◼️ その時、王太后は
夜に若干の改稿をしました。
侍女と側近に下がってもらい、わたくしは一人、自室に入った。
立っていられなくなるなんて、きっとみんなに心配をかけたわ。
こんな時だからこそ、わたくしがしっかりしなければならないのに……
わたくしは、まだまだ弱いままね。
でも。
いつも支えてくれるみんなには、感謝しているの。
本当に。いつも、ありがとう。
「どうか、今だけは許して頂戴……」
誰もいない部屋に呟いて、壁面に飾られた肖像画に目を向けた。
鮮やかな絵の具で描かれた愛しい人が見える。
焦げ茶色の髪に、焼けた肌。
子供たちと同じ青い瞳。
歯を見せて笑うのは、この人の癖ね。
いつみても太陽みたいな眩しい笑顔。
十年前に時を止めてしまった、わたくしの夫がそこにはいた。
肖像画に向かって歩きだす。
吸い込まれるように足を進めせてしまうのは、きっと居場所に帰ってきたせい。
「あなた……」
呼びかけても、返事はない。
でも、聞いてほしいの。
「あの子たちは……やり遂げてくれましたよ……」
あなたの願いのままに。
あの子達は、勇者になってくれましたよ。
わたくしは震えだした口角を、無理やり持ち上げた。
目を伏せて思い出すのは、子供たちが産まれた日のこと。
産声をなかなか上げなかった長男。
その横で、元気に声を出していた次男。
双子だったことは、とても驚いたわ。
でも、何より驚いたのは、二人の髪の色。
金髪のわたくしと、焦げ茶色の髪の夫に似ていない、真っ黒な髪。
初代勇者さまに、あの子達はそっくりな容姿だった。
初代勇者さまは、黒髪に青い瞳を持っていてね。
日本という異世界から、体ごとこの世界にやってきたと伝えられていた。
初代勇者さまによると、ここはRPGというゲームの世界だそう。
勇者さまはゲームの知識を元に、鍛練を積まれて見事に魔王を倒した。
勇者さまは王妃さまと成婚されて、王族となられた。
夫はね。勇者さまの血を引いているの。
だから、青い目をしているのよ。
でも、黒い髪は、数代前にはいなかった。
わたくしたちはすぐに魔王の復活を疑ったわ。
古の教えによると、勇者が現れるのは、魔王が復活した証だと言われていたから。
夫はすぐに国中に捜索部隊を派遣した。
魔王の位置を突き止めるだけで、決して攻撃しないよう言い含めて。
そして、国防にも力をいれていたの。
モンスターがこないように、六年間、魔王対策を行ったわ。
でも、悪夢は訪れた。
魔王の配下の一人が、辺境の村を襲ったの。
「俺が出て食い止める」と、言ったのは夫だった。
おぞましい姿のモンスターに立ち向かう彼に、わたくしは不安を隠せなかった。
「心配するな。俺も勇者のはしくれだ。みんなを守れる」
にっと笑った彼は頼もしかった。
彼とパーティを組んでくれた人も強い人ばかり。
勇者王が出ることで、士気もあがったわ。
でも、わたくしは不安がぬぐえなかった。
虫の知らせかしら。
行かないで、と言ってしまいそうだった。
わたくしは魔法も剣も使えなかったから、城に残るように言われたわ。
「子供たちと一緒にいてくれ。帰りを待っててほしい」
真摯な眼差しで言われたら、わたくしは頷くしかできなかった。
夫が戦場に行った後、わたくしは政務の合間、子供が寝ついた夜、聖堂で祈りを捧げ続けたわ。
それしか、できることがなかった。
祈りを捧げていると、優しい声が耳をなでた。
──いきなさい。
あの声は、地母神さまかしら。
顔をあげたとき、ステンドグラスから七色の光が降り注いでいた。
わたくしは我を忘れた。
衝動を抑えきれずに、無理をいって、宮廷魔術師に頼み込んだ。
「お願い。あの人のそばにいかせて……!」
「ですが、王妃さま……」
「お願い……戦場には入ることはしないから……」
