一歩先の未来
「――――ネゲヴ議員。もうすぐ演説の時間です」
「あぁ、すまない。すぐ行くよ」
オーダーメイドのスーツを着たネゲヴが、鏡の前でネクタイを締める。
一般的な人間の成人男性程度ならば、すっぽりと入ってしまうような大きいスーツだが、オークであるネゲヴにはこれが丁度いいサイズだった。
「ネゲヴ議員、か。議員には勿体ない筋肉と品位だが、悪くない響きだな」
「旧魔王軍の騒動で世間の風向きが大きく変わったとはいえ、単なる無職のオークだった私が議員になれたのは、貴方のおかげだ。ダグラス支部長」
人の頭を包めるほど大きな掌に対してあまりに細いネクタイに、悪戦苦闘しているネゲヴ。
微笑ましいその様子を見て、部屋の隅に置かれた椅子に座るダグラスが笑った。
「元支部長、今はお前の補佐官だ。あの一件から、世間では魔族や亜人族と共に社会を形成していこう、って動きが活発になったからな。魔族狩り云々も含めて、多くの人間がようやくやりすぎたと気づいたんだろう。後は、お前たちがイーレンから死守した、あのファイルの効果もあるがな」
太陽の光が窓から差し込む議員の待機室で、ネゲヴは人類史で初となる魔族系議員の一人として、就任演説を行うための準備をしていた。
人魔問わず多くの犠牲者が出た人類と魔族の衝突から、半年が経過。
終結後の復興や事後処理が行われる中で、今回の衝突の原因が対話を拒否して弾圧を行った人類側にある、という流れが一部の世論や政治家の間で生まれ始めていた。
そうした動きに乗じて、方々に手を回したダグラスはネゲヴを議員にするべく、活動していたのである。
「清濁含めて、それを役立たせるのも政治家の手腕、か……。俺には、そういう老獪さが欠けているな」
「安心しろ。そういう汚れ仕事や、裏方でのサポートには慣れてる。何せ、前の職場が裏も表もまっ黒で、おまけに独断専行野郎ばかりのアコギ極まりない会社だったからな」
自嘲気味に、ダグラスが笑った。
「良く知っているよ。その点も含めて、頼りにしている」
魔族狩りには軽口の訓練課程でもあるのかと思いながら、ネゲヴも思わず微笑んだ。
「もっとも、人魔云々に関わらず、まだまだ対立の火種は至る所で燻ってる。ここからどうなるかは、俺たち次第だ。お前のその知性と物怖じしない胆力、そして鍛え抜かれた肉体は、政界でも決して無駄にはならない。推薦した俺の目は確かだったと、数十年後に言わせてくれ」
先ほどまで飄々としていたダグラスの眼が、真剣みを帯びる。
「……あぁ。あの戦いを嘘にしないために、全力で挑もう」
ネゲヴもまた、結んだネクタイと同じ様に、きゅっと口に力を込めて気を引き締めた。
そんな彼に対して、ダグラスはネゲヴの逞しい肩をぽんと叩いて、またも軽口を叩く。かつて、ネゲヴの隣に立っていた或る女性ならば、そうするだろうと思ったからだ。
「と言っても、だ。全力を出しすぎて、演説用のマイクを壊すなよ。居眠りをしてるクソジジイの議員に対して、椅子を投げつけるのも禁止だ」
ダグラスのそんな気遣いを察したネゲヴは、新たにできた得難い戦友への感謝も込めて、柔和な笑顔を浮かべる。
「――まったく。ひょっとして君のその軽口は、相棒だった彼女仕込みかい?」
「そうとも。あのろくでなしが無事に快復するまでの間、こういう減らず口に餓えてるだろうと思ってな」
◇◆◇
「いやぁ、あのオークといいウィスパーといい、手強かったなぁ。ウチがおらんかったら、あの場から退くことすら難しかったで? ただまぁ、あの戦いは人間側が勝利したみたいやし、これからも人間と商売できるってことは幸いやな」
とある地方都市の空きビルで、かつて芸人という別名で呼ばれた元魔族狩りの女性が、新聞を読みながらけたけたと笑っていた。
何がそんなに愉快なのか。
不快そうに腕を組み、魔族狩りの処理官だった覆面姿の男がイーレンに問いかける。
「本部は半壊し、副局長は生死不明。……そして、魔族狩りという組織は解体された。我々は終わりだ、芸人。にも関わらず、お前は何をそんなに嬉しそうにしている」
「ニカカッ! なぁんにも終わっとらんわ。首輪つきの猟犬っちゅうのは、飼い主がいなくなった途端にコレや。困ったもんやで」
イーレンは新聞を畳み、今度は覆面の男を茶化すように笑っている。
「――魔工学。このとんでもない研究の成果を欲しがる輩は、ごまんとおる。世の中、最後に生き残るんは狡賢い人間っちゅうこっちゃ。気がかりだったラーテルも、この研究に関しては何にも気づいてなかったからなぁ。わざわざ、あんな危険地帯まで聞きに行った甲斐もあったわ」
そう言って得意げな表情をしつつ、イーレンは覆面の男の前に右の握り拳を差し出した。
そして、その拳を花の蕾が開花するように開く。
イーレンの拳の中には、小さな石のような物の欠片があった。
それは、魔族狩りの本部ビルを攻撃し、戦いの決着と共にばらばらと崩壊した巨像の破片。
誘拐したエルフから抽出した魔力を凝固させ、巨大な像へと成形し、意のままに操る。魔工学なるものの産物であるそれの破片を、どういうワケかイーレンは持っていた。
