出ていくと、入れ違いに、控えめなノックの音がした。

 扉を開けると、ミア嬢が布の包みを抱えて立っていた。


「おはようございます、お姉さま。寮母様から、お姉さまにお渡しするようにって預かりました」


 固く紐で結ばれた包み。ほどくと、中から出てきたのは――教室の机にしまってあったはずの、私のノートだった。

 ミア嬢がぱたぱたと去っていってから、震える指でページをめくる。


『添削:夜更かしは禁止。風邪をひく。

 犯人捜しは、昼間にすること』


「バレてる!!」


 思わず叫んだ。完全に見抜かれている。しかも寝ているうちに運ばれて、毛布までかけてもらっている。悔しいけれど温かい。温かいけど悔しい。


 さる高貴な方。

 毛布の柑橘の香りに、どこか覚えがあるような気がした。けれど、寝起きの頭では思い出せなかった。


 その日の昼休み、殿下がいつものように私の前に現れた。


「リーゼロッテ。顔色が悪いな。よく眠れなかったのか」

「いえ、ちょっと夜更かしを」

「夜更かしは禁止だ。風邪をひく」


 どこかで聞いた台詞だった。

 ……いや、まさか。


 まさかね。氷の王子が、夜中に婚約者のノートへ赤ペンを入れるなんて。そんな暇な王太子がいるわけがない。


 殿下から、ほんのり柑橘の香りがしたのも、たぶん気のせいだ。


 ◇


 昼間に捜せと言われたので、昼間に罠を仕掛けることにした。


 犯人は、私の計画を読んで添削する。ならば、絶対に添削しようのない計画を書けばいい。犯人が慌てて妙な書き込みをすれば、そこから正体がわかるかもしれない。


『計画:殿下に「大嫌いです」と言う。

 面と向かって、はっきりと。

 これなら確実に婚約破棄していただけるはず』


 書きながら、なぜか胸の奥がちくりとした。

 嘘だからだろうか。殿下のことは、別に嫌いではない。無口で、無表情で、何を考えているのかわからないだけで。


 翌朝、ノートを開く。

 そこには、これまでで一番短い添削が入っていた。


『却下。

 それだけは、添削では直せない』


 いつもの綺麗な字が、ほんの少しだけ震えていた。


「……何よ、それ」


 まるで、言われたら本当に傷つく人みたいな書き方じゃない。

 私はノートの上で指を止めたまま、しばらく動けなかった。


 結局、その計画は実行しなかった。

 犯人に同情したからではない。断じてない。……たぶん。


 ◇


 悪行その五。誕生日の贈り物・がっかり作戦。


 もうすぐ殿下の誕生日だ。婚約者として贈り物をしないわけにはいかないけれど、ここで「心のこもっていない贈り物」をすれば、殿下もさすがに愛想を尽かすはず。


『殿下の誕生日に、わざと安っぽくて地味な贈り物をする。

 「この程度にしか思われていないのか」と失望していただく。

 ※ただし、王家に対して失礼すぎない範囲で』


 翌朝の添削は、妙に熱がこもっていた。


『添削:王太子は宝石や美術品の贈り物に飽き飽きしている。最も地味で、最も安上がりなのは、手作りの品である。

 →焼き菓子を推奨する。柑橘の皮を刻んで入れたものなら、なおよい。

 →量は多めに』


「……なるほど」


 確かに、王族への贈り物が手作りのお菓子なんて、地味の極みだ。材料費は銀貨一枚もかからない。

 添削に従うのは癪だけれど、理にかなっているなら仕方がない。


 というわけで私は、寮の小さな厨房を借りて、オレンジの皮を刻み込んだ焼き菓子を焼いた。

 前世で、休日のたびにお菓子を焼いていた記憶がある。だから、手は勝手に動いた。量は多めに、とあったので、気づけば籠いっぱいになっていた。


 誕生日当日の午後。王宮の一室で、婚約者として祝いの挨拶をする内輪の席だった。

