運命の人は
しばらく鈴村家の出演がありません。
申し訳ありません。
その日、高志は、朝からうなっていた。
高志の目の前には前日に、徹が、「マドンナと並ぶならこれくらいの服装をしろよ!」と見繕ってくれた服と、自分が普段出かけるときに来ている服を並べていた。
高志には徹が見繕ってくれた服を着こなせる自信がなかった。
ため息をついて、いつもの服に手を伸ばしかけたとき、インターホンが鳴った。
ドアの外には徹がいた。
「昨日の様子じゃ、あの服を着こなせなさそうだから助けに来たぜ!」
そして、ずかずかと中に入ってきた。
ついでに、髪のセットまでしてくれるらしい。
ずいぶんと親切だなと高志は思ったが、「んで、どっちの隣が及川姉妹なんだ?」と、下心が透けて見えた。
「ここのマンション、まあまあ壁薄いよ」と、高志が釘を刺すと、徹は静かになったが、小さな声で、「じゃあ、及川姉妹の様子なんかも聞こえちゃったりするのか?」と、にやつきながら言った。
それよりも、みな子さんの怒号の方がよく響くけどね、と高志が言うと、徹は肩をすくめた。
昔、竜太と同じ職場で勤めていたらしいみな子の恐ろしさは他部署にいた徹にまで伝わっていたようだ。
徹は下心があった割には仕事をきっちりしていった。
一時期は美容師を目指していたこともあるらしい。
高志の髪をオシャレにセットして、徹は満足そうにうなずいた。
高志は、自分ではこれはできないなと感じた。
「今度、有希ちゃんに紹介してくれたらチャラにするよ!」
だが、徹は下心もきっちり持っていた。
「それなら、明日、及川姉妹と一緒に水族館に行くけど、来るか?」
「おー!行く行く!って、神野、今日も水族館に行くんじゃないのか?」
「そうだよ。まあ、どっちも、断るのも何だし仕方ないよ」
「じゃあ、明日の方は俺が代わりに行くよ!」
「まあ、考えとくよ」
いきなり徹だけが来たら、有希はかなり警戒するだろうから、仲良くなるのは難しいだろうと高志は思った。
高志が引っ越してきたときもかなり警戒されたことはまだ記憶に新しい。
「ところで神野、今日はマドンナとどこで待ち合わせなんだ?」
「鷲野さんが人混みは苦手みたいだから、車で迎えに行くことになってる」
「お!車で行くならついでに送ってってくれよ!」
「構わないよ、いろいろと世話になったし」と、言いつつも、頼んでもないけど、と、高志は少し思った。
徹の家までの道すがらは、それはたいそう騒がしかった。
「この助手席にマドンナが座るのか!うらやましいぞー!この!この!」
と言っても、騒がしかったのは徹一人であった。
「今日が生まれて初めてのデートの神野君に、この坂下徹様がいろいろと教えてしんぜよう!先生様と呼ぶがいい!」と、デート講座まで始まった。
人混みに紛れて手を繋げ!とか、帰り際にキスしてあわよくば家になだれ込めとか何かいろいろ言っていたが、高志は安全運転のためにほぼほぼスルーしていた。
ようやく徹を車から降ろすと、高志はナビに梨紗子の住所を入力した。
梨紗子のマンションは、そこから程ない距離の所だった。
徹が知ったら狂喜乱舞しそうだなと思いながら、高志は梨紗子にもうすぐで着きそうですとメッセージを送った。
高志のメッセージを梨紗子は準備万端の状態で受け取ったものの若干不機嫌になっていた。
「もうすぐっていつよ!」
まあ、でも、昨日に約束した時間の10分前だから上出来とするか、と、思いつつ、梨紗子は鏡を見た。
真面目そうな高志に合わせて、今日の梨紗子は落ち着いた色合いの清楚な装いだ。
メイクもナチュラルに仕上げている。
梨紗子は、鏡に向かって笑顔を作り直すと、マンションのエントランス前の駐車スペースで待っていてくださいとメッセージを送った。
梨紗子は笑顔を作ることで、負の感情に鍵をかけることができる。
梨紗子の美貌を持ってすれば、大抵のことは、笑顔でいればやり過ごせる。
それに、負の感情に鍵をかけることで、波風を立てる発言をしなくて済む。
それが男性からの人気に拍車をかけ、さらには女性からのやっかみを受ける原因になってしまったわけだが。
それが明るみに出たのは数ヶ月前のことだった。
企画課の鈴村みな子が、妊娠を機に辞職した。
それ自体は総務課には関わりのない事柄のはずだった。
だが、彼女は大変厄介な人物の手綱を唯一握れる人物でもあった。
それは、みな子の夫の鈴村竜太だった。
そして、竜太は総務のマドンナと話がしたいために、どこへやるかわからないすべての書類を梨紗子に渡して話し込んでいくのが日課になった。
