2節 僕は救えない 2
手術の準備ができた。ハトホルに確認すると、すでに全身麻酔が効いている状況だという。
そんなに時間の猶予はないだろう。
僕は早速、マティルダさんの開腹作業に取り掛かった。
――
「これは……」
そこに広がっていたのは、いくつものがん細胞だった。
思わず絶句した。
ここまでひどい状況だとは思いもしなかった。正直、生きているのが不思議な状態だ。
「どうするの?」
ハトホルが、僕の額の汗をぬぐいながら言う。
「……正直、胃だけでここまで広がっていると、全身に転移している可能性が高い。僕と君とでは、処置のしようがない」
「もってどのくらいなの?」
「……あと一か月ももつかもたないか、だろうな」
沈黙が場を支配する。
「おなか、閉じる?」とハトホルが聞いてきた。
僕はまた絶句した。閉腹するということは、患者の治療をあきらめるということだ。
そうしたくなかった。どうにかして、マティルダさんを救いたい。
僕は目をギュッとつむり、考えた。
だが、どうしても救えるビジョンが見えない。
力を抜いて、目を開く。ハトホルからは、僕の表情がどう見えただろう。
「……閉腹する」
僕はすぐに処置に取り掛かった。ハトホルも無言で従う。
二、三時間かかるはずの手術は、一時間半ほどで終了した。
――
このところ、雨が続いている。
僕はと言えば、村人たちの診療をしつつ、マティルダさんの経過を観察していた。
「先生が手術して下さったおかげで、何とかご飯も食べられますよ」
この人はもともと根が明るい人なのだろう。そのほんわかとした雰囲気に、僕は思わず笑みをこぼす。
だが、すぐにそれは引っ込む。胸につっかえている言葉を、言おうとしても、言えない。
「あら、先生、また難しい顔して。どうされたんです?」
マティルダさんは心配そうな表情で僕を見つめる。そのしぐさから祖母を思い出して、ますます苦しくなる。
「いえ、何でもないんですよ。術後の経過も順調そうでなによりです」
僕は無理をして笑顔を作った。
まだ彼女に、「あなたの寿命は、あと一か月ほどです」ということを、伝えられずにいた。
――
日が暮れたのち、診察室で一人ぼうっとしていた僕に、ハトホルが話しかけてきた。
「ねえ」
「……どうしたんだ」
「マティルダさんに、どうやって話すつもりなの?」
僕はうつむいた。
「それは、その……」
「いい? 手術をして、もう助かる見込みがないって判断したのは、キミだよね。じゃあ、患者にそれを伝えるのも、キミの仕事じゃない?」
わかっていた。
僕がまだ現世で手術をしていたころ、同じように末期がんの患者の手術をしたことがあった。
その時の僕は、患者の家族や本人に丁寧に説明し、もう末期症状であることをはっきりと伝えた。
でも。
今回の手術は、その時の心情とは大きく違う。
僕は完全に、マティルダさんに祖母の面影を重ねていた。彼女に、手術をしたけど助からないと宣告しなければならないと思うと、胸が締め付けられ、息が苦しくなる。
ハトホルは、そういう僕の状況と心情を見抜いていたのだろう。僕の手にそっと手を重ねながら、話し出した。
「キミの立場も、痛いほどわかるよ。だけどね、何も言わなかったら、きっと大きな後悔をすると思う」
「……」
「死ぬ心構えをさせてあげられなかったっていう後悔。君はやさしいから、きっと彼女が亡くなるときの心情を汲み取ろうとする。『死ぬと分かっていたら、こうしたのに、ああしたのに』って、彼女が思っただろうと推測する。そしてやっぱり伝えておくべきだったって、後悔するんじゃない?」
「……」
「自分自身への嫌悪感を持つかもしれないね。『あの時伝えておかなかった自分は、ひどい奴なんだ』って。そんな思いを抱きながら、この世界で、あるいは現世で、生きていきたい?」
ハトホルの言うことは、確かにそうだろうと思った。
僕は、このままだと大きな後悔をする。自分のことを嫌いになるだろう。そんな予感はしている。
ハトホルは、もう片方の手を優しく乗せながら続ける。
「あのね、よく聞いて。基本的にどの平行世界でも、人間の生き方って変わらないの。よく、異世界に行ったらすべてが変わる、なんてお話、あるでしょ? でも現実は、あまり変わらない。変わるとすれば、その人の心の持ちようが変わるだけ」
いつの間にか、雨音が弱くなってきたらしい。ハトホルはそんなことにはお構いなしで話す。
「キミが異世界転生をするのかしないのか、それはアタシにはわからない。でも、確実に言えるのは、このままだと、キミは大きな後悔を抱えて生きていくことになるだろうってこと」
ハトホルは両手を離した。僕はその時初めて、彼女の顔を見た。訴えかけるようなまなざしに、僕は何も言えずにいた。
だが、僕の中で何かが変わったような気がした。
「この世界に限らず、どこでも言えることなんだけどね。後悔しない生き方が、一番いいんだよ」
「後悔しない、生き方……」
「異世界に行こうと、現世に戻ろうと、それは変わらないから。さあ、どうするの?」
ハトホルはわざとらしく首をかしげる。
僕は、腹をくくった。
降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。