はじまり 「いざない」
「間違えて転生させちゃってごめんなさい!」
目の前の少女が頭を下げる。
僕はその姿を見てますますわからなくなってしまった。
転生? 転生って、あの、異世界転生?
混乱する僕の目の前で、少女は下げていた頭を上げ、僕のことをじっと見ていた。
――
僕――田中恭介は医者だった。
いや、正確に言うと今も医者なことには変わらない。
だがもう、僕を「田中先生」と呼ぶ人はいない。
院内では「窓際さん」とささやかれ、嘲笑されてどのくらい経つだろうか。
僕の日々の業務は、与えられた書類を整理し、それをデータに打ち込むことだけだ。
手術中のミスが原因とは言え、こんな閑職に飛ばされるとは。
「窓際さん、まだやめないのかね」
「もうあと三か月ももたないでしょ。俺ならとっくに辞めちゃうね」
僕のそばでこれ見よがしに繰り広げられるそんな会話が、死にかけの心をえぐってきた。
何もかもが嫌だった。
自分も、他人も、環境も、何もかもが。
でも、僕は今の場所を離れられなかった。
続けていれば、もう一度、医療に携われるかもしれない。
そこにいるだけで、何か、変化があるかもしれない。
僕はその願いにすがるだけすがって、無為な日々を過ごすだけだった。
だが、悪いことというのは重なるものだ。
僕には祖母がいる。
幼少のころから無償の愛というものを注いでもらった、かけがえのない存在。
高校受験や大学受験など、人生の節目節目に、たくさん応援してもらった、僕にとっての大事な存在。
その祖母が、入院先の病院で危篤状態になったという。
続けていても、もう何も変わらないかもしれない。
そこにいるだけで、何も、変化しないのかもしれない。
そう思い始めていた矢先のことだった。
――
その日の朝。
僕は珍しく陽の光で目を覚ました。
珍しく、雨の天気予報が外れたのか、と思いながらスマホに手を伸ばそうとすると、そこあるはずのものがなかった。
おかしいな、と思いつつ起きてみると、僕の部屋とは違う、見るからに殺風景な部屋が広がっていた。
誰かの家に泊まったか、とか、まだ寝ぼけているんじゃないかとか、そういう考えが頭の中をかけ巡る。
いよいよ意識がはっきりしてきたのと同時に、僕はなんだか怖くなった。よく見ると、自分の服装も、部屋着から簡素なものに変わっていた。
呆然としてベッドにいるとき、いきなりバタンと大きな音がして心臓が跳ね上がった。
音のした方向を見ると、ドアらしきものが開かれ、そこに人影が見えた。
訳も分からずその人の様子を見ていると、ずんずんずんずんと女性がこちらに向かってきていた。
僕が圧倒されて声も出ないのを気にせず、その人は僕の真横に立った。
女性と言ったが、せいぜい子どもほどの大きさしかない。金髪のショートヘアで、瑠璃色の瞳をした褐色の少女だ。長いスカートをはき、白シャツに牛柄の羽織を着ている。少し幼さの見えるその顔が、口を真一文字に結んで僕の顔を覗き込んでいる。
その圧に屈するように、僕は思わずつばを飲み込んだ。
「やっぱり……」
彼女は一言つぶやくと、大きなため息をついた。
初対面の人間の顔を覗き込んでおいて、失礼な態度だ。
そう思ったのもつかの間、彼女は大きな声で言う。
「間違えて転生させちゃってごめんなさい!」
目の前の少女が頭を下げる。
僕はその姿を見てますますわからなくなってしまった。
転生? 転生って、あの、異世界転生?
混乱する僕の目の前で、少女は下げていた頭を上げ、僕のことをじっと見ていた。
これが彼女との――ハトホルとの出会いだった。
――
「えーっと……」
僕は混乱する頭の中を整理しようと、声を出してみた。
「とりあえず、あなたは、誰ですか?」
少女ははっとしたような顔をした。
「ああ、自己紹介がまだだったね。アタシはね、生と死の世界と異世界転生を司る神だよ」
え、なんだって?
