2節 僕は救えない 1
その日は、曇天だった。
僕が診療所に到着すると、今日診察予定の人たちが何やら話しこんでいた。
「おはようございます」と僕は声をかける。
「何をそんなに話し込んでいたんですか?」
僕がそう尋ねると、一人が険しい顔をしながら話し出した。
「マティルダさんのことなんです」
「マティルダさん?」
「ジョセフさんの家の近くに住んでいる人なんですけどね。まだ先生はお会いしたことがないんですか?」
知らない名前だ。僕はこの村の医療を任されてから少ししか経たないが、交流のない住人はいないと思っていたので、驚いた。
「そのマティルダさんが、どうしたんです?」
「なんでも、おなかの調子が悪いみたいなんです。ひどい時だと、ご飯も食べられないくらいだって」
僕は自分の表情が険しくなるのを感じた。
「……あまりよくないことですね。折を見て、僕の方から訪問します」
この村で訪問医療というのはやったことがなかったが、いい機会だ。できる限りのことはしてあげたい。
「先生に診てもらえれば、あの人もきっと良くなるだろうね」
「うん、安心だ」
患者さんたちはみなほっとしたような顔をする。僕はにっこりと笑うと、診察室の方に向かった。
――
全てが一変したのは、午後のことだった。
珍しく診察予定が空になっていたため、僕は噂のマティルダさんの様子を見に行こうと準備をしていた。
「先生! すみませーん!」
入口の方から大きな声がする。聞き覚えのある声だ。
急いで向かってみると、ジョセフさんがいた。誰かを背負っている。
「ジョセフさん、どうしたんですか」
「いや、隣に住むマティルダさんが、おなかが痛いっていうものですから。額から汗も出てますし、ちょっとこれはまずいかなと思いまして、連れてきました」
ご老体に鞭を打って運んできたのだろう、ジョセフさんの額からも汗が出て、ぜいぜい言っている。
僕は、背負われている人の顔を覗き込んだ。
――祖母がそこにいた。
その顔を見た瞬間、昔を思い出した。
夏休みに遊びに行った記憶。高校受験に合格し、一緒になって喜んでくれた記憶。成人し医者になり、涙目になりながら誇らしげな表情をしてくれた記憶。
思い出した。
全て、思い出した。
「……先生、やはり、相当悪い状態なんでしょうか」
ジョセフさんの言葉で、我に返った。見ると、彼はとても心配そうな顔をしていた。
「……とりあえず、処置室に連れて行きましょう」
僕はそう言うのが精いっぱいだった。横を見ると、ハトホルがいつの間にか立っていた。
「すみませんが、向こうに処置室がありますので、運んでもらっていいですか? 案内しますので」
ハトホルが深刻そうな顔をして言う。
ジョセフさんと彼女は、廊下の奥の方にある処置室へと向かった。
一人残された僕は、うなだれるしかなかった。
――
処置室に入ると、祖母にしか見えないその女性はベッドに横たわっていた。
やはり、動揺する。
そんなことはあり得ないと思いつつも、この女性を祖母だと認識してしまう。
ジョセフさんが口を開く。
「先生、どうにかなりませんか。もしかしてもう、難しいんですか」
僕は答えに窮した。すかさずハトホルがフォローしてくれる。
「兄は多分、今後どのように治療するか考えているんだと思います」
そういうと、つかつかと僕のところにやって来て小声で話をする。
「ちょっと……どうしたの?」
「……君があの人を作り出した、というわけじゃないのか」
「どういうこと?」
「その……そこに寝ている人が、僕の祖母に、似ているんだ。本人じゃないかってくらいに」
ハトホルはちらりと老婦人の方を見る。そして、僕の目をしっかりと見据えた。
「……思い出したんだね。全部」
「ああ……で、どうなんだ。あの老婦人も、僕にハトを作った時みたいに、キミが作り出したというわけじゃないのか」
「はっきり言うけど、それは偶然。アタシは何もしていないから。それよりも、どうするの、あの人の措置」
僕は困惑しきりだった。だが、目の前の患者を救うしか、やれることはないのだろう。
僕は老婦人――マティルダさんのそばに行き、いくつか質問することにした。
「マティルダさん、聞こえますか」
彼女は少々苦痛な表情を浮かべてはいたが、頷いた。意識ははっきりとしていると取っていいだろう。
「おなかは、どんな風に痛みますか」
「なにかに、おしつぶされるような、そんな感じです」
僕はまた困惑した。声までそっくりではないか……。
雑念を払い、再び質問をする。
「ほかに痛みを感じるところはありませんか」
「痛み、じゃないんですが、なんだか、具合も悪くて」
具合が悪い……? 胃だけの症状じゃないということか。
もしや……?
僕はジョセフさんに向き直って言った。
「もしかしたら、思っている以上に深刻かもしれません」
彼は困ったような、泣きそうな顔をして言う。
「古くからの隣人なんです。何とか助けてくださいませんか」
「処置はしますが、それで完全に回復するとも限りません」
僕がはっきりとそう言うと、ジョセフさんはがっくりと肩を落とした。
僕はハトホルに言う。
「……もしかしたら、重い胃がんかもしれない。すぐに手術の準備をしたい」
「わかった」ハトホルはいつになく真剣な表情で応えてくれる。
僕はもう一度、マティルダさんの顔を見た。
現世の祖母は、救えなかった。だから、今度は救ってみせたい。
そう思いながら、僕は急いで手術の準備に取り掛かった。
どこからともなく、雨の音が聞こえてきた。