まさかとは思いますが、この「悪役令嬢」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。
知ってる人は知っている、あの有名なアレのリスペクト的なサムシングです。
実在の人物や病などとは一切関係ありません。
また、パロディ元的な問題で一部不快に思われる方がいると思いますので事前に謝罪致します。申し訳ございません。
「リズ・ペリドン! 貴様との婚約を破棄する!!」
学園で開かれた卒業記念パーティの最中にそれは起きた。
今夜の主役とも言えるシゾール王太子は、美しいブロンドの髪を靡かせ、本来であれば非常に整った中性的な顔立ちを盛大に歪めながらそう叫んだ。
中二階の貴賓席とも呼べる場所から見降ろしながら、彼は婚約者でもあったペリドン侯爵家の令嬢であるリズを侮蔑しきった水色の瞳で見降ろし、彼はこう続けた。
「貴様は、我が婚約者であることを笠に着て、好き勝手な行動を繰り返すばかりか、このレニアに嫉妬するがあまり、彼女の制服を引き裂き、氷水を浴びせ、あまつさえ階段から突き落とそうとしたそうではないか。その様な性悪にはこの国の国母は到底務まらない!」
「シゾール殿下……」
青天の霹靂とはこの事だろうか。
脳が理解を拒んだのか、名指しされたリズ・ペリドン侯爵令嬢は目を僅かに見開くと、ハッとした様子でその佇まいを正して見せた。
ややくすんだ水色のドレスは気品を感じさせる一方で、彼女の日頃の激務のせいか少々不健康そうな彼女の印象に拍車をかけるものであった。そんな彼女の長い茶髪が光に当てられ、美しい光輪を頭上で作り出すその様に、周囲は僅かに息を呑んで見せた。
「畏れながらも殿下、このような場所で話すべき事柄ではありません。卒業生やご来賓の皆様のご迷――」
「ハッ、図星だからろくな反応も出来ないのか。言い訳などしても無駄だ!」
軽快なオーケストラの演奏も気が付けば止んでしまっており、音楽に合わせて踊っていた卒業生らもその足を止め、二人に好奇の視線を寄せていた。
既に取り返しのつかない事態となったことに蒼白となるペリドン侯爵令嬢だったが、シゾール王太子は彼女がそうなったのは言い返せないからであったと受け取ったのだろう。さぞ愉快そうな笑みを浮かべ、彼の側に居た令嬢を抱き寄せた。
「レニア。今まで不安な思いをさせてしまい、すまなかった」
「シゾール様ぁ……私、怖かったです……!」
学園内ではシゾール王太子がこのレニア・アスプ男爵令嬢と不義を働いていたのは半ば公然の秘密であった。
肩まで伸びるピンクブロンドの髪に、淡い朱の混ざった瞳の彼女は水色のドレスを――恐らくはシゾール王太子から贈られた、彼の瞳と同じ色のドレスを身に着け、執拗に彼に身体を擦り付ける様な仕草を繰り返した。
至る所で桃色の空気と青春の香りを撒き散らし最早桃色スメハラの域に達していた彼らは、ことこの場に及んでもまた同じような香りを漂わせ始めていた。
「貴様の犯した数々の蛮行は本来であれば一級殺人未遂等で死罪も止む無しと分かっているのか!」
「シゾール様、待って! 私はただ、リズから謝罪の言葉が欲しいだけなの! そんな、死刑だなんて……!」
目尻に涙を浮かべながらもしっかりと二の腕に抱き着く彼女は、ペリドン侯爵令嬢にだけ見える位置で盛大に彼女を嘲笑って見せた。その醜悪な顔に気付いた彼女は静かに拳を握り耐えていたが、その拳は震えていた。
その姿は果たしてどのようにシゾール王太子には映っていたのだろうか。いや、見えていないのかも知れない。その腕に胸を押し付けられていて其方に気が向いているようだ。
