その後
僕の現世での日常が、劇的に変わるわけもなかった。
あの一か月での出来事は、現世ではわずか一夜の出来事。周りの環境が変化することはない。
だが、僕自身は確実に変わった。
まず、できるだけ祖母の見舞いに行くようにした。ハトホルに語ったように、祖母との縁を大切にしたいからだ。
祖母は危篤状態で、問いかけに返事ができる状態でもない。しかし、僕は祖母の手を握りながら話しかける。
仕事はこんなことをした、天気はこんな感じだ、今日は○○記念日だ……どれも他愛のないことだ。
だけど、何となくだが、返事がない祖母とコミュニケーションが取れている気がする。僕が語ると、祖母が手を握り返してくれている気がするのだ。
現世に戻ってきて、よかったと思う。
仕事の面でも、僕は意識を変えた。
僕のミスで、大きな迷惑をかけたのは間違いない。閑職に回されても仕方ない。まずはそう思うことにした。
だが、その場所で嫌々仕事をするのと、積極的に仕事をするのとでは、違うだろう。
僕は後者になるため、事務の人や医師の同僚たちと積極的にコミュニケーションを取ることにした。
すると不思議なことに、僕の悪い評判を聞くことがなくなった。そして、少しずつだが、手術の現場に呼ばれるようになったのだ。医局長が僕の働きぶりに一定の評価をしてくれたらしい。
今では、緊急手術の際にも、サポート役でだが必要とされるようになった。
過去の僕は、そこにいるだけで、何か変化があるかもしれない、と思った。
だが、あの世界で過ごした時間が、そうじゃないよと教えてくれた。
休憩の時間になり、僕は外に出た。
雲一つない空が広がっている。
僕は持っていた缶コーヒーを一口飲み、空を見上げ、彼女のことを少し思い出した。
僕のことを変えるきっかけを作ってくれた、彼女のことを。
――
アタシは、マティルダさんの病室に来ていた。
今日が山だということは、誰の目から見ても明らかだった。
マティルダさんの手を握りながら、そばにいるしかできない。
自分は神だが、掟で死にゆくものを助けてはならないことになっている。
――つくづく、無力だよね。
アタシはそう思うと、自分が情けなく感じた。
視線を窓の外にやると、今日もよく晴れているのが分かる。
ふと、彼のことを思い出す。よく、天気のことを気にかけていたっけ。
……彼なら、どう声掛けをするかな。
アタシはぼんやりと、そんなことを考えていた。
すると突然、マティルダさんが閉じていた目を開いた。のぞき込むと、彼女と目が合った。
「……あら…妹さん…」
「マティルダさん、アタシが分かる?」
「……ええ…」
死を直前にしたこの段階で目を覚ますのは奇跡に近い。アタシは驚くしかなかった。
「……先生」
「……ごめんなさい。兄は来れないの……ごめんなさい……」
この瞬間、どれだけ彼にいてほしかったか。マティルダさんのことを思うと、やりきれない。
「……いいんです……元の、世界に……帰れた、かしら……?」
アタシは驚きを通り越して、硬直した。
「……あの方……不思議な、質問を、されたから……もしかして、と思ったけど……」
……彼とマティルダさんの間にどんな会話があったかは分からない。けれど、マティルダさんは、兄がこの世界の人じゃないって見抜いたらしい。
「……無事に、帰れ、ましたか……?」
「ええ……無事に、帰りましたよ」
アタシは彼女の手を強く握って言った。
マティルダさんはそれを聞くと、かすかな笑みを浮かべ、その後、目を閉じた。
握っていた手が、急速に冷えていく。
シーツにぽたぽたと何かが落ちる。
どうやら、気づかない間に泣いていたらしい。
「……約束、果たしたよ」
アタシは、窓の外の青空に向かって、そうつぶやいた。
つたない文章でしたが、読んでいただき、ありがとうございました。