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魔法使い

 徹は、有希に思いも伝えないまま有希が彼氏らしき男性といる場面に遭遇してしまった。

 失意の中、梨紗子の声が背後から聞こえた。

「来週も、ここで、待ってるから!」

 マブダチの優しさが、徹にとって一筋の光のように思えた。


 それからも、徹と梨紗子のマブダチ同士は恋バナはできなくとも毎週金曜日にたろうで飲むのが習慣になっていた。

 時計を見て徹はため息をついた。

 なるべく早く仕事を終わらせようとしているが、最近は思うように進まない。

 以前に徹の専属の営業事務をしていたパートの女性が辞めてからというもの、徹は営業に行った帰りに事務入力作業もすべて自分で行っていた。

 幾度となく、新たな専属の営業事務をつける話が出たが、女性が専属になると、色恋のことにしか目がなく、なかなか仕事がはかどらず、男性だと、徹の足を引っ張るようなことばかり仕掛けてくる。

 それだったら、全部自分でやったほうがましだとは思ったものの、大きな案件も抱えているため、残業ばかりが増えていく。

 状況を知っている上司が、専属の営業事務を指名したらどうだ、と、言われるが、適任者は営業2課にはいないと徹は思っていた。

 一つだけ、打開策が思いついていないわけでもないが、決定打に欠けていた。

 やっとのことで、仕事を終えると、梨紗子からメッセージが届いた。

「徹ちゃん来るまで謹治さんと飲んでるから、ゆっくりおいでー!」

 梨紗子の気遣いを嬉しく思いながら、「仕事が区切り着いたから、もうすぐ行くよ」とメッセージを返して、徹は会社を出た。

 今日はまだ、早い時間に終わることができた。


 しばらくして、徹はたろうに入っていった。

「徹ちゃん、スーツのままって珍しくない?」

 徹は、注文すると、梨紗子の隣に腰かけた。

「もう、お腹すいちゃってさ、着替えに行くの諦めた」

「お仕事、大変そうだもんね、早く、専任の事務さん見つかると良いね」

「梨紗ちゃん、優しいねえ、もう、麗華さんの予言通り、二人、付き合っちゃえばいいじゃん!」

 謹治が二人を冷やかした。

「私、今は恋する気分じゃないの!」

「俺も、恋する気分じゃないの!」と、徹が梨紗子の口調を真似ていうと、謹治が飲んでいた日本酒を噴き出した。

 そこへ、不意に電話の着信音がした。

「あ、やばい、倉田さんだ」と、梨紗子がスマホを見て言うと、徹が、黙ってうなずいたので、梨紗子は電話に出た。

「はい、鷲野です」と、さっきまで酔っ払いと肩を組んで飲んでいたとは思えないほど凛とした声で出た梨紗子を、ちょっと驚いた様子で、常連たちが見ていたが、徹にとっては、仕事の時に見る梨紗子そのものだった。

 徹の前に、ビールが出てきたが、何となくそれに口を付けずに、徹は、梨紗子の様子を見ていた。

「あ、大丈夫ですよ」と、言った次の瞬間、梨紗子の顔が青ざめた。

「はい、え?30分後?え?あの……!あ、切れちゃった」

「どうした?梨紗ちゃん」と、徹は梨紗子に尋ねた。

「神野さんと彼女さんの婚約祝いを開いているけど、一人急に来られなくなったから、今から30分以内に来てって……普通の服でいいからって、ホテルのレストランでしかも婚約祝いって、この格好じゃダメに決まってるじゃん!」

 梨紗子は「もう、メイクも落としちゃったのに、どうしよう!」と、頭を抱えていたが、徹は「30分あれば十分」と、言って、「行くよ」と、梨紗子の腕をつかんだ。

「謹治さん、それ、口付けてないからあげる」と、自分のテーブルのビールを指さして謹治に言うと、「大将、おあいそ」と、さっさと二人分の会計をして、徹は梨紗子の腕をつかみながらずんずん歩き出した。


 徹は、自分のスマホを取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「あ、姉貴、この前、派手すぎてきてないって言ってたワンピ用意しといて、あと、俺のメイク道具も。とカーラーも……は?俺が着るんじゃないって」