「レニアは優しいな。レニアのその太陽のような慈しみとその広い懐に何度心を救われた事か――そう、国母にはレニアのような大きな器と深い慈愛の心を持つ者こそが相応しい! 故に私はこのレニアと改めて婚約を結ぶ!!」
ザワリと、一瞬悪寒のような衝撃がその場にいた面々に走る。
相手は男爵令嬢。到底釣り合う関係ではない。しかも、百歩譲ってお家柄には目を瞑れたとしても、リズは既に王太子妃教育を完了しており、重要な外交の場でも既にお披露目が終わった後だ。
つまり、諸外国からは実質的に王族の一員として認識されているし、また彼女自身も王族の一員として、王族以外が知ってはならないようなことも既に頭の中に叩き込まれている。
「話を戻すが、貴様の罪の数々は本来であれば死刑となるものだ。正に物語の『悪役令嬢』を体現するような存在であるそんな貴様を、レニアの寛大な心と貴様の過去の功績に免じて、特別に国外追放で許すものとする。速やかにこの国から消え失せろ!」
それをあまつさえ国外に追放するとは、正気の沙汰ではない。
そう誰しもが思っていた所に、会場の扉が突然バン! と開かれた。
「お待ちください」
扉の向こうからコツコツと足音を立てながら現れたのは、ウッズ公爵家の令息であるファストだった。
彼の登場に合わせ、会場が彼の道を作るかのように割れて見せた。
「ファスト! 貴様、何故ここにいる!」
「何故って、来賓だから来ているのですよ」
それ以外に何があるとでも言いたげな視線を向けられ、シゾールは僅かに顔を背けた。
ウッズ公爵家の長男であるファストは王国の治療院で現在修行中の医師だ。ウッズ家は代々医師・薬師の家系であったが、何代か前に当時の王妃の命を新薬で救ったことをきっかけに、最終的に王家より降嫁があり公爵の称号を叙爵したと言う経歴がある。
その職の性質上、現在王国内でも絶大な人気を誇る家でもあり、平民・貴族問わず信頼が厚い家であった。また、ファストについては王家譲りの甘いマスクとその気さくさもあり、その人気は絶大。
シゾール王太子としては内心あまり面白くない人物であった。
「ウッズ様……」
思わず見上げるようにして呟いたペリドン嬢に対し、ウッズ令息は笑って見せた。
「ところで、これは何の騒ぎだ? 何故ペリドン嬢ではなくアスプ嬢が貴賓席に?」
「それは、その――」
「レニアが私の新たな婚約者だからだ。王太子たる私の将来の妃となるのだから貴賓席に居るのは当然の事」
「新たな婚約者??」
「そうだ。諸君には繰り返しとなるが、このリズ・ペリドンは我が婚約者であることを笠に、好き勝手に振る舞い、このレニアに対して様々な悪事を働いて見せた。その醜悪な心ではこの国の国母は到底務まらない! 一方でレニアは本来であれば死罪となる大罪人であるリズの助命を願うという大きな器と深い慈愛の心を既にここで示して見せた。この様な慈しみの心を持つものこそが、国母に相応しい。故に、私は婚約を破棄し、レニアを新たな婚約者とする!」
そう再度宣言したシゾールに迷いはなく、ペリドン嬢は僅かにうつむいて見せた。
ファストはちらりとシゾールにぴったりと寄り添うアスプ嬢に目を向けた。
何ともか弱く庇護欲を誘う見た目ではあったが、その眼の色に、ファストはどうにも違和感を覚えた。
「様々な悪事、とは?」
「リズは……リズは前から細かい嫌がらせをしてきていたんです……で、でも最近はそれがエスカレートしていて、最初は机に落書きをしていく程度だったのが、洗面台で手を洗っていると水を被せてきたり、常に私を監視するように見つめてきたりして……」
「ふむふむ」
