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戻り時計  作者: 村良 咲
正義~清恵編~
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郷愁

 女湯の暖簾を右手で除けるようにして出ると、清恵は左側にあるマッサージ器の並ぶ辺りに目を向けた。夫の雅文が出ているか確認するためだ。先に出てたらマッサージしてるからと言づけて男湯の暖簾をくぐっていった。


「やっぱりね」


 たぶん自分が先だろう。夫は家でも長湯なのだ。久しぶりに来た温泉なのだから、堪能するだろうと予想はついていた。清恵は待つ間に喫茶コーナーでもと思ったが、空いて入るマッサージ器を見て、たまにはいいかとそこに座った。


 十分ほどそうしていたか。瞑想というほどでもないが、目を瞑って自分の身体が解れていくことを感じていると、ふと人の気配を感じ目を開けた。


「おっ、いいな。俺もやってくよ」


 そう言って、空いている横のマッサージ器に腰を下ろした。平日の温泉はそこまで混んではいなかった。


「ね、私はコーヒー飲みたいから、そこの喫茶コーナーにいるからね」


 おそらく雅文は十分どころか止めなければ三十分近くマッサージ器にいるだろう。待っている人もいないのであれば、まずそうなるだろう。それも想像できてしまうくらいには夫婦生活は続いていた。今回の旅行は三人の娘たちからの、労いのためのプレゼントだった。


 次女が大学入学で家を出るころに義父の介護が始まり、義父を見送るころには義母の介護も始まっていた。そして義母も見送ったとき、上の娘にはすでに子供がおり、末娘は二十五になっていた。この十年、家を空けたのは娘の県外大学入学と卒業のための準備で泊まりで行ったときくらいなだけだった。が、その機会についでに観光地を回ったことは言わずもがなだが、ついでというだけあって、帰り道に寄ってきたというだけのものだった。


 子供たちに旅行をプレゼントされ、義両親の介護をしている間に自分の父も見送り、自分も母が元気なうちにこんなふうに温泉に連れ出してやりたいなと、実家の母を想い、自分の原風景に思いを馳せながらコーヒーを飲んでいると、ロビーの片隅にその原風景に似た絵があることに気付いた。


 清恵は急いでコーヒーを飲み干し、絵の前まで足を運んだ。そして二~三歩下がって、絵全体をその目に写した。


「似てる」


 自分の実家の辺りに似ていると思ったが、でも考えてみたらこんな田舎の風景はどこにでもあるような気もするなと、それでも懐かしく見上げていると、音もたてずに女将がいつの間にか近くに来ていたことに、かけられた声で気付いた。


「どこか懐かしくなるような絵でしょう?」


「そうですね、なんだか田舎の景色に似てるような気がします」


「私もです」


「有名な方が描かれたんですか?」


 清恵は絵の左下に書かれたmichiというネームに目を遣った。


「えーっと、私の中では有名なんですけど、一般的には……どうでしょう。榊原未知留さんっていう画家さんなんですよ。ご存じですか?」


 さかきばら……みちる。そのあと女将が何か言っていたようだが、耳に届かなかった。何十年かぶりに聞いたその名前に、身体に魔法がかかったように身が固まった。


「お客様……お客様」


「あっ、はい、すみません。見入っていました」


「素敵な絵ですもんね。どうぞごゆっくりしてってください」


「ありがとうございます」


 榊原未知留。どうりで自分の原風景に似ていたはずだ。未知留が描いたものならば、これは私たちの田舎の景色ではないか。


「あっ、女将さん。ちょっといいですか?」


 清恵に背を向けて歩き出した女将に声をかけた。


「はい、なんでしょう?」


「この方の絵って、どこで買えるんですか?素敵なので、見てみたいのですが……聞き覚えのない作家さんなのですけど」


「ありがとうございます。この画家さん、実はご近所さんなんですよ。駅前のギャラリーに時々飾らせてもらっているんです。それで、ちょうど今、いくつか展示されてるんですよ。タイミングよかったです。よかったら覗いてあげてください」


 女将の声のトーンが一つ上がった。嬉しそうな声に、よほど懇意にしているのだなと、清恵は自分が知らない時間の未知留を思い、少しだけ寂しさを覚えた。一緒に時間を過ごしていたあの頃、未知留はいつも心細い顔をして、清恵の手を握っていた。


 あれから何年経っただろう……って、もう半世紀も経っている。そう思うと、ふっと鼻から笑みが抜けた。


 私たち、上手くやったよね。未知留とは会えなくなったし、その居所もわからないままになっていたけど、未知留、この街にいたんだ。


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