 しばらく歩くと、サインポールと、坂下美容室という看板が見えてきた。

「うそ、かわいい子じゃん、彼女?」と、入って早々、梨紗子を見た女性が言った。

「違うって、マブダチ、お局から無茶ぶりされて、30分以内に準備してホテルのレストランに来いって、腹が立ったから、完璧に整えてやる」

「お、いいねぇ、そう言うの。私も腹立つから手伝ってあげる、お嬢さん、お着換えしましょ!」

 そう言うと、徹の姉は、梨紗子を連れて去っていった。

 梨紗子は言われるままに着替えて、椅子に腰かけた。

 徹が、手際よく、カーラーを巻いて、メイクをしていく。

 息がかかりそうな至近距離で、真剣なまなざしでメイクをしている徹に、梨紗子は少しドキッとした。

 軽くセットをすると、徹は、「これで良し!」と、ケープを外した。


 鏡の前には、普段よりも一割増の梨紗子がいた。

「すごい!」

 少し前の自分から想像もつかないほどの変身ぶりにまるで魔法のようだと思った。

 鏡の向こうで変身を遂げた梨紗子の隣で、徹がほほ笑んだ。

 梨紗子の胸がドキリとはねた。


「梨紗ちゃん、ホテルまで送るよ」

 徹の姉と靴のサイズも合っていたため、パンプスも借りて、徹の車(実際は徹の姉の車)に乗って梨紗子はホテルまで送ってもらった。

「すごい、ご実家が美容院とは聞いてたけど、徹ちゃん、本当に魔法使いみたい!」

「その魔法、30分で切れるから」

「嘘、早!」

 そうこうしているうちに、ホテルに到着した。

「おー、マドンナ、さすが美しい!」

 着くなり竜太が梨紗子の姿を見つけて駆け寄ってきた。

「倉田さん、大急ぎで準備してきたんですけど、間に合いましたか?」

 倉田に呼ばれた手前、倉田に聞きに行くと、「ええ、まあ、ギリギリね」と言った。

 その後倉田が下唇をかみしめていたことに、梨紗子は気づかなかった。

 というよりも、男性社員に囲まれて、それどころではなかった。


 梨紗子は男性社員に囲まれながら、そっと腕時計を見た。

 そろそろ、魔法後解けると言われている30分。

 ただの徹の冗談なのか、もしかしたら、髪のセットとか、メイクが30分しか持たないのかもしれない。

 ただでさえ、自分を振った相手の婚約祝いに概ね強引に参加させられているのに、これでメイクやセットが崩れたら、目も当てられない。

 周りの男性社員の反応から察するに、恐らく、メイクもまだはがれていないし、髪のセットもおかしいことにはなっていないようだ。

 だが、一度、鏡を見てちゃんと大丈夫か確認したい。

 そう思って立ち上がろうとしたときに、誰か入ってきた。


「よ、神野、誘ってもらったのに、断っちゃってごめんな野暮用ついでに顔見せに来た、清花ちゃん、俺、覚えてる?」

 女性社員が色めき立っている。

 服装も髪も整えた徹が現れたのだ。

 どうやら、30分の間に、よれよれのスーツから着替えて、髪形を整えてきたようだ。

「ありがとう、ところで、野暮用って?」

 高志が言うと、「あ、それは……」と、徹は、ちょうど席を立とうとしていた梨紗子のもとへと歩き始めた。

「本当は、鷲野さんとこの後用事があったのに、こっちに行っちゃったから、連れ戻しに来ました、じゃ!」

 そう言うと、徹は、梨紗子の腕をつかんで、走り出した。

 あの気まずい会場にこれ以上いなくてよくなって、少し梨紗子は安堵した。

 だが、梨紗子が走りながら振り返ると、倉田が鬼のような形相でこちらを見ていた。

 来週から仕事できないかもしれない、と、梨紗子は、青ざめた。

「大丈夫」と、その様子を見た徹は微笑んだ。


 休日が明けて、梨紗子は、徹の「大丈夫」の言葉の真意を理解した。

 掲示板に人事異動の知らせが貼られていた。

 その紙には「鷲野梨紗子 本日付で営業2課に異動を命ずる」と、書かれていた。

「徹ちゃ……坂下さん、どういうこと?」と、総務のマドンナとは思えない剣幕に、営業2課のメンバーが驚いて振り返った。

「俺の、専属営業事務に、鷲野さんが一番うってつけだと思ったから」

 そう言って、徹は微笑むと、「よろしく、鷲野さん」と言った。

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