8.かあさま
ぐんぐんスピードに乗って走っていったら、あっという間に王宮の入り口まできてしまった。
息も上がらず足をとめると、ぽかんとしていた衛兵たちと目があった。
「ただいま。中、入っていいか?」
声をかけると、我に返った衛兵が慌てて扉を開いてくれた。
両開きの重厚な扉だ。
片方だけが開けられると、見えたのは栄光の青。
勇者の青い瞳を敬愛する俺の国は、青は特別な色なんだ。
青い絨毯を懐かしく感じていると、さらに懐かしい顔が俺を待っていた。
白髪を後ろになでつけ、皺の深い目尻が俺を見てゆるんだ。
子供の頃からの顔見知り。
俺はじいやと呼んでいた。
「じいや!」
嬉しくて声を出すと、灰色の瞳がかすかに潤みだす。
「……殿下」
駆け寄ると、目線の違いに驚いた。
魔王討伐に旅立つ前、俺の身長はじいやより低かった。
今は見下ろす視点だ。
いつの間にか、身長がずいぶん伸びたらしい。
「ご立派になられましたね。お顔が見れて嬉しゅうございます」
じいやは、俺の足から頭までじっくり眺めて、息を漏らすように話す。
「ありがとう。俺もじいやの顔が見れて嬉しいよ」
本当だよ。だから、じいや。
涙を流さないでくれ。
俺まで泣けてくる。
じいやは胸ポケットから白いハンカチを取り出して、さっと涙をふいた。
潤んだ瞳のまま、体を横にして道を開けてくれる。
「王太后さまがこちらに向かっていますよ。そろそろお越しになる頃かと──」
じいやの声に被さるように、高い声がした。
俺の名前が聞こえる。
声の方を見ると、裾の長いドレスをさばきながら走ってくる人がいた。
目があった瞬間、また名前を呼ばれた。
よほど慌てているのか、スカートが足に絡みそうになっている。
凛と佇む姿と優しい手しか知らないから、俺は驚いてしまって、足を動かせずにいた。
また、名前が呼ばれる。
「……母上」
呟いた瞬間、足は動き出した。
間抜けにも前につんのめりそうになった。
膝が震えて、どうしようもない。
なんで全身まで震え出すのだろう。
細胞の一つ一つまでが、「会いたかった」と訴えているみたいだ。
帰りたい。
家族の元へ。
早く。
「母上!」
近づくと母上の顔がくしゃりと歪んだ。
母上は細い両腕を広げて、飛びつくように俺に抱きついてきた。
慌てて受け止めたら、俺たちの距離はゼロになる。
腕の中の母上は小刻みに震えていた。
か細い声が俺の名前を呼ぶ。
存在を確かめるように、何度も何度も。
兄貴の名前じゃなくて、俺の名前だけだったから、胸に込み上げてくるものがあった。
「おかえりなさい……っ」
嬉しさがまじった涙声。
俺は母上の肩に頭をのせた。
「ただいま……」
母上のすすり泣く声が胸の中で響く。
生きて、ここに帰りたかった。
待っててくれる人に、ただ会いたかった。
込み上げた思いは言葉にならず、俺たちはしばらくの間、抱き合ったままだった。
時間を置いて体が離れたとき、母上の目は真っ赤で、俺も赤い目をしていたと思う。
ふと、母上の視線が俺の首にとまる。
下げた袋を見ているのだろう。
俺は服の下にしまった袋を母上に見せた。
「……これ、兄貴の……」
言葉がとまってしまった。
何て言えばいいのか、わからない。
でも、後悔も無念さも仲間の前で吐き出したから、俺は兄貴の最期を伝えることにした。
迷いなく振り上げられた力強い拳。
俺たちを守った背中を。
「……必殺技を出した兄貴……格好よかった……よ」
唇が震えたから、言葉は途切れ途切れになった。
肺いっぱいまで息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
泣かないように口角を持ち上げた。
「最期まで格好よかった! 兄貴は俺たちの勇者だったよ!」
敬語も忘れて、明るい声をだす。
へへっと笑うと、母上も目を細くする。
返事はなく、母上は俺の手ごと両手で包む。
袋に額をつけて、腰をわずかに落とす。
「勇敢なるあなた方に、国民を代表して感謝いたします。勇者さま方。またこの国に、平穏をもたらしてくれてありがとうございます」
母上は腰をあげると、切なく微笑んで袋を見た。
「おかえりなさい……会いたかったわ」
兄貴の名前を呼んで、繰り返される「おかえりなさい」の優しい声。
その声を聞いていたら、眉根に力が入った。
父上を亡くして、兄貴もいなくなって、俺まで母上を置いて逝ってしまったら……母上はどうなっていただろう。
魔王との戦いは俺も辛かったけど、一番、苦しい思いをしたのは母上だったんじゃないだろうか。
そう考えると、たまらない。
「おかえりなさい」の言葉に返事がないのが切なくて、喉から滑るように声がでた。
「母上、ただいま戻りました」
