恋心は雨に濡れて、本に隠して
もし人生が小説ならば、私は登場人物のどれでもない。私は誰かの物語を眺めているだけ。
雨の降る通学路は学校までの道のりをより気怠くさせる。ローファーに雨水が浸透して、吸い込んだ分だけつま先が重くなる。
前方のバス停でバスが止まり、一組の男女が降りてきた。前後に並び、仲むつまじく歩いているのを見ると、二人は付き合っているんじゃないかって思う。
もし人生が小説ならば、ちゃんと主人公になれちゃう人もいる。
雨粒が傘を打ち、衝撃が腕につたわる。傘が重い。
教室に着いたら、席に座る。一番後ろの席。ただの傍観者の私にぴったりの席。
レンズに付着した水滴を拭くために眼鏡をはずす。視界はぼやけて、世界の輪郭を曖昧に映してくれる。それぞれの関係性だとか、優劣だとか。
もし生活に支障が出ないなら、私はずっと、このぼやけた視界の中で生きていたい。
「みつき」
幼馴染のカナの声。私を下の名前で呼ぶのはカナだけだ。美しい月と書いて、みつき。私にはもったいない名前。
私は眼鏡をかけ直す。曖昧だった世界の輪郭がくっきりと姿をとり戻す。カナの顔が私の目にとびこんだ。カナは可愛い。潤ったピンク色の唇、クルリとカーブした長い睫毛。本当はこんな女の子にこそ、美月という名前は相応しい。
お父さんとお母さんは私に期待しすぎたんだ。世の中には遺伝とかそういう、絶対に抗えないものが存在するのに。
「このまえ借りた本返すね。ありがと!」
モデルさんみたいに綺麗にカナは笑う。鏡の前で何十回も練習したんだろうなって思えるような完璧な笑顔。可愛い子ほど、自分をより可愛くみせることに余念がない。
「どうだった?」
「マジ面白かった」
私と会話しながら、カナはちらちらと前の席に座る男子の様子をうかがっている。日野涼太君の様子を。日野君は隣の席の男子と談笑している。
別のクラス所属のカナが、なぜこのタイミングで、なぜわざわざこの教室に来て、私に話しかけているのかは分かっている。私はカナの、ピュアでしたたかな目的に付きあってあげる。
「え、涼太。あそこの新作まだ食べてないん? もったいな!」
カナは私と会話していたのに、前の男子二人の会話にわってはいる。それは高校球児のスライディングのように、素早くて力強い。器用な子だな。と感心する。これが恋の執念というやつなのか。
役目を終えた私は、カナから帰ってきた小説を開く。
なに読んでんの?
その声がよみがえる。
俺も読んでみようかな。
よみがえる。
カナの笑い声が、その声をかき消した。いつもよりワントーン高いカナの声。たぶん、そういうのに鈍感な私にでも分かるむきだしの好意。日野君は気づいているのだろうか。
雨降る通学路の光景を思い出す。日野君と葉月さんが縦に並んで歩く姿。あの二人が付き合っているならば、カナの全てのアタックに意味がないかもしれない。
日野君の肩への自然なボディタッチ。だふんカナは自分の可愛さを理解している。そして、その可愛いさの使い方も。
葉月さん目線で語るなら、カナは悪敵になるのだろうか。まるで少女漫画の展開。その行方を私は見守るだけ。
チャイムが鳴る。
やばっ! とカナはパタパタと短いスカートを揺らしながら教室をとびだして、自分のクラスへ帰っていった。
朝のホームルームが終わった後は、十五分間の読書タイムになる。三年前から設けられたというこの時間は、私にとって至福の時間だった。カナから帰ってきた小説は鞄の中にしまい、代わりに別の小説を鞄から出した。
趣味がなにかと訊かれたら、読書と答える。そう言うと、すごいという言葉が返ってくる。ほとんどの人にとって、文字をたくさん読むことは好きじゃないらしい。すごいという言葉が返ってくる度に、なにを言っているんだろうと私は思う。私はただ読んでいるだけ。自分の人生を物語にできちゃう人たちの方が、ずっとすごい。
読書タイムの十五分間は人によって過ごし方が違う。真面目に本を読んでいる人の方が少ないんじゃないかって思う。
机に突っ伏して寝ている人。せっせと課題をやっている人。近くの人と談笑している人。そんな中、前の席の日野君はしっかりと本を読んでいる。
なに読んでんの?