戦場に足を踏み入れなければ、モンスターから攻撃はされない。
このゲーム世界の理。
子供たちを任せて、転移の魔法を使える宮廷魔術師と共に、わたくしはあの人の側へ。
辺境の村は、黄金の稲穂がゆれる美しい場所だと、侍女から聞いていた。
夕焼け空の下で小麦畑に立つと、空から大地にかけて、黄色のグラデーションがかかるんですって。
空は白に近い黄色で、地平線を境に濃くなる黄色。足元はオレンジ。
あれ以上の夕焼けを見たことがないって、侍女はほうと、息を吐きながら言っていた。
その顔がとても綺麗でね。
いつか、見てみたいと思ってたわ。
転移して辺境の村にきたわたくしが見たのは、オレンジ色の空。
そして、灰になって、焼き払われた小麦畑。
黄金は失われて、黒い土だけになっていた。
美しかった光景は、モンスターによって踏み荒らされていた。
どれほどの人が、この畑を育てたのでしょう。
どれほどの時間をかけて、手間をかけて。
どれほどの人が、稲穂に想いを馳せたのでしょう。
どれほどの人が、この畑でとれた小麦でパンを作ったのでしょう。
どれほどの人が、パンを食べて満たされたことでしょう。
そこにいくつの笑顔が、会話があったのでしょう。
モンスターは、それら全てを奪っていった。
でも、それでも。
辺境で暮らす人々は、怪我だけですんだ。
あの人と、仲間の方々が守ったんですって。
黒い大地に胸が締めつけられ、わたくしは顔をくしゃくしゃにした。
護衛と魔術師たちと共に黒く、荒れた大地を駆けた。
息を切らせて向かった先に、戦場があった。
戦闘は終わっていて、黒い大地にあの人は立っていた。
彼の仲間が周りを囲んでいたわ。
あの人の白銀の甲冑はぼろぼろで、血が流れ出ていた。
彼の命が血と共に消えていく。
それが嫌で、わたくしは必死に彼の名前を叫んでいた。
でもね。彼は振りかえってくれなかった。
振り返る力も残っていなかったのよ。
彼の前に立ったとき、彼にはまだ息があって、わたくしを見て困ったように笑ったの。
「……きちゃ、ダメじゃないか……」
そんなことを言ってね。ひどい人だと思ったわ。
もし、わたくしかここにいなかったら、あなたとお別れができないじゃない。
不意にあの人の体が、力を失って崩れた。
わたくしはとっさに両手を伸ばしたけれど、彼を支えきれなくてね。
二人でもつれ合うように、一緒に地面に崩れた落ちた。
彼の下敷きになって、背中から倒れる。
焦げた地面の匂いと、あの人が流した血の匂い。
どちらの匂いも悲しくて、わたくしは泣きじゃくっていたわ。
彼の仲間があの人を仰向けしてくれて、わたくしはぼろぼろに泣きながら彼を見た。
あの人は虚ろな瞳でわたくしに視線だけを向けた。
口元に笑顔を浮かべて。
「誰も死なせなかったよ」
まるで子供のように。褒めてほしいと笑顔を向けてきたの。
だから、わたくしも口元に笑みを浮かべて答えたわ。
「えぇ……あなたは……守ったわ……あり、がとう……」
彼は安心したように目を細くする。
「……子供たちを……たのむ……」
細くなる声に、何度もうなずいた。
「えぇ、えぇ……わかって……います」
虚ろだった彼の瞳が、うるみだす。
「ごめん……愛している……」
うるんだ目はそのままに、彼の瞳から光がゆっくり消えていった。
「……あなた?」
「…………」
「……あなた……寝てしまったの……?」
わたくしは彼の頭を抱きしめた。
「こうして、抱きしめないと……あなた、眠れないでしょう……? ……あなたは、甘えんぼうなところがっ……ある……からっ……」
わたくしは夫を抱きしめたまま、空を仰いだ。
太陽が燃え落ちていく。
地平線に沈む橙色は、涙に濡れたせいで、色がぐしゃぐしゃになっていた。
彼は子供を勇者にしてほしいと、仲間に告げて、笑顔で逝ってしまった。