エピローグ
『私には夢がある! 人間も、亜人種も、魔族も、誰一人として種族や外見によって差別されることなく、皆がこの世界に住む一員として、与えられるべき可能性と自由を謳歌するという夢がある! 肌の色や耳の長さ、魔力や財産の有無が、一体その者の何を語るというのか!』
『不当な差別と過去の憎悪に縛られた世界が、次の世を創る若者の未来を潰すことなど、絶対にあってはならない! 私は単なる政治的公平さや、社会正義を説いているわけではない! 私はただ、次にこの世界で生きていく者たちに、今この世界を作っている私たちが、少しでも胸を張って次代のバトンを渡したい、優しさと輝きのある世界にしたいと訴えているのだ!』
『そのためには、各国政府が公正で公平な司法と行政を備え、国境を超えて多くの人が自由と平和のために絶えず尽力していかなければならない! 人間や魔族という括りでいがみ合い、憎しみの種を後世に撒き続けるのは、もうここで終わりにしよう! 我々は皆、この大陸に住む同胞であり、皆がかけがえのない人生という物語を歩む主人公なのだ――――!』
◇
「――すごいですね、ネゲヴさん。今じゃ、すっかり政治家さんです。ダグラスさんはその秘書兼ボディガードで、色々と根回しをしてるんだとか」
草原に吹く穏やかな風のような心地良い声を持つ少女が、とある病院の一室で何者かに語りかけていた。
つんと尖った耳と、小さな身体。思い切って肩口ほどまで短くした綺麗な金髪を、照れくさそうにいじる少女は、ティオ・ホルテンツィエ。
ラーテルと呼ばれた魔族狩りが己の娘同然に可愛がり、そして相棒として背中を預けたエルフの少女であった。
「クラベルさんも、エルフの自治領成立や、エルフの文化や伝統を後世へ伝えるために色々と活動しているんです。もちろん、ワタシも協力してますよ」
ティオがどれだけ語っても、返事はない。
それもそのはず。
ティオが語りかけている女性は、半年前に起こった人と魔族の戦いで傷だらけになり、それ以来ずっと眠り続けていたのだ。
「……お姉さんが半年も眠っている間に、色んなことが起こったんです」
ティオはネゲヴやクラベル、ダグラスたちが送ってきた写真を見る。その写真では、皆が笑っていた。人も魔族も関係なく、皆がこれからの未来を築いていく強さと、心の輝きを信じていた。
「……ワタシたちが、そしてお姉さんが守った世界は、こんなにも美しいんですよ。そんな世界を守ったお姉さんは、誰が何と言おうとヒーローです」
写真をテーブルに置き、ティオはベットへと近づく。そして、そこで静かに眠る女性の手をぎゅっと握り、微笑んだ。
「ソニアさんも、無事ですよ。色々と酷い目に遭いましたから、快復まで少し時間がかかるみたいですけど」
女性の手を握るティオの手が、僅かに震えた。
「本当に、お姉さんはみんなのヒーローになったんですよ」
まるで死体のように深い眠りにつく女性を見て、目を覚ましたなら奇跡だろう、という医師の言葉を思い出したのだ。
タルナーダ連邦陸軍基地跡の戦いで受けた傷も完治せぬまま、更なる死地へと赴き、そこでも常人ならば死亡している重傷を受けた。
防弾ベスト着用とはいえ数発の銃弾を受け、ナイフによる切り傷からは多量の血液を失い。
それでもなお、狩人と呼ばれた女性は仲間との約束を守るため、胸を張って明日を歩くために、力尽きて倒れる瞬間まで戦い続けた。
その傷だらけの背中を、ティオはずっと近くで見ていたのだ。
容易に癒える傷でないことは、誰よりもティオ自身が理解していた。
「いつまでも待ちます。お姉さんの目が覚めるまで、ずっと、ずっと待ちます。だって、ワタシはお姉さんが大好きですから。――そうです。ヒーローだからとか、そんなことはどうだっていいんです。ワタシは、お姉さんと一緒にこの世界を歩いていたいんです」
ティオは涙をぐっとこらえる。
次にこの女性が目を覚ました時は、彼女が好きだった自分の笑顔をたくさん見せてあげようと、ティオは心に決めていた。
嫌味のひとつでもぼやきながら、煙草を咥えて不敵な笑みを浮かべるその顔は、ティオを何度も励ました。
血塗られた過去と、消せない咎を背負っていると呟きながら、戦い続けるその孤独な背中に、ティオは何度も寄り添った。
そして、強いようでどこか脆く、しかし決して消えなかった光を持つその心に、ティオはどこまでも心惹かれていた。
だから、ティオ・ホルテンツィエは、いつまでも待つことにした。
かつてラーテルと呼ばれ、今はもう単なるお姉さんとなった女性が目覚める日を。
「けど、この病室は禁煙ですからね。目覚めてすぐ、煙草を吸っちゃあダメですから」
また、明日も来よう。
そう思いながら、ティオは病室を出ようとドアノブに手をかけた。
つい俯きそうになる自分を心の中で叱咤し、かつてティオを励ました狩人のように、優しさと力強さを灯した笑顔を浮かべて。
「――――それは、困ったなぁ。まったく、どれだけ美しいか知らないけど、喫煙者には肩身の狭い世界だよ」
声。
何度も聞いた声。
ずっと待ち望んでいた声。
ティオは驚き、そして、笑った。
静かだった病室が、2人分の笑顔によって彩られる。
「……おはようです、お姉さん」
「あぁ、おはようティオちゃん」
開いた病室の窓から流れ込んできた風が、二人の頬をそっと撫でる。
その風は、新しく歩み始めた世界の息吹と言えるほど、爽やかで優しいものだった。風というものは、これほどに心地良いものだったのかと、目覚めたばかりの女性は思う。
そして何より、自分の目覚めを誰かが待ってくれていたということに、感謝していた。
「もう、ただのお姉さんになっちゃったけど。待っていてくれたみたいだね」
「そんなこと、ありませんよ。今でも、お姉さんは、ワタシの――――」
ティオはこらえきれなかった大粒の涙を流しながら、ベットで上体だけを起こしていたお姉さんに抱きつく。
自分の胸の中で子供のように泣き続けるティオを撫でた、その左手の感触に、改めて自分は今も生きていることを実感して、笑った。
◇◆◇
まだ、お姉さんはこの子にとってのヒーローだから。
いや、違うな。
まだ、お姉さんはこの子と一緒にいたいから。
ルシアにはもう少しだけ、待っていてほしい。
もう少しだけこの世界で、前を向いて歩かせてほしいんだ。
ヒーローでも何でもない。
だけど、この子にとってたった一人の、お姉さんとして。