 きらびやかな贈り物の山の横で、私は布をかけた籠を差し出した。


「つまらないものですが」


 本当につまらないものだと、伝わってほしい。

 殿下は布をめくり、しばらく黙って中身を見つめていた。


「殿下、お召し上がりになるのでしたら、ただいま毒見役を」

「要らない」


 慌てて人を呼ぼうとした侍従を、殿下は短い一言で止めた。


「彼女が作ったものだ。毒見は要らない」


 空気がぴんと張りつめる。毒見を省くなんて、王族にとってはとんでもない規則破りのはずだ。

 ……いや待って。そこまで信用されると、悪役令嬢として立つ瀬がないのですが。


 殿下は一枚つまんで口に運び、ゆっくりと噛んだ。


「……問題ない」


 三語ローテーションの一語が出た。よし、がっかりしている。


 そう思った次の瞬間、殿下は二枚目に手を伸ばした。

 三枚目。四枚目。

 侍従が「殿下、晩餐の前ですので」と青い顔で止めに入るまで、殿下は無言で、一定の速度で、焼き菓子を食べ続けた。


「……あの、殿下?」

「問題ない」

「問題しかないと思いますけど!?」


 籠の中身は、半分以上なくなっていた。残りは侍従が「お部屋へ」と運んでいった。たぶん、今夜のうちに消える。


 そして翌朝。ノートには、添削とも感想ともつかない赤い文字が並んでいた。


『添削:大変美味しかった。

 →次回は量を二倍に。

 →昔食べたものと、同じ味がした』


「感想になってる!」


 思わずノートに突っ込んでから、最後の一行に首をかしげる。

 昔食べたもの? この赤ペンの人は、私の焼き菓子を、前にも食べたことがあるのだろうか。


 考えてもわからなかったので、私はひとまず、ノートの余白に小さく書き足した。


『添削の添削:二倍は多すぎます』


 翌朝、返事は一言だった。


『却下』


 ◇


 そして迎えた、卒業記念パーティー。


 厳密には卒業するのは三年生で、私たち二年生は在校生として参加するだけだ。けれど前世の知識によれば、婚約破棄イベントは卒業パーティーで起こると相場が決まっている。


 悪行ノートの最後のページには、一年かけて温めてきた最終計画が書いてある。


『最終計画:婚約破棄。

 卒業パーティーで殿下に、婚約破棄を宣言していただく。

 ※殿下の評判に傷がつかないよう、悪いのは全部私ということにすること』


 ここ数日、このページにだけは添削が入っていない。

 赤ペンの怪人も、ついに諦めたのだろう。


 喜ぶべきところだ。計画どおりだ。

 なのに、何も書き込まれていない白い余白を見ていると、妙に落ち着かなかった。


 朝、ノートを開いて赤い文字を探すのが、いつの間にか日課になっていた。

 「タオルを用意せよ」とか、「焼き菓子の取り方も教えること」とか。命令口調のくせに、どれも誰かを気づかう言葉ばかりで。

 読むたびに少し腹が立って、少し笑って、少しだけ――嬉しかった。


「……変なの。最後くらい、何か書いてくれてもいいのに」


 つぶやいて、慌てて首を振る。

 何を言っているのだ、私は。今日で全部終わらせて、辺境でパン屋になるのだ。


 きらびやかなシャンデリアの下。楽団の演奏が途切れた瞬間を狙って、私は殿下の前に進み出た。

 会場の視線が、一斉に集まる。よし、舞台は整った。


「ジークハルト殿下!」

「なんだ、リーゼロッテ」

「私はこの一年、ミア・ローゼ嬢に数々の嫌がらせをしてまいりました! 噴水に突き落とし、教科書を隠し、お茶会でいびり倒しました! こんな女、殿下の妃にふさわしくありません。どうぞこの場で、婚約破棄を宣言してくださいませ!」


