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運命の四月

 もうそろそろ四月になるという頃、腹をくくった有希は、雅之のところに引っ越した。

 雅之の紹介してくれる仕事を引き受けようと思ったのだ。

 ただし、婚約者というのも、仮ということにした。

 家庭教師を辞めたのちに、静かに別れたことにすればよいと有希は思ったのだ。


 有希の荷物を部屋に運び込んだ後、インターホンが鳴った。

「雅之君、こんにちはー!」

「雅之お兄さん、こんにちは」

 元気な女性の声と、育ちのよさそうな男の子の声がした。

「あ、ごめん、ちょっと埃っぽいよ」と、雅之が言うと、「そういえば、引っ越し屋さんのトラックが来てたね」と言った女性が有希の姿を見つけて嬉しそうにほほ笑んだ。

「ちょっと!雅之君、お姉さん初耳なんだけど、誰?誰?」

「あ、あの、及川有希と申します」と、有希が言った瞬間に、雅之が有希を抱き寄せた。

「僕の婚約者」

「そうなの!かわいいし、いい感じの人ね!おめでとう!」

 で、結婚はいつなの?と、女性がぐいぐいと聞き始めると、女性の腕の中で赤ちゃんが泣きだした。

「あら、灯里あかりオムツ?ちょっと、ごめんね!」と、女性は部屋の片隅に赤ちゃんを寝かせてオムツを変えはじめた。

 有希は、わけがわからず、雅之に視線を送った。

「えっとね、そこにいる中山荘太なかやまそうた君で、今、オムツをを替えている兄貴の奥さんの、笹岡翠ささおかみどりさん、そこの赤ちゃんが、兄貴と翠さんの娘の灯里ちゃん」と、ざっと、そこにいる人物の紹介をすると、雅之はさらに摩訶不思議な発言をした。

「僕の家で、翠さんが、荘太君の家庭教師をしてるんだ」

 何故ここで?という疑問がわいたが、雅之の雰囲気的に、これ以上は今は話してくれなさそうだと有希はそれ以上問いたださなかった。


 雅之が重たい口を開いたのは、三人が帰って行ってからだった。

「有希には、翠さんが育休を開けた後の家庭教師をお願いしようと思っているから言うけど、これは、お姉さんたちにも内緒にしておいてほしいんだ」

 雅之の真剣な様子に、有希は、うなずいた。

「荘太君は、お母さんから虐待を受けているんだ」

 その内容は、あまりにも衝撃的だった。

 荘太の実の母親が、荘太に暴力をふるうというのだ。

 おばあちゃんが一緒の時はいいのだが、そうでないときには、病院に運び込まれるほどの暴力を受けたこともあるそうだ。

 雅之の兄夫婦の家は、既に荘太の母親に知られてしまっているため、雅之の家で家庭教師をして、おばあちゃんが迎えに来るか、母親が寝静まってから帰るか、それも危険な時は、雅之の兄夫婦の家に泊まったりしているそうだ。

 有希は、荘太の勉強風景を眺めていたが、とても利発な子で、非の打ちどころなどないように思えた。

「あんまり同情ばかりしても本人も困ると思うから、私は純粋に、家庭教師を引き継いだだけってことにするよ」

 本人もあまり事情は知られたくないだろうと思った有希はそう言った。

「あ」

 それを聞いた雅之が、思い出したように言った。

「翠さんに、有希に引き継ぐ話するの忘れたね」

「ホントだ!」

 だが、その日を境にしばらく、雅之の家で家庭教師をすることはなくなっていたため、結局家庭教師を引き継ぐことを言い出せないまま、時が過ぎた。

 そんなある日、不意に来客があった。

 やっと、家庭教師に来たのだろうかと、喜び勇んで玄関の扉を開けると、見たことのない壮年の夫婦がいた。

「あれ?父さん、母さん」

 雅之の反応に、今度は有希が驚いた。

 お、お父さんと、お母さん?

「近くに寄ったものだから、えっと……」

 雅之の両親は有希を見たまま固まっていた。

「婚約者の及川有希さん」

「まあ、そうなの!」

「こんなかわいい子が!」

 雅之の両親はこれにものすごく食いつき、二人は数時間、有希と話しながら時を過ごし、かなり有希のことを気に入って帰っていった。

「何だか私、心が痛いわ」

 偽の婚約者なのに、何だか仲良くなってしまい、有希は罪悪感を感じていた。

「だったら、本物の婚約者になっちゃえばいいのに」

 という、雅之の冗談は聞き流した。


 結局、その後も、家庭教師をしに来ることはなく、とうとう有希は無職のまま四月を迎えてしまった。

 どうしたものかと有希が思い悩んでいると、不意に雅之が「今から、兄貴の家に行こうか」と言い出した。

「事前に連絡とか……」

「大丈夫、大丈夫、兄貴も翠さんもそういうの全然気にしないから!」

 雅之はそう言うと、ドアノブに手をかけた。

「あれ?鍵開いてる」

「あ、あの、インターホンとかは?」

「大丈夫、大丈夫、兄貴も翠さんもそういうの全然気にしないから!」

 雅之はそのままドアを開けた。

 反射的に、有希は「お邪魔します」と言った。

「あれ?雅之君、どうしたの?」と、玄関のほうを振り返った翠が言った。

 翠の向こうからエプロン姿の冴えない男性が雅之と有希のほうをのぞき込んでいた。

 雅之とも似ていないから、翠の旦那というわけではなさそうだし、家政夫か何かだろうか?

 それにしても、こちらをじろじろ見て、家政夫は見た、でもイメージしているのだろうか、と有希は一人で考えていた。

「翠さん、こんばんは!荘太君に事情を聞いて、僕たちで役に立てないかと思って……」

 すると、翠が有希の顔を視界にとらえた。

「あ!有希ちゃん、こんばんは!」

「翠さん、こんばんは、お邪魔します」と、有希は笑顔で答えた。

 家政夫らしき男は有希をじっと見つめている。

 そんな男と、有希を見比べた雅之が「あれ?兄貴にも紹介しなかったっけ?」

「え?雅之君のお兄さん?」と、思わず有希も驚きの声を上げた。

 全然似ていないし、家政夫だと思っていた。

 雅之の兄のあきらにも自己紹介を終えて、和やかな空気になったかと思いきや、部屋の中にいたいかにも女主人といった風格の老女が、有希のほうににじり寄ってきた。

「あなた、どこかでお会いしたことがございませんか?」

 有希は、何だかこの女性に見覚えがある気がした。

 何か、人生をかけた、何かの……と、考えて有希は思い出した。

 育休代替の面接の時に理事長の隣にいた人だった。

「あ、育休代替の面接の時に!」と、有希が言った瞬間、女性はかっと目を見開いた。

「あなた、あの時の、及川有希さんでいらっしゃるの?私、理事長のお友達で、たまたま、お茶を飲みに行ったら、ちょうど、面接するところだからとお隣に座らせていただいたんですけど……」

 それから、何故か、その女性が、有希の経歴をほめちぎり、有希の英語の発音のすばらしさをほめちぎり、挙句の果てに、有希の育休代替の期間が終わってしまうと、理事長が悲しんでいた話までしてから、有希を見ていった。

「有希さん、もしもまだ、次のお仕事が見つかっていらっしゃらないのでしたら、うちの孫の家庭教師をしていただけませんか?」

 家庭教師を引き継がせてほしいとお願いするつもりが逆にお願いされてしまった。

「もちろんです」と有希は微笑んだ。

 やっと、有希ちゃんが家庭教師になった!

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