明るく澄んだ声になった。
俺らしくない。兄貴っぽい声と言葉。
母上は「おかえりなさい」をやめて、俺を見る。
見開いた金色の瞳に喉がつまって、視線をはずす。
兄貴の代わりなんて、しないほうがよかったかな。
「……兄貴だったら、そう言うかなって思って……その……」
口ごもる俺に、母上は花開くように微笑んだ。
「ありがとう。とても嬉しいわ」
母上が笑ってくれたことに安堵して、俺は胸を撫で下ろした。
それから、母上は俺が眠るまで側に居たいと言い出した。
「子供のときみたいに、寝かしつけをさせて」と、にこにこと微笑まれたら断れなかった。
俺、もう十六歳だからさ。
母親に見守られて寝るなんて照れるけど、今日ばかりはもう少しだけ、母上の側に居たかった。
ちょっとだけ、甘えたい。
俺の歯切れの悪さにエルサがしびれを切らして「親子水入らずの夜を楽しみなさい」と背中を押した。
仲間たちは、じいやが連れて行ってしまった。
客間をそれぞれ用意してあるって言ってたから、今夜は王宮で寝泊まりする。
元々、そのつもりだったけど、早めに来たからさ。
まだ準備ができていないと思ってた。
対応してくれたじいやたちに感謝しないとな。
そういうわけで、俺は母上と、母上の付き添いの侍女ふたりと護衛と共に、自分の部屋に行った。
部屋の奥にある衣装部屋で、適当な夜着に一人で着替える。
身長が伸びて、袖とズボンの丈が足りない。
それに腹もでる。
「つんつるてんだな……」
嘆息して衣装部屋から出ると、俺の姿を見た母上がくすっと笑った。
「大きくなったのね。でも、お腹を出したら、風邪をひくわよ」
母上は侍女に目配せした。
その合図を受け取って、侍女が俺の衣装部屋から薄手のブランケットを持ってきてくれた。
母上は侍女からブランケットを受け取ると、俺の出ていた腹を隠すようにそれを巻いた。
きゅっと結び目を作ると、母上はにっこり笑う。
「これでいいわ。横になって」
俺はそろそろとベッドに横になった。
ふかふかのベッドは体を優しく包む。
雲の上にいるみたいだ。
侍女がベッドサイドに椅子を運んできてくれて、母上が座る。
俺を見下ろしながら、頭をなでてくれた。
優しい手つきは、くすぐったくて気恥ずかしい。
この状態で、寝れるのだろうか。
甘えたいとは思ったけど、子供扱いは妙に照れた。
「あなたはこうして頭を撫でると、落ち着いて寝てくれたわね」
ふと、母上が懐かしそうに目を細める。
「そうだったっけ?」
「そうよ。あなたはなかなか眠らなかったんだけど、頭を撫でると落ち着いてくれて、ぐっすりだったわ」
いつの頃の話だ。
記憶がない。
「ふふ。かあさま、寝てる間も一緒?ってよく聞かれたわ」
そんな事、言ったっけ?
全然、覚えていない。
「ねぇ、また〝かあさま〟って呼んでくれない?」
俺はぎょっとして、目を泳がせる。
「それは……」
「ダメかしら……?」
「えっと……」
照れる。ものすごい恥ずかしいんだけど。
母上が悲しげに眉を下げたから、俺は意を決してひとつ深呼吸。
目を閉じた。
目をつぶっていたら、羞恥は消えてくれそうだ。
「かあさま……」
ぼそぼそとした声でいうと、ふふっと嬉しそうな声が耳をなでた。
「なあに? 眠れない?」
「うん……ちょっと……」
「そう。かあさまが側にいるから、大丈夫よ。怖いことから……守って……あげるから……ね……」
震えだした母上の声。
守りたかったと、言われているみたいだ。
母上、俺も同じだよ。
俺も、守りたかった。
だから、俺は子供のふりをした。
「かあさまが側にいるなら、怖くないよ」
頭をなでる手がとまる。
すんと鼻をすする音は、聞かないことにした。
「そう……?」
「うん。……眠くなってきた……」
「ふふ。このまま寝ちゃいなさい……」
「かあさま」
「なあに」
俺は目を閉じたまま、体を横にした。
母上の方を向いて、身を小さく丸める。
「寝ている間も、そばにいてくれる?」
なにかを噛み殺す声が耳に小さく届く。
震えた手が俺の髪をすいた。
「えぇ、えぇ……もちろんよ」
「よかった」
言葉を切って、寝たふりをした。
しばらくすると、独り言のように母上が呟く。
「生きて帰って来てくれて……ありがとう……」
その言葉は、俺の胸をきしませた。
俺まで母上を置いて逝かなくてよかった。
生きてやるとは思っていたけど、母上の言葉を聞いていると、〝生きたい〟と思えてくる。
「母上の元に帰れてよかった……」
ぽつりと呟くと、母上の手が頭からなくなった。
嗚咽をこらえる細い声が上からふってきたけど、俺は寝たふりを続けた。
か細い声を聞きながら、決して母上より先に逝くまいと、俺はひそかに誓った。