 言った。言い切った。

 さあ、殿下。ここで「リーゼロッテ・ヴァイスフェルト、貴様との婚約を破棄する!」と――。


 会場がざわめく。


「噴水って、蛇から助けたって話だろう?」

「教科書、侯爵家の御用達で製本し直したらしいぞ」

「ミア嬢の作法を一から教えたのも、リーゼロッテ様よね」

「いびり倒したっていうか、面倒を見倒した……」


 なんでみんな知ってるの。


「……恐れながら、殿下。発言をお許しいただけますか」


 人垣の中から、ミア嬢が進み出た。お茶会で私が叩き込んだとおりの、完璧な淑女の礼。

 殿下が小さくうなずくと、ミア嬢は顔を上げ、震える声で、けれどはっきりと言った。


「リーゼロッテ様に、私は助けていただいてばかりです。いじめられたことなど、一度もございません」


 違う、そうじゃない。そこは「リーゼロッテ様にいじめられました」って泣くところでしょう、ヒロイン。

 しかも礼が完璧すぎて、周りの令嬢たちから感嘆のため息まで漏れている。教えたのは私だ。墓穴である。


 殿下は、静かに私を見下ろしていた。

 そして懐(ふところ)から、一冊のノートを取り出した。


「……え」


 見覚えのある表紙。

 『悪行ノート』。


「どうして殿下がそれを。今朝、確かに机にしまって鍵を……」

「ミア嬢に頼んで、預かってきてもらった。彼女には、ずっと協力してもらっていた。――責めるなら、頼んだ僕を責めてくれ」


 殿下の後ろで、ミア嬢が申し訳なさそうに小さく頭を下げる。その人差し指の先は、今日も赤かった。

 苺ジャムじゃなかったのね、それ。


 殿下は最後のページを開いて、私の目の前に差し出した。


 『最終計画:婚約破棄』。


 その「婚約破棄」の四文字に、赤い二重線が引かれていた。

 そして、その上に。


『訂正:結婚』


 あの几帳面で、少し右上がりの、とても綺麗な赤い文字。


「さっき書いた。インクがまだ乾いていない」


 殿下は右手の中指を、少しだけ気まずそうに見せた。赤い染み。


「……殿下、だったんですか。赤ペン」

「ああ」

「最初から?」

「最初からだ。中庭のベンチで、このノートを拾った」


 膝から力が抜けそうになる。

 あの日から、ずっと。私の悪行計画を、この人は全部読んでいたのだ。


「で、でも、机には鍵が……」

「生徒会は、持ち物の抜き打ち点検のために、全員の机の合鍵を管理している。生徒会長はその鍵束を預かる立場だ」


 職権濫用だ。王太子が、堂々と職権濫用を自白している。


「放課後に生徒会室で添削して、初めのうちは僕がその日のうちに戻していた。ミア嬢が手伝ってくれるようになってからは、翌朝、始業前に僕が机へ戻して、そのあいだ彼女が廊下で見張りをしてくれた。鍵は一度も、僕の手から離していない。僕が夜中に教室をうろつくことはない。護衛に止められるからな。……一度だけ例外はあったが」

「一度だけ?」

「君が夜中に寮を抜け出すのを、ミア嬢が窓から見ていた。心配で後を追ったが、暗い校舎が怖くなって、見回りの近衛兵に泣きついたそうだ。その報告が僕のところに上がってきた。……護衛を連れて捜しに行ったら、カーテンの陰で君が寝ていた」

「そ、それで……」

「起こすのも可哀想だった。寮母に頼んで、侍女たちと寮まで運んでもらった。ノートは包んで紐をかけて、寮母に預けた。毛布は、僕の馬車に積んであったものだ」


 あの、柑橘の香りの毛布。さる高貴な方の護衛。

 顔から火が出そうになる。あの夜の私、寝言とか言っていなかっただろうか。


「ど、どうして……婚約破棄されたいってわかっていたなら、破棄してくださればよかったじゃないですか!」

「嫌だった」

「嫌って」


 殿下は少しだけ目を伏せて、ノートのページをめくった。


「君の計画には、どれも最後に注意書きがあった。『怪我はさせないこと』『勉強に支障が出ないように』『人前で泣かせるのは可哀想』。……悪事を企む人間は、普通そんなことは書かない」


 殿下の長い指が、私の注意書きをなぞる。


「五年間、君とまともに話せなかった。何を話せばいいかわからなくて、『ああ』と『そうか』しか言えなかった。だが、このノートを読んで、初めて君の考えていることがわかった。……楽しかったんだ。毎日、君の字を読むのが」


 字が綺麗だな、という言葉を思い出す。

 読んでいて楽しい、という言葉も。


「……もしかして、『大嫌いです』の計画に添削が入らなかったのも」

「あれは、さすがに堪えた」


 殿下は、ほんの少しだけ眉を下げた。

 氷の王子が、しょんぼりしている。会場の令嬢たちが、一斉に息を呑む音がした。


「十二歳の婚約の顔合わせで、緊張して一言も話せなかった僕に、君は自分の焼き菓子を半分くれた。『無口な人は、お腹が空いているのよ』と言って。……それからずっと、どう話しかければいいのかわからなかった」


