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竜太の壁

 梨紗子は本日何度目かのため息をついた。

 あの水族館デートから一週間近く経っているが、一度も高志とまともに話せていない。

 高志が総務にやってくるときは必ず、竜太が一緒にやって来て、必ず竜太が梨紗子に話しかけてくるし、休み時間に見かけても大体高志は竜太とつるんでいる。

 しかも、梨紗子が話しかけようものなら光の勢いで竜太が反応する。

 高志への恋心を自覚した梨紗子にとって、竜太の存在は今まで以上に煩わしかった。

 だが、梨紗子のポリシーは、職場では笑顔を崩さないこと。

 トイレの個室で深いため息こそつくものの、鏡に向かったら笑顔を作る。

 そして、不意に気がついた。

 今まで、直接会話をすることばかりに気をとられていてすっかり忘れていたが、デート前に高志の連絡先は入手していたではないかと。

 梨紗子は携帯を取り出すと、高志に、突然ですが、今日、お食事に行きませんか?と、メッセージを送った。

 そして、終業時間、梨紗子は高志からの返信に目を瞠った。

「鈴村さんも一緒でいいですか?」

 梨紗子は心の中でシャウトした。

「いいわけあるかー!」


 梨紗子のマンションは、職場から繁華街とは反対方向の路線だ。

 だから、花金に帰宅するときはほとんど誰とも居合わせることはない。

 この日の梨紗子は飲みたい気分だった。

 マンションの近くに、いつも美味しい匂いが漂う居酒屋があることを梨紗子は知っていた。

 いつも気になってはいたものの、梨紗子の通勤着では確実に浮いてしまうほど、その店はあまり綺麗ではない店だった。

 こうなったら、今日こそはあの店に行ってやる!

 お店から漂う匂いに触発された梨紗子は、一度自宅に帰ると、メイクを落とし、いつもゆるふわパーマの髪をひっつめ、コンタクトを外して家でしかかけたことのない瓶底めがねをかけた。

 そして、アクセサリー類もすべて外して、家でしか着ないジャージに袖を通した。

 梨紗子と同じ方向の職員はほとんどいないし、いたところで金曜日はきっと繁華街に行っているはずだ。

 これなら知り合いに見られても梨紗子だとばれないはずだ!