「次の授業に向かおうと教室を出ると先回りして教室に居たり、お昼を食べようとする時も先んじて中庭だったり食堂だったりに先回りして私のことを笑うんです……それに、部屋に戻るときも大声で人の事を罵倒したり、階段を降りようとしたときとかは私を突き落とそうとしてきて……」
「なるほどなるほど」
彼は真剣に聞いているのか、適当に相槌を打っているのか判断しかねるような態度を取りつつも、彼女の主張に耳を傾けた。
「そ、その……っ。他にもっ、毎日色んな嫌がらせをいっぱいされていて……で、でも! 私は出来るだけ気にしないようにしているんですけど……いつまでもこんな事を続けていると、私の方がおかしくな――っ! ごめんなさい、私が悪いんです。もっと私が我慢出来れば良かったんですけど、ただそれでも、何かでリズを怒らせて誰かが怪我でもしたらと思うと、怖くて……っ!」
「ほうほう」
真面目に聞いているのかやはり分かりかねるような相槌をウッズがする中、アピールをするいい機会と、アスプ嬢は観衆に訴えかけた。
「これだけ……これだけの異常行動で、常に私の事を監視して嫌がらせしてくるなんて、リズがその……私のせいで、ら、乱心したのかなって……そう思うと、悲しくて……っ!」
完璧なまでに演じきったアスプ嬢の目には、一筋の涙が流れていた。
完璧なまでに悲劇のヒロインを演じられた自分に対する酔いと、完膚無きにまで敵を叩き潰せたと言う優越心の極みで彼女は歓喜の涙を流していた。
「レニア……今まで辛かったな……」
そっとそんな彼女を抱き寄せたシゾールもまた、自分と彼女に酔いしれていた。
彼女の心音が、その豊満な胸を伝い自分にも感じられる。そのぬくもりと充足感から、頭へと本来行くはずの血流が届かなくなり、彼の正常な判断をますます奪っていく。
断罪劇を完遂できたと言う事実が脳を麻痺させ、頭の血が臓物の更に下へと下がっていく。
目をほぼ糸目と言っても差し支えないほどに細めたウッズは、その三文芝居の終幕にうんうんと頷き、その後再度ペリドン嬢へとその糸目をやった。
小さく彼はため息を付くと、彼はようやくその口を開いて見せた。
「事実がおふた方の仰る通りだとすれば、アスプ男爵令嬢の仰るように、ペリドン侯爵令嬢は乱心している可能性があると思います」
待っていた言葉に、シゾールとアスプ嬢はパッと花のような笑みを浮かべた。
医師のお墨付きだ。
しかし、その後に続いた言葉は全く彼らの予想だにしないものであった。
「しかし、どうも御ふた方のお話には解せないところがあります」
「解せない……?」
「ええ。ペリドン侯爵令嬢が乱心していて、あなたに対して何らかの妄想を持っていると仮定しますと、あなたの言ったように、あなたの行動を監視し、いちいちそれに合わせて『物語の悪役令嬢』さながらの嫌がらせをするという手の込んだ形は、ちょっと考えにくい行動です」
そう。
そもそもの大前提として、彼女は侯爵令嬢なのだ。
侯爵家の人間からすれば、そんな吹けば飛ぶようなしょうもない男爵家、しかも侯爵本人ならまだしも、その令嬢如きなんて、どうにでもなるのだ。
わざわざ手の込んだ嫌がらせなどしなくとも、ただ一言『不快だわ』というだけで……いや、言葉など無くともそれを態度で示すだけでその家は終わる。それが一般常識だ。
「しかも長い期間にわたってあなたがそれを無視して、あるいは耐えて、それなりの生活をされているというのも想像しにくいところです」
あくまでも当然の疑問点を淡々とウッズは告げた。
仮に、もし仮にそんな嫌がらせがあったとして、その嫌がらせにただ耐えるだけの精神力をこの男爵令嬢は持ち合わせているのか?
