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◇
「こんなところに住んでんの?」
「うん」
ところでミキは、とても容姿端麗だ。そして、清潔感に溢れている。パッと見て彼女を不潔だと思う人間はいないだろう。
持ち物はしみしわ、一つない。いい匂いが漂っているし、嫌味に感じない。
高嶺の花であるミキに、私はすこぶる気に入られている。それはもう、引いてしまうほど。
そんな彼女が自宅へ人を招くのは、きっと私が初めてだろう。(そもそも彼女は私以外の人間と親しくない故、当然っちゃ当然である)
前提として、ミキは美しい。漂う空気は西洋の城に住まう姫である。家に帰宅したら、速攻制服からドレスに着替え、メイドに淹れさせた紅茶を優雅に飲むのだ。一口サイズほどのケーキを更に細かく割き、それを小さな口で食す。
そんな雰囲気を醸し出している。
しかし、現実は違った。導かれた彼女の自宅は、廃墟に近いものだった。人気がない細道を抜け、林の木々を掻き分け、頭に引っかかった蜘蛛の巣を手で払い、辿り着いた先はボロボロの平屋である。
無造作に映え散らかした木や草に彩られたそこは、空き家のように見えた。割れた壁には蔦が這い、コンクリートには苔が生えている。
まさか、冗談だろう。私はそう言いかけたが、しかし。慣れた手つきでヒビが入ったガラスが張られた引き戸を開ける。ガラガラと鈍い音を立てたそれは、人間が体を捩ってなんとか通れる程度しか開かなかった。
「ドア、これ以上は開かない。この隙間から入り込んで」
当然のように言われ、唖然と口を開く。「さ、さいですか……」とひとりごち、隙間へぬるりと入り込み消えていく彼女を見届ける。西洋の城から孤島の牢獄に収監されてしまった姫はひょこりと顔を覗かせて、手招きをした。
私も、吸い込まれるようにその隙間へ体を捩じ込む。無理やり侵入すると、ガタガタと歪な音を奏でた。
「……ふぅ、通れた……」
なんとか孤島の牢獄内へ侵入できた私は、すでに家内に入り込んでいるミキの背中へ視線を遣る。薄暗い廊下に、彼女の真白い制服がぼんやりと浮かんでいた。その姿はジャパニーズホラーも顔負けの情景である。
ふと、玄関先を見た。そこには脱ぎ捨てられた靴がない。顔を上げミキの足元を確認した。
「ど、土足……」
「脱がなくていい」
「あ、そう……」
どうやら土足で良いらしい。当然と言わんばかりにズンズンと奥へ進む彼女の後を追うように私も土足で侵入を試みた。
中は、一般的な平屋だった。埃っぽいそこは、失礼だが人が住んでいるとは思えなかった。数年前から時を止めたまま、この空間に閉じ込められた家具たちが鎮座している。廃墟とまではいかないそこは、やはりミキのような女からは連想もできない場所であった。
薄暗い廊下の奥にはこれまた薄暗いキッチンがある。流し台の正面にある窓から太陽が緩やかに差し込み、かろうじて部屋の輪郭を浮かばせている。キッチンの真ん中には木で出来た焦茶色のテーブルが置かれている。椅子もあり、その上にはスカイブルーのクッションが乗っていた。
この家は全体的に古臭い。しかし意外なことに、このテーブルだけは人とのコミュニケーションをとっているように思えた。布巾で磨かれた表面に、思わずここへ来て初めてホッと息を撫で下ろす。椅子の上に乗ったクッションも美品で、ここだけ別の家から切り取られてペーストされたように思えた。
「座って」
彼女がスクールバッグから近所で購入した菓子とドリンクを取り出し、テーブルへ置く。椅子を引き腰を下ろすと、彼女も同時に着席した。
目の前にいる同級生を不快にさせまいと、辺りをバレない程度に見渡す。古びた食器棚に並ぶ、色褪せた茶碗。鼠色の冷蔵庫には菓子パンにおまけとしてついていたであろうシールがベタベタに貼られ、そして剥がされた跡がある。それもやはり色褪せていて、ノスタルジックささえ感じた。その上に乗った電子レンジも、博物館に展示されているのではないかという年季を感じる。
「心ちゃん」
「は、はひ!」
返事をした声は裏返っていた。彷徨わせていた視線をミキへ戻す。「どっちがいい?」と両頬のそばでペットボトルを掲げた彼女が首を傾げた。私は右の手に持たれた炭酸飲料を指差す。手渡されたそれは水滴が滲んでいた。
「ここに、住んでるの?」
「うん、一時的に」
一時的にとはどういう意味なのだろうか。私はペットボトルの蓋を開けながら、ミキから渡された菓子を受け取る。
「……お父さんと、お母さんは?」
「ここにはいない」
ここには? 私は首を傾げる。複雑な家庭であるのならば、あまり首を突っ込まない方がいいのかもしれない。彼女は両親のもとを離れ、祖父母、もしくは血縁関係者に預けられている状況に置かれているのだろう。
ミキ自身も複雑な性格をしているが、環境も然る事乍ら複雑なのだなと知った。
「あの……どこにいるか聞いてもいい?」
ナイーブなことを聞いたなと言葉にしたあと後悔した。「やっぱり、今の忘れて」と額に手を当てて顔を伏せた。
「別の星」
「べつのほし」
「うん、別の星」
ミキは人差し指を上に向け、真顔でそう言った。陶器のような頬を動かさず、真面目なトーンで言われ、私は笑って良いのか分からず固まる。やがて片方の口角を歪に上げ「そうなんだ」とひとりごちた。
「ありがとう、心ちゃん」
「え?」
ミキが菓子の袋を開けながら、ポツリと呟いた。何か感謝されるようなことをしただろうかと目をぱちくりさせていると、彼女が続ける。
「私と仲良くしてくれて、ありがとう」
確かに、ミキとここまで仲良くしているのはクラスで────いや学校内で私ぐらいだ。彼女という不思議ちゃんの後についていけず脱落する者たちがいる中、私だけは必死に食らいついている。
「すごく、嬉しい」
静かに、そして穏やかに微笑む彼女は、静寂に包まれた森の奥にある泉のようだ。風に水面を揺らめかせ、太陽光を取り入れ、キラキラと輝きを放つ。そんな、静かな泉────。
手を叩き、はしゃぐように笑う癖がある私は、彼女の笑みを見て少し恥ずかしさを覚える。
後頭部を掻きながら「別に気にしないで」と俯いた。
「心ちゃん、好き」
他意のない声音は、しかし彼女なりの愛情表現だと知っている。直球に投げられた言葉を心のミットで受け取ることができず、私は後ろに倒れてしまいそうになった。