またよみがえる。日野君の声が。
雨粒が窓を叩く音が教室に響く。あの日も、こんな雨だった。
放課後の教室で、私はひとり本を読んでいた。急な雨で傘の用意もなかったから、母さんに連絡をして、迎えに来てもらえることになった。母さんが来るまでの時間を、小説を読んでつぶしていた。
雨音と本は相性がいいと思う。雨音は私という存在を現実世界から消したように錯覚させる。そして、私は全てを忘れて小説の世界へと埋没できる。
「なに読んでんの?」
男の子の声が、私を現実世界に引き戻した。顔を上げると、いつのまにか日野君がいる。
「あ……えっと……」
言葉がうまく出てこない。男子と喋るなんてほとんどないから、てのひらにじんわりと冷たい汗をかく。
日野君は私の言葉を待ち続けている。なにか言わないとって思って余計に焦った。
「『夏への扉』です!」
なんで敬語? 私は耳を赤く染める。
「なんで敬語?」
日野君は微笑みをこぼす。
「おもろいの?」
日野君は自分の机をあさりながら言った。
「うん。タイムトラベルものでSFのザ・王道みたいな感じ。昔の小説だけど面白いよ。あと猫がかわかっこいい」
このとき早口だったなって、いつも後になって、私は気づく。
「猫?」
「うん。猫のピート」
「かわかっこいいの?」
「うん。かわかっこいい」
へえ。おもろそう。そう言いながら、日野君は机の中からクリアファイルをだして、中に挟んでいるプリントを確かめた。
「俺も読んでみようかな」
エネルギーの塊のような目が私に向いて、私はその目を直視することができなくて、視線を本に落とす。逃げたくなって、夏への扉を探した。
私と日野君の間には、世界を隔てる粒子が幾層にも重なっている。私はそれを、強く実感した。
それじゃ。そう言い残して、日野君は教室の外に出て行った。
彼が出て行った後も、私の心臓は雨音よりも激しく、バクバクと動いていた。ああいう主人公みたいなタイプの男子と話すのはとても緊張する。だからこそ強烈に、このときの記憶は私の中に残ってしまう。
私は知っている。日野君が今、なんの小説を読んでいるのか。カナがなに読んでんの? と甘い声で訊いたのを聞いていたから。彼が『夏への扉』と答えたときの、私の中を温かく染めあげた、あの知らない感情をなんと表現すればいいんだろう。
前の席からページをめくる音がして、そのたびに気になってしまう。日野君は今、どの辺を読んでいるのだろうか。ピートの雄姿を見れただろうか。
よくない。と自分に言い聞かせる。あのときに日野君が私の前に現れたのは、忘れ物を取りに来ただけ。私に話しかけたのは、二人きりの教室で気まずくなっただけ。日野君が今、私の教えた小説を読んでくれているのは彼のきまぐれ。ただ、それだけでしかない。
日野君はカナの好きな男の子。葉月さんと付き合っているかもしれない男の子。彼の隣には、ああいう子たちが相応しい。可愛い二人に、私なんかじゃ勝ち目はない。
だから私は傍観者のままでいい。
見た目が全てじゃない。そんなこと、誰が言い出したんだろう。可愛くなければ勝負の土俵にすら立てないのに。
きっと私はひねくれている。でもそれは、私を傷つけないための最後の防壁。
あのときの知らない感情は、知らないままでいい。