1節 僕の居場所 1
既に日が傾いてきた。
僕はというと、この半日、ずっと悩んだままだ。
ハトホルは律儀に、僕が結論を出すまで待ってくれているらしい。ベッドに腰かけて腕を組み、時折唸る僕のことを、飽くことなくずっと見ていた。
正直、現世に未練がないといえば、嘘になる。
祖母の死に目に会えずに死んでしまうのは、なんだか申し訳ないような気がしたのだ。
とは言いつつ、死んで悲しむ人間などたかが知れている、それならいっそ異世界転生してしまえばいい、という心の中のささやきがあるのも事実だ。
僕の心はそのささやきと、祖母との思いで揺れ動いて定まるところを知らない。
「……まあさ、悩んじゃうよねー」
ハトホルはそう言いだすと、僕の顔を見て笑顔を向けた。
「一か月はさ、本当に自由に過ごしてみればいいじゃん? 過ごしてみて、途中で現世に帰るっていうのもありだよ」
僕はその言葉を聞くと、なんだか安心した。ハトホルの言葉に、本当に僕を気遣ってくれる気持ちがこもっていた。
「まあ、あんまり異世界になじみすぎると、現世のことを忘れちゃうかもだけど」
さらりと怖いことを言う。僕は少し顔をひきつらせたが、ハトホルは対照的に笑顔を保っていた。
その時だった。
外から誰かの悲鳴が聞こえた。
反射的に、僕はベッドを降り、部屋を出た。
すると近くの大きな木のそばで、男性が倒れているのを見つけた。
横には女性が口を押えて立っていた。先ほどの悲鳴は彼女のものだろう。
僕はすぐに男性の元に駆け寄り、脈拍を取った。が、それがない。
呼吸の確認も行ったが、息をしていないようだった。
「すみません、この方はいつ倒れたんですか」
僕はそばにいた女性に話しかける。
「い、今です。主人と散歩をしていたら突然倒れてしまって……」
僕はその言葉にうなずくと、躊躇せずに心臓マッサージを行った。
1分間に100回から120回の速さ。これを忠実に守る。
それでも意識が戻らない。僕は人工呼吸も行った。胸が大きく上下し、空気が貼っていることを確認して、再びマッサージを行う。
汗が出た。医療行為を行うのはいつぶりだろうか。僕は必死だった。
本来ならばAEDの出番なのだが、この世界にはそんなものはないだろう。人の手がすべてだ。
一連の動きをしばらく繰り返すと、運よく男性が意識を取り戻した。
「あなた!」と女性は男性に駆け寄る。男性は何が起きたか分からないようで、きょとんとした顔をしていた。
女性は男性の手を握りながら、僕の方を見てなんども「ありがとう」と言いながら頭を下げる。
心がじんわりと温かくなる、不思議な感覚が体を駆け巡る。
「……この近くに病院はありませんか」と僕は女性に尋ねた。
「病院ですか? この近くにはありませんね……ああ、もう、あなたがいなければ主人はどうなっていたことか! 助けて下さりほんとうにありがとうございます」
そういうと彼女はまた頭を下げる。
「ここから一番近い病院は帝都になるね」
声をした方を見やると、そこにはハトホルが立っていた。
そういえば、こいつは死と生を司る神じゃないか。魔法か何かを使えばすぐに救えただろうに、今までどうしていたんだ?
「今までどうしてたのか、って顔をしてるね。一応、神様のルールとして死に目の人間に干渉してはならないっていうのがあるんだよ。だから、遠くから見てたの」
唖然としている僕に、彼女は語り掛ける。
「さて、病院に行くには二三日かかるし、まずは安静にさせた方がいいじゃない?」
ハトホルはそういうと、さっきまで僕がいた小屋を指さした。
僕は男性を担いで小屋に向かい、先ほどまで僕が腰かけていたベッドに彼を横たえた。
もう日が暮れようとしていた。とりあえず男性とその妻を小屋に残し、僕とハトホルは外に出た。
――
焚火の音があたりに響く。流石に、夜になると寒さが堪える。
僕とハトホルは、その焚火を囲んでいた。小屋はあの男女に譲る形になったが、まあ仕方あるまい。
「なあ、ハトホル」
「んー? なに?」
「異世界転生、するかしないかの話なんだけど」
「うんうん。結論出た?」
「……いや、そうじゃないんだ。だけど、この世界で留まるのも選択肢に入れたいな、と思って」
「ふーん」
僕がそう思ったのは、男性の妻からお礼を言われたときに抱いた感情に起因する。
お礼を言われたのは、何年ぶりだろう。
誰かのために働いて、感謝されるなんていつぶりだろう。
そう考えると、現世での扱いがどれほどみじめなものだったのか、冷たくあしらわれてきたのかが身に染みて分かった。
だからこそ、この世界でもう一度「生き直し」をするのも悪くはないのでは?
僕はそう思ったのだ。
「いーんじゃない? そういうのも含めて、考える時間をあげたんだし」
ハトホルは立ち上がり、誰もいない方に向かって手を合わせた。
すると、みるみるうちに草が生い茂り、テントのような形を作った。
「キャンプ道具を持っていないから、即席でごめんね。今日はここで寝たらいいよ」
ハトホルがふっと息を吹きかけると、たちまちに焚火が消えた。
「とりあえず、明日はあの人を帝都に連れて行かなきゃね。今日は休もう」
「……何から何まですまないな」
「いーんだよ。元はと言えばアタシのせいだし」
僕は草のテントの中に入った。辺りを見渡すと、ご丁寧にベッドまで作ってくれてあるのが分かった。
「じゃ、おやすみ。いい夢を」
ハトホルがそういうと、ふっと気配が消えた。
僕も目を閉じ、眠ろうとした。だが、体も心もこの世界になじんでいないのだろう。結局夜が明けるまでまんじりともせずベッドに横たわっていた。