2節 僕は救えない 3
翌朝、僕はハトホルを連れて、マティルダさんの病室に向かった。
「あら、朝から先生が尋ねてくださるなんて。今日はいい日かもしれないですね」
その言葉に、僕の決心は一瞬揺らぎそうになる。
それでも、言わねばならない。
僕はベッド脇の椅子に腰かけ、真剣な表情でマティルダさんの目をしっかりと見た。
「マティルダさん、お話があります」
少し面食らった感じで、彼女も僕の目を見てきた。
「はいはい、なんですか?」
「少々、いや、だいぶん、言いづらい話になります」
マティルダさんは、穏やかな表情を崩さない。
「……マティルダさん。手術をして分かったことがあります」
「はい」
僕は大きく息を吸い込んだ。
「……がんが、既に多くの場所に転移しています」
「……そうですか」
彼女は驚くほど平然と受け止めた。僕はすかさず続ける。
「正直に言って、手が付けられないほどでした。手術と言っても、おなかを開いて状況を確認しただけで、処置を行ったわけではありません」
「……そうだったんですね」
「……はっきりと申し上げますと、マティルダさんの余命は、残り一か月ほどとなります」
マティルダさんは目を細めた。しばらく、沈黙が続いた。
それを破ったのは、他でもないマティルダさん自身だった。
「先生、お話は、それだけですか?」
「……本当は、手術後すぐにお話しすべきことでした。本当に申し訳ありません」
僕は、椅子から立って、頭を下げた。こうすることしか、今の僕にはできなかった。
「いや、あの」と、マティルダさんは困惑した声を出した。
「頭を上げてください、先生。私、怒ってたりとか、悲しんでたりとか、そういう気持ちじゃないんですよ」
「え?」と僕は下げていた顔を上げる。
「むしろ、こうして寿命を教えてくれる、誠実な先生に出会えて、本当に良かったと思っているんです」
どういうことだろう。
「……自分語りをしてもよろしいですか?」
僕は椅子に腰かけながら、「ええ、もちろん」と言った。
「私、実は夫にも、二人の息子にも先立たれているんです。それから、ジョセフさんに助けられながらですけど、一人で生きてきたんです。当然、死ぬときはやっぱり一人なんだろうな、なんて思ってたんですよ。でもね、ここの診療所にいたら、先生や妹さんがいてくれる。独りぼっちだと思っていた今わの際に、立ち会ってくれる人がいる。こんなに幸せなことはないって、思ったんです」
ニコニコとしながら、マティルダさんが話す。僕はすこし呆気にとられながら話を聞いていた。
「だから、死ぬことなんて、全然不幸せじゃないって感じてるんです」
僕は、自分の心情を語るマティルダさんに、再び祖母を重ねていた。
祖母が、僕に語り掛けてくれているような、そんな気がしていた。
「ねえ先生。妹さんがいらっしゃるでしょ。ご家族がいることは、本当にいいことなんですよ。私からしたらうらやましいくらい。だからね先生」
そういうと、マティルダさんは僕の手を取った。
「ご家族は、大切にしてくださいね。もちろん、自分のこともですよ」
僕の視界がうるんでくる。
「……はい、もちろん」と声を絞り出すことしかできなかった。
「あらあら、先生大丈夫ですか?」
マティルダさんはそう言うと、ベッド脇に置いてあった自分のハンカチを僕に差し出してくれた。
僕はハンカチに目を押し当て、声を出して泣いた。
――
どのくらいの時間が経っただろう。僕は目からハンカチを離した。強く当てていたから、少し視界がぼやけて見える。
「もう大丈夫ですか?」とマティルダさんが言う。
僕はつい、「うん、おばあちゃん」と言ってしまった。
「えっ」という彼女の声と、「あっ」という僕の声が重なる。
「あらあら、こんな素敵な孫をもって、おばあちゃんは幸せですよ」
いたずらっぽくマティルダさんが笑う。僕は顔が真っ赤になっていくのを感じた。
「先生のおばあさまはお元気ですか?」とマティルダさんが聞いてきた。
僕は答えに窮したが、ハトホルがすかさず、「今は会えてないので」とフォローしてくれた。
「あら、そしたら会いに行ってくださいな。きっと、孫の顔を見るのを楽しみにしてるはずですよ」
マティルダさんがにこりと笑いながら言う。
僕は、祖母のことを思い出しながら、一緒になって笑った。
――
病室から出て早々、ハトホルが「お疲れ様」と声をかけてくれた。
「ありがとう……君のおかげで、僕はきちんと言うべきことを言えた」
僕は彼女に向かって頭を下げた。
「アタシは君に選択を促しただけ。最後にマティルダさんに向けて寿命の宣告をするって決めたのは、他でもないキミ自身だよ。だから、お礼を言われることなんてない」
僕は頭を上げた。ハトホルは微笑んでいた。
「それで、異世界体験もあと数日なんだけど」
ハトホルは僕の目の前にきて見上げるようにして尋ねる。
「自分がどっちの世界で生きるべきか、そろそろ決めた?」
僕は彼女の目をしっかりと見ながら答える。
「……もう少し、この世界を生きてみてから決めたい」
僕は正直に言った。
「わかった。じゃあ、時間が来るまで存分に考えてみて」
ハトホルはそう言うと、廊下の奥へと消えていった。