 ――昔食べたものと、同じ味がした。

 あの添削の、最後の一行。


 ――覚えている。

 いや、正確には、思い出さないようにしていた。


 王太子殿下との、人生でいちばん大事な顔合わせ。緊張で固まっている相手に、十二歳の私は「お腹が空いているのね」と、自分のおやつを押しつけたのだ。それも、こっそり自分で焼いた、少し焦げた焼き菓子を。

 殿下はそれを受け取って、最後まで一言もしゃべらなかった。

 帰りの馬車で、私は「殿下を怒らせた」と大泣きした。母にはこっぴどく叱られた。それ以来あの日のことは、人生最大の失敗として、記憶のいちばん奥に鍵をかけてしまいこんでいた。


「……あれ、怒っていらしたんじゃ、なかったんですか」

「嬉しくて、何も言えなかった」


 五年間の沈黙の答えが、それだった。

 私が黒歴史として封印していた日を、殿下はずっと、宝物みたいに覚えていたのだ。


「それで、添削を?」

「君の計画を、君が本当に望む形に直しただけだ。君は誰も傷つけたくなかった。だから、誰も傷つかないようにした」


 ずるい。

 そんなことを言われたら、何も言い返せない。


「それに」


 殿下は、ほんのわずかに――本当にわずかに、口の端を上げた。

 五年間で初めて見る、笑顔だった。


「辺境でパン屋をやりたいんだろう。三ページ目の余白に書いてあった」

「そこまで読まないでください!」

「ノルトマルクに、王家の古い離宮がある。新婚の住まいにどうかと思って、もう修繕を始めている」

「仕事が早い!」


 殿下は、私の前に片膝をついた。

 会場から、悲鳴みたいな歓声が上がる。


「リーゼロッテ・ヴァイスフェルト。婚約破棄は却下する。代わりに――僕と結婚してくれ。君の計画は、これからも全部、僕が添削する」


 なんて求婚だろう。ひどい。前世で読んだどんな小説にも、こんなプロポーズはなかった。

 顔が熱い。視界がにじむ。


「……添削は、ほどほどにしてくださいね」

「善処する」


 ミア嬢は淑女らしくハンカチで目元を押さえ――押さえきれずに、肩を震わせて泣いていた。会場は、割れるような拍手に包まれた。


 こうして私の婚約破棄計画は、赤ペン一本で、完膚(かんぷ)なきまでに失敗したのである。


 ◇


 パーティーの帰り際、ミア嬢がこっそり私の袖を引いた。


「お姉さま。あのノートに、『前世で読んだ小説によると』って何度も書いてありましたよね」

「……読んだのね、あなたも」

「えへへ。殿下のお手伝いで、つい」


 ミア嬢は、ぺこりと頭を下げた。今度は淑女の礼ではなく、いつもの、ちょっと勢いのよすぎるお辞儀だった。


「黙っていて、ごめんなさい。噴水の日の夜、殿下が寮の面会室まで謝りに来てくださったんです。『僕の婚約者が迷惑をかけた。だが、彼女は本当は優しい人なんだ』って、すごく真剣なお顔で。それで事情を聞いて、ぜひお手伝いしたいって」

「お手伝いって、具体的には」

「殿下がお姉さまの机にノートを戻すあいだ、廊下で見張りをする係です! あと、生徒会室から教室までノートを抱えて運ぶ係も。インクが乾ききっていない日があって、うっかり触っちゃって……」


