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重大任務

 高志が引っ越してから一ヶ月が経った。

 一ヶ月もすると、だいぶ自分なりのリズムが掴めてくる。

 朝、高志のアラーム設定の5分前に、隣の部屋から目覚まし時計の音が聞こえてくる。

 高志の携帯のアラームが鳴る頃には、隣の部屋から「有希ちゃん!朝だよ!」と、清花の元気な声が聞こえてくる。

 有希は朝が弱いらしく、根気よく清花が起こしている声を微笑ましく感じながらも高志は簡単に朝食をとり、身支度を調えた。

 いつしか、もう一方の隣の家からも「竜太さん、起きてって言ってるでしょうが!おきろー!」と、怒号が聞こえてきた。

 案の定、竜太が起きる気配はない。

 高志は気合いを入れるとカバンを持って家を出た。

 家を出た高志は隣の家の扉の前に立った。

 表札には「鈴村」と書かれている。

 高志が一応インターホンを鳴らしてみると「入って!」と、みな子の声が聞こえた。

 高志は鍵を取り出すと、扉を開けた。

 それは、高志の転勤三日目にして、みな子が、鍵を開けに行く時間が勿体ないからと、渡してきた合鍵だった。

 扉を開けると、高志はまっしぐらに、鈴村家の寝室に向かい、竜太がくるまっていた布団を慣れた様子で剥いだ。

 竜太の手が布団を探そうと動き出すと高志はすかさずその腕を取って上体を起こさせた。

 そこへ、みな子が、着替えを持ってやってくるので、二人がかりで竜太のパジャマを脱がせて、スーツを着させる。

 大の大人の着替えをさせることに初めは多少の抵抗があったが、みな子の負担と、会社の始業時間に遅刻するリスクを考えた結果、今ではこれも業務の一環と割り切ることにした。

 着替えを済ますと、みな子が、パンを竜太の口に放り込んだ。

 高志は竜太の斜めがけのカバンを竜太の肩にかけさせると「行きますよ」と、竜太の腕を引っ張った。

 こうして順調に竜太を引っ張ってこられた日は大抵、及川家の前を通る頃に、清花と有希が家から出てくる。

「高志君、おはよー!」

「清花ちゃん、有希ちゃん、おはよう」

「おはようございます」

 二人の女性の声に反応して、もそもそとパンをほおばりながら眠っていた竜太が、急いでパンを胃袋に収めて、キメ顔で「おはよう」と、二人に言う。

 美人姉妹が竜太を目覚めさせてくれたおかげで、高志は竜太を引っ張っていくという重労働からは解放されたものの、今度は、竜太になるべく寄り道させずに職場にたどり着くという重大ミッションが襲い掛かってくるのだ。