ウッズの見立てではそんなことは不可能だった。
仮に見た目通りの可憐さであるとすれば、侯爵令嬢に息を吹きかけられただけでも卒倒するだろう。嫌がらせなどされたら即座に儚くなることだろう。
そして逆に、敢えて逆に、もし仮にアスプ嬢がその見た目とは真逆にとんでもなく獰猛な野心家であったとするなら。
『黙って耐える』などもっと無理だろう。目には目を、で返すはず。
それに、そもそも論でおかしな主張がなされていることを、ウッズは見逃していなかった。
「そして、『○○が自分の行動を監視し、いちいちそれに合わせて嫌がらせをする』というのは、ご乱心された方の典型的な被害妄想の訴えでもあります」
四六時中の監視など無理だ。
家の息のかかった影を幾らでも放てる外界ならともかく、この学園は人の出入りが厳しく制限されている。ましてやここは王族、しかも王太子であるシゾールが在籍している。王家が監視を付けるならまだしも、それ以外の家の手の物の侵入なんて許されない。
もしそんなザルなセキュリティであるなら、学園長以下教職員全員の首が物理的に飛んでもおかしくない。
たかが『悪役令嬢』如きのリズ・ペリドンがそれを行うことなど到底不可能。
諸々を踏まえたうえで、決定的な一言が、ファスト・ウッズより告げられた。
「まさかとは思いますが、この『悪役令嬢』とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。もしそうだとすれば、あなた自身がご乱心されていることはほぼ間違いないと思います」
「なっ……!?」
物的証拠などを直接目にしたわけではない。
しかし状況的に、どう考えても彼女がそれを行うことなどできないのだ。
仮に嫌がらせがあったとして、教職員はその間何をしていたのか?
教職員にだって貴族または元貴族は存在している。それに器物を損壊するだの水を掛けるだの、そんな品の無い即物的な嫌がらせなど、果たして貴族がするだろうか?
しかも、公爵を除いたら最も格式と品の有るとされ、王太子の婚約者にもなり、今日この瞬間までに既に王太子妃教育を満了させるような、由緒正しく賢い上に器量もあるような侯爵家の者が? ほんとぉ? そんなことあるぅ?
と、ウッズは訝しまざるを得なかった。
「あるいは、『悪役令嬢のようなペリドン侯爵令嬢』は確かに実在して、しかしあなたが言ったような異常な行動は全くとっておらず、全ては貴方の妄想という可能性も読み取れます。この場合も、あなた自身がご乱心しているということにほぼ間違いないということになります」
別の角度から考えて、じゃあもし仮に――可能性としてはほぼ無いだろうが――ペリドン嬢が本当にそんな悪辣な事をする邪悪な悪役令嬢だったとする。
ペリドン家がそれを許すだろうか?
我が物顔で学園を闊歩し、ことあるごとに木っ端の男爵令嬢に執拗に粘着する様なストーカー女だったとしたら、この学園にはいられないだろう。
そのような異常行動を働いていて、家への報告が無い筈が無い。教職員がそれを野放しにするとは到底思えないし、そうでなくとも王太子の婚約者がそんな奇怪な行動に勤しんでいたら王太子以前に後ろの影から報告が無いことなど有り得ないし、そうなれば今度は王家が間違っても黙ってはいないだろう。
いずれにせよ本当にそのような事をしていたら即座に治療院か修道院に連行されるに決まっている。
だからこそ性格最悪の悪役令嬢であったとしても、彼女はそのような行動をとることは無いだろうし、そもそも出来ない。
故に、この場の発言を聞いている限りでは、リズ・ペリドン侯爵令嬢が真に『悪役令嬢』さながら乱心していると考えるよりも、このシゾール王太子あるいはレニア・アスプ男爵令嬢のいずれか、或いは双方が乱心してしまっていると考えた方が、色々とつじつまが合ってしまうのだ。
「なっ……なっ……きっ、貴様……!」
「いや、それは全くの的外れかも知れませんが、可能性として指摘させて頂きました。貴方の発言だけしか情報が無い治療院の医師の限界とお考え下さい」
