最終節 「異世界転生するの? しないの?」 2
「僕は、異世界転生をしない。現世に戻る」
僕ははっきりと宣言した。
ハトホルは相変わらず僕の目を見ながら、「どうしてか、尋ねてもいい?」と聞いてきた。
「いろんな理由があるんだけど」
僕はハトホルの隣に腰かけながら言った。
「一番大きいのは、後悔したくない、ってことかな」
「へえ、なにに対して?」
「自分の生き方に。昨日、マティルダさんと縁の話になってさ」
「縁?」ハトホルが首をかしげて言う。
「そう。マティルダさんは、この世界に縁があって生まれているって言ったんだ。今まで出会った人とも縁があってそうなってるって。そして、僕はどうなのか自分で考えてみた。そしたら、やっぱり現世に生まれたのも、何かの縁があってのことだって思うようになったんだ」
ハトホルは頷きながら聞いている。
「そう思ったら、一番大事にしたい縁が、現世にあるって思った。それが…」
「キミのおばあさん、だったんだね」
ハトホルはこちらを見て微笑みながら言った。
「そう。もちろん、村の人たちの縁と、おばあちゃんとの縁はどちらが大切にすべきか、なんて比較はできない。だけど、僕の中で、一番大事にしたいものが見つかったんだ」
僕は少し息をついた。
「おばあちゃんとの縁を大事にすれば、僕は後悔することなく生きていけるんじゃないかと思う」
「現世は、必ずしもキミにとっていいものじゃないかもしれないよ? それでもいいの?」
「ああ。確かに、僕にとって生きやすい世界じゃないとは思う。でも、僕はこの世界で、自分の考え方を変えることができた。受け身で生きることを、やめることができた。現世に戻っても、積極的に生きるって姿勢を止めない限りは、少なくとも今までよりかは生きやすくなるんじゃないかって、そう思う」
僕はハトホルの顔を見た。優しい、慈しみのある表情をしていた。
「そっか。キミはきちんと考えて、きちんと自分の答えを出すことができたんだね」
ハトホルはそういうと、ベッドから降りて光が差し込む窓の方を向いた。僕は彼女の背中を見つめる。
「実を言うとね、アタシ、早々にキミをこの世界へ転生させようと思ってたんだ」
「え?」と僕が聞き返すと、ハトホルは少し間を開けて、窓の方を向いたまま話しはじめた。
「一時さ、この世界に染まりすぎて、記憶をなくしたときがあったの覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
村の診療所に赴任してマティルダさんに会うまで、僕は現世の記憶をなくしていた。
「あの時に、アタシは、キミが現世に戻ることはないだろうと思って、色々と準備を進めていたんだ」
確かに、記憶をなくしていた僕にハトホルはなんとも言い難い表情でこちらを見てきたことがあった。しかし、転生させようとしていたことには気づかなかった。
「それでも、縁があって、キミはマティルダさんと出会うことができた。そして、自分で自分の人生の方向を決めることができた。本当に奇跡みたいな話」
ハトホルは振り返って、僕の方を見た。窓からの光が後光となって、神々しい存在に見えた。
「きっかけは、単なるアタシのミスだったけど。キミは、大きく成長することができた。アタシはそういう、神をも超えた奇跡のあることが、とっても嬉しく思うの」
ハトホルはにっこりと笑う。
「ありがとう、ハトホル。君のおかげで、僕は成長できた」
僕はベッドから立ち上がり、頭を下げた。
そんな僕を、ハトホルはやさしく抱きしめてきた。
「……このハグは、その人のこれからが良くなるようにというアタシからの願いを込めたもの。しっかりと受け取って」
心地よい静寂が訪れる。
しばらくして、ハトホルは僕から離れた。
「お礼を言うのは、アタシのほう。キミはアタシに、奇跡を見せてくれた」
口元に笑みを浮かべ、ハトホルはそう言った。
きっと僕も、同じような表情なのだろう。
――
「そろそろかな」
ぽつりと、ハトホルが言う。
「君がそういうんなら、そろそろなんだろう」
僕がそう言うと、ハトホルは名残惜しそうな表情をした。
「キミとの生活、楽しかったよ」
「僕もだ。もう君の作ってくれたご飯を食べられないかと思うと、残念だ」
「アタシも、キミが一生懸命に治療に当たってる姿を見れないのはさみしいね」
ハトホルは、ベッドを指さす。
「ベッドで寝て、起きたら元の世界に帰れるように調整してあるから。後はいつでも、キミのタイミングで寝てくれればいいよ」
僕は少し、ためらった。今までお世話になった人たちの顔が浮かぶ。
それでも、自分の決めたことだ。
僕はベッドに横になった。ハトホルがのぞき込んでくる。
僕はひとつ、心残りなことを言う。
「……マティルダさん」
「うん? マティルダさんがどうかした?」
「彼女、もうすぐで亡くなってしまうだろ。そばにいてほしいんだ」
ハトホルは、少し目を開いて、それから、「分かった。約束する」と言ってくれた。
これで、大丈夫だ。もう思い残すことはない。
「それじゃ、いい夢を」
「……世話になったな」
「こちらこそ」
僕は目を閉じた。
寝つくまでに、そう時間はかからなかった。
――
目が覚めると、見慣れた天井がそこにあった。
目を横にやると、スマホと時計が置いてある。時計は、午前6時をさしていた。
起き上がると、目の前にはクローゼットがある。たくさんのハンガーに、ワイシャツやスーツなどがかかっている。
戻ってきたのだ。
僕はスマホを手に取り、一か月ぶりの操作に手間取りながらも、自分の勤務先に電話をかけた。
「……もしもし、おはようございます。田中です。急で申し訳ないのですが、祖母の見舞いに行くために有休を取得します……」