 それで指が赤かったのか。

 悪役令嬢の悪行計画を、王太子とヒロインが共同で添削していた。そんな話、前世のどの小説にも載っていなかった。


 ミア嬢は、少しだけ声をひそめた。

 いつもの陽だまりみたいな笑顔なのに、その瞳が一瞬だけ、ずっと大人びて見えた。


「いつか、その『前世』のお話、聞かせてくださいね。――私も、“前”のこと、少しだけ覚えてるので」

「え?」

「なーんて! おやすみなさい、お姉さま!」


 ぱたぱたと走り去っていく背中を、私はしばらく呆然と見送っていた。


 ◇


 一年後の春。北の辺境、ノルトマルク。


 修繕された離宮は、思っていたよりずっと素敵だった。

 窓からは国境の深い森が見えて、丘の上には「星読みの塔」と呼ばれる古い遺跡の影が立っている。

 そして離宮の一階には、小さなパン工房まで作られていた。


 結婚式は、私の卒業を待って、王都の大聖堂で挙げた。

 花嫁の付添人を務めたミア嬢は、誓いの言葉の途中から最後まで号泣していた。侍女のアンナは「お嬢様がパン屋になる夢を、まさか殿下が叶えるなんて」と、なぜか遠い目をしていた。


 そして今、私は念願の辺境暮らしを満喫している。

 朝はパンを焼き、昼は薬草園の手入れをし、夕方には焼きたてのパンを村の子どもたちに配る。村の人たちは最初、王太子夫妻がパンを配ることにひどく恐縮していた。けれど、今では「パンのお妃さま」と呼んで、気さくに手を振ってくれる。


「殿下、これ」

「ジークでいい。もう夫婦だ」

「……ジーク様。どう考えても、王族の新居にパン窯は要りませんよね」

「三ページ目の余白に書いてあった」

「だからそこは読まないでくださいってば!」


 焼きたてのパンを並べたテーブルで、私は新しいノートを開いた。

 表紙に書いた題名は、もちろん――。


 『悪行ノート・第二部』


『計画:旦那様に仕返しをする。

 一年間ノートを盗み見されていた件について、きちんと反省していただく。

 ※ただし、泣かせるのは可哀想なので、ほどほどに』


 書き終えてペンを置き、紅茶を淹れに席を立つ。

 戻ってくると、ノートにはもう赤い文字が増えていた。


『添削:受けて立つ。

 なお、君に泣かされるなら本望だ』


「……っ、早い! あと開き直らないで!」

「夫婦の共同作業だろう」


 ジーク様は涼しい顔で紅茶を飲んでいる。

 氷の王子なんて、いったい誰が言い出したのだろう。この人は、ただ不器用なだけだったのに。


 ため息をついて、私はノートを閉じようとした。

 そのとき、ページの一番下に、見慣れない一行があることに気づいた。


 赤ではない。

 深い夜空のような、青いインクだった。


『――次の計画は、辺境の地下にて』


「……ジーク様。これ、書きました?」

「いや」


 ジーク様がノートを覗き込む。その横顔から、すっと表情が消えた。


「リーゼ。このノートは、どこで買った?」

「この第二部は、学園通りの『青い栞』です。教科書を製本し直してもらった、あのお店。……そういえば第一部も、アンナがあそこで買ってきてくれたものでした」


 ジーク様は青い文字を指でなぞり、インクがとうに乾いていることを確かめた。


「あの店の老店主は、若い頃、王立図書館の司書をしていたと聞いたことがある。……この辺境の、星読みの塔の蔵書を管理していた、とも」

「え」


 そういえば。あの製本屋を最初に勧めてきたのは、赤ペンの添削だった。

 ――つまり、ジーク様だ。


「ジーク様、なんであのお店を知ってたんですか」

「王家の古い記録を製本し直すとき、いつも頼んでいる店だ。腕は確かだが、店主はどこか浮世離れしていて……君のノートを売ったとき、何か言っていなかったか」


 記憶をたどる。

 白い髭の、穏やかなおじいさんだった。第二部のノートの代金を受け取りながら、彼は確か、こう言ったのだ。


 『よい計画を、お書きなさい。――書かれた計画は、いつか誰かが読みますからね』


 あのときは、ただの洒落た接客だと思っていた。


 ページの一番下の青い一行は、私の字でも、彼の字でもない。

 窓の外では、星読みの塔の影が、夕暮れの中に黒々と伸びていた。


 ――どうやら私の悪行ノートには、まだ添削者がいるらしい。

お読みいただきありがとうございました!

不器用な王太子殿下と、優しすぎる悪役令嬢の赤ペン攻防、いかがでしたでしょうか。

最後の「青いインク」の謎や、ミアの“前”のお話など、好評でしたら連載版で書きたいと思っています。

少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります!!

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