話し込まれることで時間がなくなる上に、どこへやるのかもわからない書類を押しつけられ、困り果てていても、女性職員は自業自得と言って助けてくれないし、男性職員ですら、女性職員の目を恐れて助けてはくれなかった。
各部署を奔走して訳のわからない書類をさばき、自分のデスクに戻ると、自分の本来の仕事がたまりにたまって待っていた。
毎日が残業で、毎日疲れ果てていた。
新年度を迎えても、梨紗子の心はどんよりしていた。
ただでさえ、竜太が膨大な仕事と無駄話を持ち込んでくるのに、さらに、右を左もわからない新入社員が来るなんて、やっていられないと感じていた。
だが、梨紗子の予想に反して、新年度になってもさほど忙しくならなかった。
新入社員の対応はベテランがしてくれていたし、肝心の竜太も、新年度になってからは一人で来ることがなくなった。
見たことのない若い男性が、竜太と一緒に書類を持ってやってきた。
「こういう書類は、全部鷲野ちゃんに渡しとくと何とかしてくれるから!」
上から目線で竜太が言うのを聞いて、竜太に教育をされている男性に心底同情したし、竜太の間違った方法が踏襲されていくのはとても困ると思っていたときだった。
「この書類、提出先、経理って書いてありますよ?」
若い男性に言われて、竜太が書類をのぞき込んだ。
「でも、全部、鷲野ちゃんが……」
「ここ、総務ですよ」
「そ、そうだね、でも……」
「総務のマドンナがいるってことは、経理にも経理のマドンナがいるんですか?」
「そうか!経理のマドンナを探そう!」
急にやる気を出した竜太が経理の方へと走り去っていった。
「鷲野さん」
その背中を見ながら、男性が話しかけてきた。
「総務に関係ない書類を鈴村さんが持ってきたときは、遠慮なく突き返してもらって結構です」
各部署で、マドンナ見つけとくんで、と、付け足すと、男性は去って行った。
それが、梨紗子と高志の出会いだった。
高志から、駐車スペースに停めていますと連絡が入った。
最初のメッセージからわずか5分足らずのことだった。
仕事ができそうな人だと思っていたのに、何でこんなギリギリにしか連絡ができないのだろうか、と、高志の事情を知らない梨紗子は内心腹を立てたが、鏡に向かって再び笑顔を作ると、部屋を出た。
マンションのエントランスを出ると、高志が車から出てきた。
車がいたって普通だったので、あまり期待していなかったが、私服や髪形はおしゃれだなと、裏事情を知らない梨紗子は思っていた。
高志が助手席のドアを開けた。
高志は、女性と二人で出かけるのが初めてだったので、とりあえず、取引先を接待するときの心持で臨もうと考えていた。
梨紗子は今までの経験で、男性が親切にしてくれるということは、それ相応の下心を持っているものだと認識していた。
だが、下心があったとしても、自分に親切にしてくれる誠実な男性と巡り合えたらそれは運命だろうと思っているのだが、現実はなかなか甘くなく、梨紗子に言い寄ってくる男性は皆最初しか優しくなかった。
高志は、過度にスキンシップを取ることもなく、紳士的だった。
ただ単に、高志が女性との距離感が分かっていないだけなのだが、梨紗子には好感触だった。
会話も弾んだし、常に親切だったし、梨紗子は楽しいひと時を過ごした。
何となく、梨紗子は、高志に惹かれているのを感じた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、閉館時間になった。
再び、高志の車に乗って、帰路についた。
梨紗子は、だいぶ高志に惹かれていたので、もっと一緒にいたいと素直に思って言った。
「まだ、帰りたくないなぁ」
そして、ちらっと高志を見ると、高志はすごく驚いた顔をして、「もう遅いから帰ったほうがいいですよ、最近は変質者やがいたり、女性が被害に遭うことが多いですから」と、とても誠実な返答をした。
梨紗子はそんな返事をされたことに驚いたが、その返答に高志の誠実さを感じていた。
そして車は梨紗子のマンションのエントランスにたどり着いた。
「よかったら、うちでお茶でも……」
梨紗子がそういった瞬間、高志の脳裏に、初めて及川家を訪ねた時の有希の言葉がよぎった。
「女の子の一人暮らしの家に、簡単に男を上げてはいけないよ!」
じゃあ、気を付けて帰って、と、高志は手を振って、梨紗子を見送った。
高志に手を振ってわかれた梨紗子は一人ときめいていた。
こんなに誠実な男性は初めて見た。
この人は、私の運命の人かもしれないと。
梨紗子は、今までモテてきた遍歴のせいで、よもや高志が、梨紗子を会社の同僚以上に想っていないことに気づいていなかった。




