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千客万来

 その日の居酒屋たろうの店主は気合を入れて仕込みをしていた。

 歓送迎会シーズンのこの日に、19時から貸し切りで予約が入っているのだ。

 いつもの常連さんたちにはそれを伝えているので、今日は、謹治や鉄男が開店前からノックをしてせかしてくることはないはずだが、扉の前に人影が見える。

 常連だったら、ドアを開けてみたり、ノックしたりするものだが、どうやらそのまま立ち尽くしているようだ。

 もう少しで開店時間だしな、と思いながら、本日貸し切りの看板を出すために扉を開けると、そこには、思いもよらぬ人物がいた。


 店主はその有希という女性に覚えがあった。

 本人が来たのは数回なのだが、店ではよく話題になっていた。

 常連の一人の徹の片思いの相手なのだ。

 イケメンと来店したのを見て、徹は、撃沈したのだが、ある時、うっかり口が滑ってイケメンと有希は本当には付き合っていないかもしれないと言ったことで、再び、徹が有希の話をして盛り上がるようになったのだ。

 とはいえ、いまだに一方的な徹の片思いだし、しばらくの間、有希が海外に留学に行ってしまって、見かけることすらないと悲しがっていたし、有希の姉と結婚した同僚からは、有希には彼氏がいると何度もくぎを刺されるから本当に二人は付き合っているかもしれないと嘆きだしたりしていただけだが、それにしては、あまり辛そうには見えなかった。

 ただ、酒の肴にしているだけかもしれないなと、店主は思っていた。

 徹と大体梨紗子と一緒に来るのだが、一年位前から部署異動で一緒に働いているらしくて、ほっとくと、仕事の話ばかりしているのだ。

 いつも謹治や鉄男に色気のない話ばかりしてるなぁと、通りすがりにぼやかれていた。

 そこへ、有希が実はフリーかもしれないという情報が入ってきたのならそれを使わない手はないだろう。


 店主は、そこまで思い起こしてから、現実に戻ってきた。

「今日は19時から貸し切りが入ってるんだけど、いいかい?」

「はい、それまでには帰ります」と、有希は言った。

 最初に有希のお姉さんとそのお姉さんと結婚したらしい男性と三人で来たときは、噛みつきそうなくらいの警戒心を感じたが、何だか柔らかい雰囲気になったものだな、と、店主は思った。

 カウンターの席に案内しながら、思わず店主は聞いた。

「ところで、あの、偽恋人とやらはどうなったんだい?」

 既にフリーになっているのであれば、徹のことでも紹介してみるか。と、考えながら店主は軽い気持ちでそれを聞いたのだが、有希はたいそう驚いた顔をしていた。

「おじさん、あの話のこと、覚えていたんですね」

 あなたに片思いしている男の酒の肴になっているよ、ということは心の中にしまっておこうと店主は心に決めた。


「今日は、その、偽恋人のことで、相談しに来たんです」と、有希は言った。

「え?あれ、まだ継続中なの?」と、店主が驚きの声を上げた時に、「19時までだったらいいのよね?」と、全身おおむね黒の女性が現れた。

「麗華さん」

「マスター、違うわよ、西園寺麗華さいおんじれいかとお呼びになって」

「何で苗字?」

「私、入籍しましたの、三日前に!」と、麗華改め西園寺麗華は、自分の左手を見せたが、そこには真っ黒な手袋しか見えなかった。

「麗華さん」

「西園寺!」

「西園寺麗華さん、手袋しか見えないよ」

「あら」と言って、手袋を外すと麗華は再び左手を見せた。

「何で旧姓の時は苗字名乗らなかったの?」

「だって、西園寺麗華は占い師っぽいけど、昔の苗字は占い師っぽくなかったのよ!」

 そんな理由か、と、店主は思いつつ扉のほうを見ると、「19時までだったら入っても大丈夫ですか?」と、初めて見る女性客が顔を出した。

「どうぞ」と、店主は微笑んだ。

「あら、あなた、何か悩みがありそうね」と、西園寺麗華が有希の隣に腰掛けると、初めて来た女性客は、有希の反対側の隣に腰掛けた。


 有希は不意に増えた客に、どうしたものかと考えているようだったが、隣に座る麗華が聞く気満々だったので、とりあえず、店主は、初めて来た客に、話し始めた。

「お客さん、この店は初めてだね」

「この辺においしい隠れ家的居酒屋があるって前から聞いてて、息子が卒乳したので、探し出して来ました」

 おいしい匂いがしたからすぐわかったと、慶子よしこと名乗る女性は言った。

「なかなかいい感じのラインナップですね」と、慶子は「この列、左から行きます。あと、おつまみはこれとこれ」と、ケロリと言った。

「あ、はい」左から?と思いながら店主は一番左に記された銘柄を用意した。

「とりあえず、一合で」と、慶子は言うと、「ところで、お隣の女性が話したそうなので、私はお酒を飲む空気と思ってもらえばいいです。飲み終わったらカウンターに徳利置きます」と、言って、慶子は日本酒の徳利とお猪口をカウンターから持って行った。