「この巨像の破片と、ウチがあの基地跡から盗んできた研究資料があれば、幾らでも研究は再開できるはずや。……あぁ、安心してや。このことを知ってるんは、ウチとアンタだけ」
つくづく腹の底が見えない女だと、男はその覆面の下に隠した顔に驚きの感情を滲ませた。
そんな男の心を知ってか知らずか、にたりと笑うイーレンのその顔は、まさに悪党と表すのに相応しいものであった。
「光なくして影はなく、影なくして光もなし。ウチらはせいぜい、影でこそこそと楽しませてもらおうやないか。まぁ、アンタがまともな道に戻る、ってんなら話は別やけどな」
「……良いだろう。今さら堅気の仕事など、やろうとも思わん」
男は、その石を受け取った。
◇◆◇
「はじめまして。わ、わたしは、クラベル・アーデフェルト、です」
「そうです、姐さん! 人間の言葉も、かなり話せるようになってきてますよ!」
眼鏡をかけたエルフの青年が、ぎこちない笑顔で挨拶の練習を行うクラベルを激励している。
時代の流れが変わりはじめたことを受け、半年前の騒乱に参加したクラベルたちが中心となり、エルフなどの所謂亜人種が紡いできた文化や伝統、自決権などを守る活動を開始。
最終的には自治領の成立を目指す、その組織の幹部としてクラベルが選出されることになり、彼女は慌てて人類間で使われている言語を本格的に習得せざるを得なくなったのである。
「クラベル、別に、このままで、いい」
いつもの片言に戻り、不貞腐れた表情を浮かべるクラベル。
教師役に選ばれたエルフの青年は、肩をすくめて呆れた。
「そんな片言としかめっ面じゃあ、エルフの自治領を代表する者にはなれませんよ」
教鞭代わりと言わんばかりにペンを右手に持ち、青年は芝居がかった動作で教師の役に入り込んでいる。
そんな青年の様子を見て、クラベルは溜め息をつく。
どうやら、そう簡単には解放してもらえないようだ、と思いながら。
「マチェットを振るって、どうにかする時代はもう終わったんです。これからは、相互理解と話し合いの時代なんですよ。僕たちエルフが人間社会に進出していくためにも、エルフの自治領を作るためにも、クラベル姐さんにはもっと表に出てもらわないと」
ひとしきり講釈を垂れ流した後、青年はその右手に持つペンでクラベルの服装を指した。
「そして、語学の次はその服装です。いかがわしいお店じゃないんですから、そんなボディラインのくっきり出る怪しげなレザータイツもやめてください。見てくださいよ、胸やお尻が――――」
流石に我慢ならなかったのか。その言葉を言い終わるよりも先に、クラベルの右パンチが青年の顔面に直撃した。
「これ、れっきとした、戦装束」
かつてウィスパーの識別符号で魔族狩りの内外や、多くの魔族から恐れられた者とは思えない今の自分の姿に、クラベルは思わず僅かな笑みを浮かべる。
そして、彼女の兄弟子、もとい今は姉弟子となったとある元狩人が、彼女のこんな姿を見たらどれほど素っ頓狂な反応をするだろうかと、ふと思った。
きっと目を丸くして、大袈裟でわざとらしいリアクションをすることだろう。
無表情なことで有名だったクラベルは、いつしか誰が見ても分かるくらい、口角を上げて笑っていた。
その笑顔は、かつて暗闇の中で刃を振るっていた頃より、ずっと晴れやかな笑顔だった。
◇◆◇
ラーデンの旧城内。肩の凝らない荒んだ無法地帯と化したその場所に、とある武器屋があった。
その店の店主は、かつて海陵山の大悪童としてその悪名を世界中に轟かせた大魔族、花鶏千種。花鶏は今、彼女が愛する少女の膝枕でまどろんでいた。
花鶏がアヤメと名付けたその少女は、愛おしそうに花鶏の白髪を撫でながら囁く。
「花鶏様。ラーテルは今もまだ、目を覚ましていないようですよ」
頭についている狐のような花鶏の耳が、僅かに動いた。
それがまたおかしく思えて、アヤメは更に語りかける。
「もし、このまま花鶏様の宿敵が、目覚めることがなければ……。どうされますか?」
「――あり得んな。この儂に死を感じさせたあの狩人が、魔王の亡霊を騙った人形とその取り巻きなどに殺されるものか」
アヤメの言葉を、目を開けた花鶏は一笑に付した。
そして、自らが頬をつけているアヤメの太腿を指でなぞる。太腿を這う快感に少し身をよじらせるアヤメを後目に、花鶏は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いや……。もう、彼奴は狩人でもなくなったか。さて、この花鶏千種が宿敵と定めた強者が無職とは、何とも情けないのう。快復した暁には、職のひとつでも斡旋してやるか」
呵々と笑いながら、心底楽しげにそう語っている花鶏。アヤメは僅かに頬を膨らませ、花鶏にわざとらしく自分の嫉妬を伝える。
「花鶏様は……、意地悪です。アヤメというものがありながら、あの無職の女に今もご執心なさっている」
そんなアヤメの顔を見た花鶏は、少し咳払いをして目を瞑った。
「そうむくれるな。案ぜずとも、儂は必ずアヤメの元に戻ってくる。儂とて、帰る場所が無くなるのは、堪えるからのう……」
花鶏はそう言い終わると、穏やかなまどろみに再び身を委ね始める。
アヤメはそんな彼女を見て微笑むと、花鶏が眠ってからもその髪を優しく撫で続けていた。