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私が髪を切る3秒前

作者: 深海周二
掲載日:2026/04/26

美容室の鏡に映る私は、少しだけ他人に見える

ここに座る五分ほど前の想いが、ふと、蘇る。


ビルの一階の自動ドアの前で、私は立ち止まっていた。春先の風が、首元に残った髪をわずかに揺らす。たったそれだけのことが、妙に引っかかる。ここをくぐれば、戻れない。そんな大げさな感覚が、足首に重りのように絡みついていた。


ガラスに映る自分は、どこにでもいる女だった。少し伸びすぎた髪。手入れはしているが、完璧ではない。どこか中途半端で、だからこそ見慣れている。私はその輪郭を指でなぞるように、毛先を軽く引いた。


この長さが、いちばんいい気がする。


そう思った瞬間、滑稽さに気づく。だからこそ、今日ここに来たのではなかったか。伸びすぎて扱いにくくなり、乾かすたびに少しだけ苛立ち、朝の鏡の前で「そろそろ」と思い続けていた。その蓄積が、この場所まで私を運んだはずだった。


それなのに、扉の前に立つと、すべてが反転する。

切らなければ、このままでいられる。


その考えは、理屈ではなく感覚として、やけに説得力を持って迫ってくる。私は一歩踏み出しかけて、また止まる。ガラスの向こうで、誰かの髪が切られているのが見える。落ちていく束は、どれも同じように見えた。


数秒前まで、あれも「ちょうどよかった」のだろう。

自動ドアが開く。私は、ほとんど押し出されるように中に入る。


受付で名前を告げ、椅子に案内される。クロスをかけられた瞬間、肩がわずかにすくむ。布一枚なのに、自由が少し制限される感覚。ここまで来ると、もう引き返すという選択は、現実味を失っていく。


鏡の前に座った私は、ようやく自分と向き合う形になる。白い照明が、逃げ場をなくす。毛先の乾燥も、うねりも、すべてがはっきりと見える。それでも――あるいはそれだからこそ、私は思う。


この長さが、いちばん好きだ。


「どれくらい切りますか?」

美容師の声に、私はすぐには答えない。指先で毛先をつまむ。ここから先を、失うことになる。そう思った瞬間、どういうわけか、この髪が急に愛おしくなる。


たった今まで、邪魔だと思っていたのに。


似ている、と思う。

別れる直前の、あの時間に。

あの日も、場所に入る前に少しだけ立ち止まった。駅の改札を抜けて、待ち合わせのカフェに向かう途中、私はガラスに映る自分を見た。風に揺れる髪を押さえながら、「今日で終わる」と頭の中で繰り返していた。


決めたはずなのに、足取りは妙に遅かった。

店に入ると、彼はもう来ていた。窓際の席。コーヒーにはほとんど手をつけていない。私に気づくと、少しだけ表情が緩む。その変化が、やけに丁寧に見えた。


「来てくれてありがとう」


その一言が、予想よりも柔らかかった。

向かいに座ると、しばらくはどうでもいい話をした。天気のこと、最近見た映画のこと、仕事の小さな愚痴。どれも、終わる関係にふさわしくない話題ばかりだった。それでも、会話は途切れなかった。むしろ、以前よりも滑らかだった。


不自然なほどに。


彼は私の話を遮らずに聞き、タイミングよく相槌を打った。笑うべきところで笑い、黙るべきところで黙った。その精度の高さが、逆に現実感を削いでいく。


ああ、と思う。


これは、いままでできなかったことだ。

そして同時に、これは、いまだからできることだ。


終わりが決まっているからこそ、人は関係の中で最も良い振る舞いを選び取る。余計な衝突も、言い過ぎも、避けることができる。残るのは、磨かれた断片だけだ。

その断片が、やけに美しく見える。


「このままでも、いいんじゃないか」


喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込む。彼の指がカップの縁をなぞる。その仕草が、どういうわけか懐かしく思える。


なぜ、今さら。


その疑問と同時に、胸の奥で何かがほどける感覚がある。嫌いになったわけではなかった。むしろ、こういう部分が好きだったのだと、遅れて思い出す。


思い出してしまう。


だから厄介なのだ。

もしここで引き返せば、この「ちょうどいい関係」を取り戻せるのではないか。そんな錯覚が、現実味を帯びてくる。けれど私は知っている。これは再生ではない。終わりを整えるための、最後の均衡だ。


長くは続かない均衡。


やがて彼が、少しだけ視線を落とした。

「……そろそろ、だよね」

確認のような、諦めのような言い方だった。私は頷く。それだけで十分だった。言葉にすれば、何かが壊れる気がした。


沈黙が落ちる。

その静けさの中で、私は彼を見た。さっきまでよりも、少しだけ遠く見える。それでも同時に、やけに近く感じる。


矛盾している。

けれど、その矛盾こそが、この瞬間の正体だった。


ほんの一瞬、強く思う。

――やっぱり、好きかもしれない。


その感情は、真実だったと思う。嘘ではない。ただし、それは持続しない種類の真実だ。条件が揃ったときだけ立ち上がる、一過性のもの。


私は何も言わなかった。

言えば、何かが変わるかもしれない。けれど、その変化が良い方向に向かう保証はどこにもない。むしろ、同じ場所をもう一度なぞるだけだと、どこかで理解していた。


だから、終わらせることを選んだ。


店を出たとき、風が少し強くなっていた。私は無意識に髪を押さえる。その仕草が、さっきよりも少しだけ空虚に感じられた。


戻らない、と決めたあとの軽さと、空洞。


その両方を抱えたまま、私は歩き出した。


「……5センチくらい、お願いします」

美容師にそう告げたとき、あのときの感覚が、ほとんど同じ形でよみがえる。切らなければ、このままでいられる。失わなければ、この良さは続く。


けれど私は知っている。

この「いちばん似合っている瞬間」は、持続しない。


シャキン、と乾いた音がする。

視界の下で、黒い束がゆっくりと落ちていく。床に触れた瞬間、それはもう、さっきまでの「私の一部」ではなくなる。ただの、切り離された繊維の塊。


あの日の彼も、きっと同じだ。

あの瞬間の優しさも、丁寧さも、すべてはもう、切り離された断片に過ぎない。拾い上げれば形はあるが、そこに体温は戻らない。


ほんの数秒前まで、あれほど整って見えたのに。

ほんの数秒前まで、あれほど愛おしかったのに。


「軽くなりましたね」

美容師が言う。私は小さく頷く。

鏡の中の私は、少しだけ違う誰かになっている。でも、それでいいと思う。この変化のために、あの瞬間があったのだから。

指先で新しい毛先をなぞりながら、私は考える。

髪を切る3秒前に思うことは、たぶんいつも同じだ。


――この長さが、いちばん似合っている。


そして同時に、こうも思っている。


――だからこそ、もう切るしかないのだ、と。

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