「えっと、私も左からとか言ったほうがいいですか?」と、有希が言うと「強くない人はマネしないほうがいい」と、空気だったはずの慶子がぴしゃりと言った。

「おねえさんなら、きっと、これくらいがいいよ」と、比較的軽めなお酒をさらりと有希にすすめた。

 この慶子という女性は、只者ではない、と店主は思ったが、先に有希の話を聞けと言われた以上は、自称空気の慶子に話を振るわけにはいかなかった。


「えっと、どこまで大将さんにお話ししましたっけ?」と、有希が言うと、「まだ、偽恋人が進行中というのは何となく聞いたかな」と、店主は答えた。

「そうなんです、その間に留学したから、その時に別れるつもりだったのに、姉夫婦やご近所さんたちとマサが仲良くなってて、別れてないことになってたり、いろいろあって、住むところと就職先を探してたら、就職先を紹介するから婚約者ってことにしてほしいって言われて……」

 ある程度話を聞いたところで小さくコトリと音がして見ると、空になった徳利が置かれていた。

 早いな、と思いながら、店主は左から二番目の日本酒の徳利を置いて、ついでに、冷水のコップも置いた。

「それで、今や、マサ君とやらのご家族とも仲良しなんでしょう?」と、聞いたのは麗華だ。

「見事に外堀を埋められたね」と、空気のはずの慶子も言った。

 有希の偽恋人は継続中どころか、仕事を紹介してもらう代わりに、偽婚約者になっているらしい。

 そして、その仕事を継続する条件として、本当に結婚してほしいと言われたらしい。

「仕事の条件とか、そういうのを考えると、今の環境はすごく恵まれてるけど、そのために、これ以上マサを利用するのは申し訳ないかなと」

 またしてもコトリと音がした。

 慶子の空になった徳利だった。

 驚いて店主は慶子の顔を見たが、顔色一つ変えていなかった。

「有希ちゃんが、偽の恋人だったとかそういうの抜きにして、一緒に暮らしてて、不快だったかどうかとか、マサ君という一人の人間に、好感が持てるかどうかとか、そういうことを基準にして考えてもいいと思うよ」

 麗華が笑顔でそう言うと、「あなたの選択は、きっと幸せにつながっているわ」と、付け加えた。


「何だか、有希さんの家族やご近所さんと仲良くなって公認カップルになったり、自分の家族に婚約者って紹介して、年中行事に参加させたり、有希さんの逃げ場をなくすようなやり口が姑息で気に入らない」

 空気だったはずの慶子が通算三本目の徳利をカウンターに置きながら言った。

「え、えっと、それは、私の偽恋人としてやってくれていたことで、向こうのご家族も、私の仕事が円滑に進むようにやってくれただけだと思うので……」

「有希さんが、その、マサって男のことが好きじゃないのなら、捨てるなら今だと思う」

 四本目の日本酒をお猪口に注ぎながら慶子はさらりと言った。

「まあ、相手は有希さんのこと好きだと思うから、仕事を続けたいのなら、利用してもいいと思うけど」

 いつの間にか、四本目の徳利も空になったらしく、慶子は徳利をカウンターに置いた。

 店主は慶子の様子をうかがったが、顔色一つ変えていない。

 お酒で顔が赤くならなくても、ある時、急に気分が悪くなる客などもいるので、店主は心配になったが、慶子の左手が次の徳利を要求するようにカウンターの上に置かれている。


「偉そうに言ったけど、私も、諸事情があって、お互い利害が一致した幼馴染と結婚したけど、今は幸せだから、後悔していない」

 五本目の徳利を手にした慶子が言った。

「どの選択をしても、後悔しないって気合が大事」

「き、気合ですか……」

「マサとやらと別れて、一人ぼっちで再出発することになっても、マサとやらとの結婚を選んでも、腹をくくる。そんでもって、幸せになる。そういうこと」

「あはは、私のどっちつかずの占いよりも説得力あるわ」と、麗華が笑った。

 店主は、有希の顔を見て、自分に相談するまでもなく、両隣の女性が悩みを解決してくれたようだなと感じていた。


 それから少しして、まず、有希が帰っていった。

 有希と入れ替わるように男性が入ってきたので、団体客がもう来てしまったのかと思いきや、その男性は慶子に声をかけた。

 その二人を見た麗華が「あなたたち!結ばれるわよ!」と言ったが、「もう夫婦です」と、慶子が冷静に言って、二人は帰っていった。

 最後に麗華が「また来るわ」と言って、去って行った。

 突然来店した慶子さんは、行方不明になった清花ちゃんを高志君が迎えに行ったおしゃれなバーのバーテンダーでした。

 お酒はめっちゃ強いです。

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