まったくもって分からない。ラノベの読みすぎなんじゃないのか。
「ちょ、ちょっと待ってください。何が何だか分からない。異世界転生とかゲームや漫画の話だし、それになんですかこの部屋。僕の寝ていた場所はこんなところじゃない」
僕の必至の訴えにもかかわらず、彼女は反応を示さない。
少女は僕の横に来て、ちょこんとベッドに腰かける。
「百聞は一見に如かず、ってね」
彼女は、両手を重ねて、そこからハトを出して見せた。
驚いて目を見開く僕に、彼女は「どうぞ」と言ってそれを差し出す。
僕は言われるがまま、掌に載せる。人懐っこいハトなのだろう、僕の手のひらで鳴きながら羽を休めていた。
すると少女はにこりと笑って、片手を握った。
ハトは、苦しそうなうめき声をあげだした。僕は慌てたが、そのハトは横になって動かなくなってしまった。
「ねえ、あなたお医者さんなんでしょ。そのハトが死んでるかどうか、見てあげてよ」
そう言われて、僕はハトの生死を確認した。僕の専門は獣医ではないが、はっきりとわかる。ハトは死んでいた。
言葉が出なかった。しばらく無言のまま時間が過ぎていった。
すると突然、少女は手のひらを叩いた。
いきなりのことにびっくりした僕だったが、もっと驚くことに、ハトが目を覚まし、僕の手のひらから飛び去って行った。
「アタシは」と、彼女は言う。
「生と死の世界と、そして異世界転生を司る神のハトホル」
少女――ハトホルは僕に笑顔を向けた。
僕は否が応でも、異世界に来たこと、そして目の前の少女が神であることを信じざるを得なかった。
――
「間違って僕を転生させたって言ってましたよね。じゃあ、戻してくれませんか」
僕はハトホルに当然の主張をした。
「んー。それもいいんだけどさ……というか、敬語はいいよ、めんどくさいし」
ハトホルは足をぶらつかせながら言う。
「お詫びと言っては何だけど、ちょっとこの世界で暮らしてみない?」
「え?」
「ここに来る前に、キミのこと、ちょっと調べさせてもらったんだ。都会の病院で働く30歳の外科医。しかし今は過去の医療ミスによって同僚たちから忌避され事務仕事しか回されない哀れな…」
「わかった、わかった」
僕は慌ててハトホルの言葉を遮る。事実とは言え、淡々と並べられると苦しいものがある。
「この世界で暮らすって? どうして」
「だからさー、お詫びだって言ってんじゃん」
ハトホルは、ポケットから紙を取り出した。
「まさかその人と同姓同名がいるとはねー」
彼女はその紙を僕に渡してきた。見てみると、「田中恭介 56歳 アルバイト従業員」と書いてあり、その横に証明写真のようなものが貼ってあった。
いうまでもなく、僕とは別人だ。
「その人、今日交通事故で亡くなったの。それで、死者の世界の厳正なる抽選で選ばれて異世界に転生することになったんだけどね。アタシ、これでも忙しくてさ、名前だけ確認して『田中恭介』を転生させて、って言ったんだけどさー。どこかでミスしちゃったらしいんだ」
ハトホルは僕から紙を取り上げて、丁寧にたたむとポケットに戻した。
「アタシだって神のプライドくらい持ってるんだから。このまま元の世界に戻ってさあ終わり、ってわけにはいかないよ」
そして彼女は、僕の耳元で囁くような声でこう言った。
「ストレス、溜まってるんじゃない? ゆっくりと異世界ライフを楽しんで、たまにはのんびりしようよ」
そう言われて、僕は悩んだ。
このまま異世界に転生してしまえば、楽しいことだらけなのではないか。
何の生産性もない現世に戻って、何があるんだろう?
でも、現世には大切な存在がいる。僕に愛情を注いでくれた祖母がいる。
「…おばあさんのこと、気にしてる? 大丈夫、現世の時間は動かさないでいてあげるから。一か月でどう? もしこっちの世界が気に入れば、そのままいることもできるよ」
その言葉に、さらに僕の感情は揺れ動いた。
「……それは、本当か?」
ハトホルは僕の耳元から顔を離し、今度は立ち上がって正面から目を見て話してくる。
「本当だよ! そりゃあ、好きな世界にいた方がいいもん。迷惑かけちゃったんだから、そのくらいはしないとね。ただし……」
彼女は少し真剣な表情になった。
「本格的な転生をするなら、当然、現世では死んでもらわないと、ね」
僕は驚いて目を見開く。
「二つの世界に同じ人間がいてはならないっていう、世界のルールがあるの。だから、現世を取るか異世界を取るかは、決めてもらわないと」
ハトホルの言葉に、僕は唸ることしかできなかった。