そう言うと、ウッズはぺこりと一礼をし、その身を一歩引いた。
場に残されたのは、目が点になってしまっているペリドン嬢、わなわなと身体を震わせ、顔をリンゴの様に真っ赤に染めたシゾール王太子、そしておろおろと王太子と公爵令息を交互に見るアスプ嬢だけだった。
プライドが高く、自尊心を傷つける婚約者をやり込めた優越感はとうの昔に蒸発し、今はただバカにされコケにされ、辱められたと言う事実が、それまで股間に集まっていた熱を上へと再度送り込み、湯沸かし器のように頭を茹でて行く。
「――ええと……何というか、その……その様な観点からは考えた事もございませんでしたわ……」
最初に再起動を果たし、そう告げたのはペリドン嬢だった。
それに合わせて、周囲がひそひそと言葉を交わし始める。
「まあ、リズ様が嫌がらせをしている! は王太子妃教育で物理的に学園にいないのだから無理筋ですよねぇ……」
「仮にそうだとしても、今更婚約者すげ替えてお妃教育をあの男爵令嬢にし始めても耐えられる訳ないわよね」
「そもそも生徒会の業務とかずっと夜遅くまでペリドン嬢が単身で捌いているって先生たちでも噂になってるよな」
「男爵令嬢を国母にするってのは殿下が乱心してるって言われても仕方ねえよな……」
ひそひそ。ひそひそ。
ざわざわ。ざわざわ。
「~~~~っ! 俺は乱心などしていない!! 貴様ら、揃いも揃って、不敬だぞ!!」
「し、シゾール様落ち着いて。私たちにはちゃんと証拠もあるんですぅ!」
「証拠?」
「私の教科書が引き裂かれて机の中に置かれていたりしたんです! ほんとです!」
「そ、そうだ! それはどう説明するつもりだ!」
そこまで言われ、ペリドン嬢が一歩前に出てみせた。
そこには戸惑いの色は、もう無かった。
「その場面を実際に目撃した方は居るのでしょうか?」
「そ、それは……」
「殿下はその汚損された教科書の実物をご覧になったのですか?」
「い、いや……」
「教科書が無い状態でどのように授業には臨まれたのですか?」
「えっと、その――」
おろおろとするばかりで、二人からまともな回答は得られない。
その様子から、観衆の中にも真剣に憂慮する声が出始める。
「えっ、証拠ないのかよ……」
「こんなので大丈夫なのかしら……」
「これ、まさか実際に乱心しているのでは?」
風向きが変わってしまった。直感的にそう気づいてしまったアスプ嬢の背中を冷や汗が伝う。
「で、でもっ、机に赤ペンで『ブス、バカ、死ね』などと書かれていたり、『臭い、うるさい』などの文句を言われるなどの行為をずっと受けていました! その時は、はっきりとした嫌がらせでしたので、乱心などではないです!」
「でもそんな机、俺たち見た事ねえよな」
「確かに……」
「それはっ、恥ずかしいから他の人に見られる前に自分で拭いたり取り換えたりしていたのっ!!」
そう涙ながらに叫ぶが、時すでに遅しで既にどこか会場の空気は白け始めていた。
しかしそれでもアスプ嬢はなんとか巻き返そうと、更に被害について話し始める。
「それにっ、部屋の前に、食べかすとかゴミとか落としたりなどの嫌がらせもされていますし、私の部屋の前を通るときには、『こんな時間にお洗濯でもしてるのかしら』とか、こちらに聞こえるくらいの声を出しながらわざとらしく通って行くんです!」
「ええと、私と貴方では住んでいる寮棟も別なのでそれは有り得ないと思うのですが……」
「ずっと嫌がらせされていたせいで、精神的にも疲れて、未来に希望が持てない時期もあったんです! 本当です! それなのにどうしてこんな事をするんですか!?」
対比するかのように完全に自分のペースを取り戻したペリドン嬢が鋭く突っ込むと、アスプ嬢はたじろいで見せ、ついにはワッと王太子の胸に飛び込むようにして泣き始めてしまった。
「う~んと、その話をこうして聞いている限りでもやはりあなたはご乱心されているのだと思います。これまで受けた嫌がらせとしてあなたがこうして言ったことは、ほぼすべて被害妄想でしょう」
机をそう何度も汚していて、本人以外にずっと気付かれないなんてこと、あるのか?