 行く先々にあるコンビニはもちろんのこと、ありとあらゆるところの犬、猫、鳥、虫、美人など、様々なものが竜太の寄り道の入り口になりかねないのだ。

 実際、この一カ月近くのうちで、既に3回ほど、始業時間に遅れそうになって、竜太の首根っこを掴んで、職場までダッシュした。

 今日はダッシュするまでは至らなかったが、受付嬢と雑談をし始めようとした竜太の腕を引っ掴んで、何とか始業前にたどり着けた。

 初めの頃は、始業前に竜太を連れてきたと言うだけで拍手喝采が巻き起こってしまっていたが、今ではそれもだいぶ落ち着いてきた。


 高志は、竜太を隣の席まで連れて行ってから、自分も席に着こうとした。

「神野君、ちょっと良いかい?」

 だが、すぐに課長に呼ばれた。

 高志が呼ばれたことで、高志の教育係の竜太も一緒にやってきた。

「課長!お呼びでしょうか?」

 高志よりも先に竜太が言い出した。

「鈴村君は呼んでないよ」

「いや、でも、僕は神野君の教育係なので、僕らは一心同体です!」

「もう、神野君がここへ来て一ヶ月近くたつし、そろそろ独り立ちさせてあげても良いんじゃないかね?」

「僕の教え方がうまいから、もう、神野君、いっぱしに仕事できますしね!」

 自慢げに言った竜太は、「じゃあ、神野君、僕がいなくても頑張るんだよ」と、満足げに席に戻っていった。

 その後ろ姿を見ながら課長はため息をつくと、小さな声で高志に言った。

「憎めないやつではあるのだが、すぐに調子に乗るんだよね、鈴村君は」

 それは、たった一カ月近くの付き合いの高志でも感じ取っているところであった。

 竜太という男は、あいまいな記憶と思い違いと、恰好を付けたい一心で、実に様々なミスを犯してくれる。

 この部署の残業の大半はそんな竜太のミスの尻拭いで、ひどいと深夜まで残業することもあったという。

 それでも、時折愚痴はこぼしても、部署のみんなが竜太を見捨てないでいるのは、竜太の愛嬌のある性格故かもしれないと高志は感じていたが、残業が多いために、職員に疲弊が見られていた。

 高志のここ一カ月近くの仕事は、竜太から仕事を教わりながら、竜太の勘違いを正し、ミスしやすい部分の手順などをわかりやすく文書化し、竜太を一人で、そこそこの仕事ができるように持っていくことであった。

 高志の忍耐強い仕事ぶりのおかげで、この一カ月近くで竜太の致命的なミスは減り、部署の残業は大幅に減った。

 そして、やっと竜太が一人で仕事ができるようになったため、ゴールデンウィーク目前にして、やっと高志は一人で仕事を任せてもらえることになったのだ。


 終業時間になり。高志は自分の仕事を片付けると、竜太の仕事を手伝った。

 みな子もだいぶお腹が大きくなっているし、以前カフェに乱入してきたときのように、心配させたり、あちこちで歩かせるのも申し訳ないので、ここ最近では、竜太を家に送り届けるまでが、高志の仕事だ。

 竜太が寄り道しそうになるのを必死で食い止めながら、何とか家に送り届けると、ふうと息を吐きながら、高志は床に座った。

「有希ちゃん!今日の晩御飯は何にするの?」

 隣の家から清花の元気な声が聞こえる。

 清花の声は小学校のころからよくとおっていたから、余計に、聞こえてくるのだろう。

 だが、高志は不快感は感じず、むしろ、不思議な安心感を感じていた。

「ねえねえ、有希ちゃん、ゴールデンウィーク何する?」

 清花の声を聴いて、高志は、明日からゴールデンウィークだったことを思い出した。

 ここへ来て初めての長期休暇か、と、高志は思った。

 新しい職場になれるのと、竜太の面倒を見るので余裕がなくて、何の予定も経てていなかったが、家でのんびり過ごしてもいいし、ちょっとどこかに足を伸ばしても、楽しそうだ。

 気軽に出かけられる距離に、何かあるだろうかと、検索を始めたころ、インターホンが鳴った。

 玄関のドアから覗いてみると、目の前には誰もいなかった。

 ピンポンダッシュだろうか?

 同じ階には、子供がいる家はなかったと思うが……。

 そう思いながら念のため扉を開けると、隣の家のインターホンを押している人物を見つけた。

 恐らく、その人物が、高志の家のインターホンも押したのだろうと思った。

「あ!神野君!あ!有希ちゃん!」

 それは、竜太だった。

「みなちゃんが、なんかハッスルだあかなんかしたって言ってて、僕、どうしたらいいものかと……」

「破水ですかね?産婦人科には電話しましたか?」

「みなちゃんがしてた!」

「もうすぐタクシーが来るから」

 背後からみな子が現れた。

 そして、悲痛な面持ちで言った。

「だから、お願い」みな子の人差し指が一瞬高志を差しそうになって別の人物を指さした。

「有希ちゃん、ついてきて!」

 この時点で、高志には、みな子と有希不在の間、竜太と清花の面倒を見るという重大任務が発生したことを痛感した。

 そろそろ奴が産まれます。

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