 こんなムシャクシャした一週間を耐えに耐えた自分に、行ってみたかったお店に行くというご褒美くらいあってもいいはずだ。


 店の引き戸をそっと開けながら、梨紗子は用心深く店内を観察した。

 どうやら客の中に知り合いはいなさそうだ。

 そして、カウンターの店員と目が合うと、そこに腰掛けた。

 このとき梨紗子は、よもやトイレに顔見知りがいるなどとは思いもよらなかった。

「はい、メニューどうぞ!あと、お通しね!」

 フランクなノリで店員がメニューと書かれた小冊子と、本日のおすすめが筆ペンで書かれた紙、そして、小さな器を渡してきた。

 どれも美味しそうだと目移りしている梨紗子に、大将が今日の一番のおすすめを教えてくれた。

「じゃあ、あと、これに合うお酒ください!」

 入り口にたくさん日本酒や焼酎のボトルがあったので、きっとここはうまい酒も出してくれるはずだと梨紗子はふんでいた。

 いつもは、甘ったるいカクテルやせいぜいワインくらいしか飲まないが、せっかくだから日本酒や焼酎を飲んでみたかった。

「これなら、辛口の日本酒が合うよ」

 そう言いながら、大将がカウンターの上に掲げてある日本酒リストを指さした。

「じゃあ、八海山、二合、お猪口二つで」

 何だか聞いたことがあるような声が降ってきて、梨紗子は声の主を見上げた。


 そこには、同じ会社の営業2部の坂下徹がいた。


 堅実で真面目な相手との幸せを夢見る梨紗子にとって、チャラい徹は、初めから眼中にない存在だった。

 実のところ徹も徹でそんなに梨紗子のことはタイプではなかったので、会えば挨拶を交わす程度にしか関わったことがない。

 それなのに何故、今、徹がこちらにやってきて、しかも隣に腰掛けたのか、梨紗子には理解できなかった。

 だが、ふと、梨紗子は自分が今、いつもの総務のマドンナと呼ばれる梨紗子とは似て非なる生き物だと気付いた。

 初めて店に入ってきた女性がどんな女性であろうともナンパするのが、チャラい徹なりの流儀なのかもしれない。

 という、梨紗子のささやかの希望は、「総務の鷲野さんだよね?」という、徹の一言であっさり消え失せた。


 梨紗子がカウンターに腰掛けた頃に、トイレから出てきた徹は、カウンターに注文しに行こうとして、そこに見知らぬ女性が腰掛けていることに気づいた。

 この居酒屋は徹の父親が生まれる前からある古い居酒屋ではあるが、それでもなかなか、ジャージでやってくる客は、常連以外でなかなか見ない。

 だが、徹の見知った常連客に、こんな若い雰囲気の女性はいない。

 カウンターに近づきながら徹はジャージの女性を観察した。

 実家が美容院で、多くの女性のビフォーアフターを見てきた徹には隠れた特技があった。

 ノーメイクの女性を見て、脳内でメイクを施すことである。

 ついでに言うと、徹の脳内メイクで劇的に変化しそうな女性が、徹の好みだ。

 ジャージの女性に脳内メイクを施した結果、社内で見たことのある人物になった。

「総務のマドンナ?」

 ほとんど声にならなかったつぶやきは、ジャージの女性の耳にはとどかなかったようだ。

 かわりに、女性の声が聞こえてきた。

「じゃあ、これに合うお酒ください!」

 その声は、総務のマドンナの声だった。

 この店で、職場関係の人間に出会ったことはなかったし、梨紗子が店に来た頃にちょうど徹がトイレに行っていたから、知り合いはいないと油断したのだろうが、徹にとってはそれが決め手になってしまった。

 会社で見かけたときには違和感を感じなかったから、いつもの男受けのいい服装をしていたはずだ。

 なぜ、わざわざジャージに着替えて、髪型を変えて、眼鏡までしているのだろうか?

 変装のつもりかもしれないし、突っ込まない方がいいかとも考えたが、好奇心の方が勝った。

 もとより、カウンターで注文するスタイルのこの居酒屋では、いずれにせよ梨紗子に接近せざるを得ない。

 そのまま梨紗子の隣の椅子の背もたれに手をかけて、日本酒をどれにしようか悩んでいる梨紗子の代わりに二人分の日本酒とお猪口を注文して、腰掛けた。

 梨紗子は一瞬、目を丸くしたが、何かの間違いかしらと言わんばかりに顔を背けた。

 ここまで来てしらを切るのはあまり複雑に考えない徹にとってはあり得なかった。

 徹は,追い打ちをかけるように言った。

「総務の鷲野さんだよね」

 梨紗子は、少し青ざめた顔で、ゆっくりと徹を振り返って、頷いた。


「あれ?お嬢ちゃん、徹ちゃんの知り合いかい?」

 二人のやりとりを聞いていた大将が梨紗子に問いかけた。

 梨紗子が曖昧に濁すよりも先に、「会社の同僚だよ」と、徹が答えた。

「え?徹くんの会社ってちゃんとしたとこでしょ?そんな格好で出勤して良いの?」

 そんな格好というのは、もちろん梨紗子のすっぴん眼鏡にジャージ姿のことだ。

「こ、これは、家で着替えてきました」

 おずおずと梨紗子が答えると、徹が身を乗り出した。

「鷲野さんはいつもちゃんとお洒落にしてるよ」と、徹がさらりと言うと、「徹ちゃんが言うなら間違いないな」と、大将は納得した。

「徹ちゃんは、いつもセンス抜群だからな!」と、大将が言ったのを聞いた梨紗子は改めて徹を見た。

「あれ?スーツじゃない……」

 徹は、カジュアルな服装だった。それがまた妙に居酒屋の雰囲気にしっくりくる。

「俺も家で着替えてきたんだよ、うち、近いから」

 間もなくして、二人のところに料理と酒が運ばれてきた。

 長くなりそうなので、ここでいったん投稿します。

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