罵詈雑言を毎日毎日わざわざ浴びせに行くほどの暇も彼女にあるとは思えない。
何もかもが、現実的にあり得ない主張だ。
「まず机にペンでものを書かれたなどの行為ですが、ご乱心された方の典型的な症状にそうした被害妄想があります。はっきり言いますが乱心しています」
「っ! ……部屋の前のゴミとかはどうだって言うんですか!?」
「妄想です」
「文句を言われた!」
「幻聴です」
「大声を出しながら部屋の前を通った!」
「幻聴です」
「……は、話にならないわ! 何でもかんでも幻聴だ幻聴だって、何様のつもりなの!?」
実際にはゴミとか落書きとかは妄想ではなく自作自演で、まさか彼女が自分で書いたり撒いたりして密かにそれはそれで涙ぐましい努力をして起こしているなどとは夢にも思わないウッズからは、必然的に妄想であるという診断が下される。
幻聴ではなく、そもそもそんな事実はなく、本当はリズ・ペリドン侯爵令嬢を陥れるための嘘でしかないのだが、彼はそれには気付かない。音がしたとキレられながら怒鳴られているので、彼女が幻聴で興奮しているようにしか彼には見えないのだ。
「まあ、正気ならこんな式典でこんなことするとは思えませんわね」
「それな。まさか殿下がご乱心されるとは……」
「みて〜、殿下全身をプルプル震えさせているわ! 面白〜い!」
「クスクス……」
「クスクス……」
また、ウッズ公爵令息のような医師からすれば、幻覚と妄想と言った典型的な症状が出ているように見える場合は一般的にご乱心状態であると疑われても仕方のない事であった。
特に周りの人には聞こえない声が聞こえるなどの幻聴がみられる場合は特にその可能性は強く疑われることとなることをシゾール王太子らが気付くことは終ぞないが……。
「治療を受ければ、あなたの問題のすべては解決するでしょう。治療院の受診を強くお勧めします」
トドメとばかりにそう言って腕を広げ、シゾール王太子とアスプ嬢に向けてまるで抱き着いてくる子供を迎える親のような生暖かい笑みを浮かべた彼に、ついにシゾール王太子の堪忍袋の緒が千切れ飛んだ。
「――貴っ様らああああああ!!」
額の血管は千切れんばかりに浮かび上がり、顔もタコの様に真っ赤に茹で上がったシゾール王太子が絶叫しながら装飾用の剣を近くの壁から引き抜く。
よほど重いのか、それとも単に王太子の身体が貧弱なのか、ズシリと音を立てて剣先が床に叩き付けられ、彼はそのまま剣先を引きずるようにして迫り始める。
「いかん、乱心の発作だ!」
いや、誰のせいだよ。
ペリドン侯爵令嬢は喉まで出かかったその言葉を無理やり呑み込み、咄嗟に床に伏せると寸での所で横に無理やり薙ぎ払われたその剣を回避してみせた。
「キャーーーッ!!」
「衛兵、王太子殿下を直ちに捕らえよ! 殿下の手で血を流させてはならない!!」
ブチぎれて本当に乱心した王太子が、そのあまりに重たい剣を引きずりながら次にウッズへと向かうのを見て、会場が瞬く間に大混乱へと陥る。
人が逃げまどい、慣れない最新のドレスと真新しいヒールでご令嬢が次々と躓いて転んで行く。それに令息たちが更に躓く形で皆が転び回り、目を覆いたくなるような地獄絵図と化した会場で怒号が鳴り響き始める。
元から有事に備えて配備されていた重い鎧を身に着けた衛兵では、いっそ物言わぬ死体であればそれらを踏み超えて王太子を止めることが出来たものの、なまじ生きている負傷者が大勢転がっているホールでは道が遮られてしまい、動き回ることが出来ないためどうにもならない様子は正しく大惨事というほかない。
このため張り込みをしていた王国の影たちがやむを得ず白日の元にその姿を晒し、王太子シゾールを取り押さえるという目を覆いたくなる光景がウッズとペリドン嬢の前で繰り広げられた。
