隣人
説明が不足しておりましたが、このお話の開始時は、時系列的には、こんにちは赤ちゃんの開始時期のちょっと前です。
海岸沿いをしばらく散歩していた高志は、自宅のマンションに戻ってきていた。
「さて」
そう言うと、高志は、百貨店の紙袋を二つ持って、自室を出た。
引っ越してすぐの昼間に管理人と、上下階の住人にはあいさつできていたが、両隣は不在だったため、夕方にもう一度挨拶に行こうと考えていたのだった。
まずは、左隣の家のインターフォンを押した。
表札には「鈴村」と書かれている。
「はーい!」と朗らかな声で男性が出てきた。
「恐れ入ります、隣に越してきた、神野と申します」
「へー、ありがとう!」
男性は包みを受け取ると即座に開けようとした。
その刹那、男性の後頭部に何かが当たり、男性は倒れた。
床に落ちたそれを見ると、男性の後頭部に当たったものはおたまであると推測された。
「わざわざご挨拶ありがとうございます」
先ほどお玉を投げつけた人物と同一人物とは思えないほどの輝かしい笑顔で男性の妻と思われる女性が現れた。
彼女は神野の目にも明らかに妊娠しているようだ。
「隣に越してきました、神野高志と申します」
「神野さん、はじめまして!私は、鈴村みな子です。こちらが夫の竜太で……。え?神野さん?」
みな子はしばらく考え込むと、はっとした様子で、足元で伸びている男性を揺り起こした。
「竜太さん!来月からお世話になる神野さんよ!起きて!」
「へ?ジンノ?」
「ほら、あなたのもとにつく部下の!」
「あ!ああ!」
竜太は起き上がると、きりっとした表情になった。
「やあ、神野君、4月からの辞令についてはもう聞いているだろうが、私の下で働いてもらうことになると思う。今後ともよろしく頼むよ」
そう言い残すと、竜太は、紙袋を持っていそいそと引っ込んでいった。
みな子が、「恰好つけちゃって」とぼやいてから、神野に向き直った。
「私も、こんななので、出産のときや、実家に帰っている間、主人がご迷惑をおかけすることになると思います。本当に申し訳ありません」
みな子はおなかをさすりながら言った。
「いや、そんな、むしろこちらがお世話になる方ですので……」
「まだ、ご挨拶していないお宅があるようですね、引き留めてしまって申し訳ありません」
みな子にそう言われて、高志は「それでは、お邪魔しました」と、その場を辞した。
高志が玄関の扉を閉めたのを見たみな子は、両手で顔を覆って、その場にうずくまった。
「会社でアレの面倒を見なきゃならないのに、家までとなり何て、何て不憫な……!」
「ねえねえ、みなちゃん、やっぱり中身、タオルだったよ!高級そうなやつ!」
「それは、よかったですね」
棒読みでそう竜太に返すと、みな子は、落ちたお玉を拾って、キッチンへと戻っていった。
高志は、今度は右隣りの家の玄関の前に立っていた。
表札を見ると、そこには「及川」と書いてあった。
その苗字にものすごく聞き覚えがあると思うのは、清花の苗字が及川になっていたからだろうか?
まあ、及川という苗字も、そんなに珍しいわけでもないし、全く知らない人の家かもしれない。
そう考えながらインターホンを押した。
「はーい」という返事は女性の声だったが、清花の声ではなさそうだ。
だが、ドアを開けて出てきたのは、有希だった。
「え?」
「あの、えっと、隣に越してきました、神野高志です」
「あれー?高志君だ!」
清花が向こうの方から玄関をのぞき込みながら言った。
能天気な清花とは裏腹に、有希は少しバツが悪そうだった。
「さっきは、関わらないでとか言ってしまって悪かったわ」
有希は、素直に謝罪したあと、こう付け加えた。
「事情を説明するのが面倒だったから、あの時一度会ったきりなら、深入りしてもらうべきではないと思ったの」
「事情?」
「話せば長くなりそうだし、女ばかりの家にいきなり初対面の男性を招き入れるのには抵抗があるから、申し訳ないけれど、後日改めてお話しさせてもらうわ」
すっぱりとそう言い切ると、有希は踵を返した。
「あの、手土産……」
「あ、そうだったわね、ごめんなさい」
有希に紙袋を手渡すと、高志は自分の部屋へと戻っていった。
部屋で一人になった高志は、ふと考えた。
有希は、何か事情があると言っていた。
きっと、両親の離婚だけでは片付かない何かがあの姉妹にはあるようだ。
「竜太さん!靴下脱ぎ散らかさないでっていつも言ってるでしょう!」
高志の思考は隣の家から聞こえる怒号に遮られた。
もう片方の家からは、清花の愉快そうな笑い声も聞こえてくる。
どうやら、高志は、この騒音たちと毎日付き合っていかねばならないらしい。
高志は思わずため息をついた。
鈴村(父)投入してしまいました。
鈴村(母)のおなかの中にいるのは、こんにちは赤ちゃん史上最凶のおバカ、鈴村竜一郎君です。
そう言う感じの時期から始まるお話と認識していただけたら幸いです。