「離せえええ! あの不敬極まりないクソ野郎を俺が叩き斬るんだああああ!」
「いやっ、ちょっと待って! なんで私まで!? 私は無関係よ! 乱心したのはシゾールだけでしょ! 私は正気よ〜〜っ!」
そのまま強引に立たされ、引きずられるように二人は連行されていく。
残されたのは床に転がり呻く怪我人の山と、こめかみのあたりをヒクヒクと痙攣させ絶句するペリドン嬢と、後頭部をボリボリと掻きさも自分は悪くないですとでも言いたげな表情を浮かべるウッズだった。
「いやはや、まさかあそこまで症状が酷かったとは。奇妙な行動や不穏な興奮、迷惑行為が見られる場合はすぐにでも入院が必要なんですよ。いや〜、大ごとになる前に気付けて良かった」
「恐れながらもウッズ様、既にとんでもない大ごとにはなっておりますが……」
この後処理をどうしろと言うのだと、彼女は項垂れた。
今この場で最も格式の高い家柄の者はこのふたりだ。つまり、後始末役は嫌でもこの二人の身に降る事になる。
そこら中に負傷者が溢れており、呻き声が部屋の隅々から上がってきている。
役に立たなかった衛兵たちがようやくウッズとペリドン嬢の指示でけが人の救助を始めたのは、そのあとすぐの事だった。
◇
「なんだかさぁ、最近ペリドン嬢の様子がおかしいんだよね」
半年ほどが過ぎた頃、ようやく落ち着きを取り戻し始めた宮殿の一角で、ポツリとウッズが侍女に零した。
「と、言いますと?」
「いや、あの事件の後から婚約を前提にペリドン嬢と交流をさせて貰っているのは知っているだろうけど、この間辺境伯領に旅行でも行こうかと提案したのは、その時に『学園の研究室のOBと二人で趣味の遊びに行く』と言われたのが気付いたきっかけかなあ」
折角婚約を前提とした交流を深めるという名目で会っていると言うのに、他所の男と二人で遊びに行くという行動は余り感心できない、と言うのが彼の発言の要旨であった。
彼としては彼女に好意を持っていたのだが、少なくとも一日出かけたり、また会食をすると言うのはやめてほしいと彼は以前よりペリドン嬢に伝えていた。
王太子乱心事件の余波で皆がまだどこかピリピリしていると言う状況もあり、ある程度彼は我慢をしていたものの、あとでさりげなく察して欲しいと促すと、ペリドン嬢に他意はなく、また彼が嫌がっていることをよく分かっていなかったと主張しその時は彼女も謝罪をしたとのことだった。
「左様でしたか」
「うん、でもその後もペリドン嬢は女友達と二人で旅行に行くだの、旅行のためにためていた資格の勉強が忙しいだのと、事ある毎に僕の誘いを断り続けていてさ……正直自分から積極的過ぎるまでに接触しようとしている女々しいところも彼女はあまり好きではなさそうだし……」
「あー……」
「一応、今度会いたいと誘うつもりだったとは言っていたけど、実際その後そういう連絡があった訳でもないしね。もしかして彼女、結構鈍感だったのかな?」
この時点で、侍女は色々と察してしまい、悩んでいた。
恐らくこれはアレだと。そして目の前のこの男は恐らくそれに気付いていないと。
「ほら、あの事件も無意識に王太子殿下を不愉快にさせた結果彼の心が離れたと彼女は言っていたし、彼女自身もある程度は鈍感なのを自覚してはいるみたいなんだよね」
「はあ……」
「どうすれば彼女と上手く付き合って行けるのかな。同じ女性として君の意見を聞きたいのだけれども」
そういう彼の表情は、至って真剣だった。
暫し悩んだ後、侍女は意を決して彼の目に視線を合わせて、ゆっくりと、しかしハッキリと口を開く。
「恐れながらも坊っちゃま、あなたは単にふられつつあるのではないでしょうか」
「……、……えっ」
おしまい