第4話
暴徒となった魔族たちの怒りと憎しみが炎となって、人間の築いた街を焼いている。そんな街の一画にある裏路地で、お姉さんは咥えた煙草に火を点けた。
「なぁ、ネゲヴ。地獄ってのは、こういう感じの場所なのかな」
「……どうだろうか。少なくとも、これよりは秩序があると思うが」
「そうか。いずれ行く時の参考にでもしようと思ったんだけどね」
軽口を叩くお姉さんの隣には、分厚い防弾ベストとお姉さんが寝袋に出来るくらい大きなサイズの戦闘服に身を包んだネゲヴが立っている。ネゲヴの人となりに惚れこんだダグラスが、急遽あいつの部下に用意させたものだ。
対するお姉さんは、軽量の防弾ベストだけ。自分の動きを阻害しない程度の軽装だ。武装も両脇のホルスターに仕舞った二挺の拳銃と、コートの裏に引っ掛けた幾つかの手榴弾やごく少量の爆薬だけ。魔族狩りというよりは、殴り込みに行くギャングって感じの装備だ。
「さて、と。後はここで待ち合わせしているティオちゃんと褐色娘を待つだけかな。あいつの身体能力ときたら、化物じみてるからなぁ。ダニみたいな跳躍力と、ゴキブリみたいな瞬発力にティオちゃんが振り回されてないか、お姉さんは心配で心配で――――」
お姉さんがそう言い終わるよりも先に、突然空からバケツをひっくり返したような雨が降ってきた。コートの内側にあった武装はともかく、咥えていた煙草もお姉さんの頭もびちょびちょだ。
というか、これホントにバケツをひっくり返しただけだろ。雨なんて周りに一滴も降ってないぞ。
「例え、悪意に満ちてる。後、煙草臭い」
なるほど、さっきのお姉さん限定ゲリラ豪雨は、このいけ好かない褐色娘が原因か。びしょ濡れになったお姉さんは、建物の上から降りてきたクラベル恨みの籠った視線を向ける。一方、クラベルに背負われていたティオちゃんは、その背から降りるなり慌てて可愛らしい花柄のハンカチをお姉さんに差し出してくれた。
「……憎たらしい妹弟子と無事合流できて嬉しいよ」
この野郎。全てにケリをつけたら、絶対に仕返ししてやるからな。
「それで、無事に里の戦士たちは説得できたのかい?」
ハンカチで顔を拭きながら説得の首尾を訊ねたお姉さんに、ティオちゃんはそのキラキラと輝く目を向けて元気いっぱいに答えてくれた。
「はい! ……と言っても、ワタシは何もしてませんけど。ただ、あの時のクラベルさんはすごくかっこよかったですよ!」
「特に、変わったこと、言ってない。クラベル、思ったこと、言っただけ」
ティオちゃんのまっすぐな褒め言葉がよほど照れくさいのか、クラベルはそっぽを向く。
「そんなことないですよ! ――――暴力で作り上げた道を私は誇りたくないって言葉、ワタシはすごく良いと思います」
ふむ、あの無口で不愛想な褐色娘もそれなりに変わったってことか。少なくとも、かつてのクラベルではこの説得は成功しなかっただろう。いや、それ以前にこの戦いに参加したかすら定かではない。
そしてクラベルはもちろん、ネゲヴやお姉さんも変わることができたのは、間違いなくティオちゃんのおかげだ。
全ては、あの時。お姉さんとティオちゃんが出会ったことから始まったのか。あのハンバーガー屋での一件から歩み始めた旅路がお姉さんはもちろんのこと、多くの人々にとっても、そして世界にとっても変化のきっかけになったのだから、運命とは奇妙なものだ。
奴隷市場やカルフールの宿屋、そしてあの陸軍基地跡。厳しい戦いの連続だった旅路の終着点は、もうすぐそこだ。それぞれの戦う意味を決め、準備は整った。
そんな時、おもむろにティオちゃんが口を開く。
「……迷いが、なかったワケじゃありません。いくら暴徒になったとはいえ、魔族の方たちにも暴れるだけの理由があるわけですから。それがどういった理由であっても、ないがしろにしたくはないです」
祈るように目をゆっくりと瞑って俯き、右手を胸に当てるティオちゃん。そんなティオちゃんの声を、お姉さんたちは静かに聞いていた。
「けれど、それが世界を壊していい理由にはならないと思ったんです。怒りと悲しみのままに今ある世界を壊すよりも、少しでもそういうものがない世界を、少しでも誰かと笑顔になれる世界を作る方が、きっと楽しい」
この言葉こそ、この子なりにこの旅路の中で考えて、考え抜いて導き出された答えなのだろう。俯いていた顔はしっかりと前を向き、閉じていた目ははっきりと開いていた。言葉には確かな自身が宿っており、迷いの影は見られない。
そこには確かに、光があった。この街を、そして世界を覆う怒りと憎しみによって焚かれた炎ではなく。困難を乗り越え、その先にある未来を掴もうとする黄金色の灯が、そこに存在していた。
「だから、今は戦います。人間も魔族も関係なく、多くの人が暮らす世界を壊そうとする全てと」
けれど、今こうして戦おうとしているお姉さんだって、元からこの世界が好きだったわけじゃない。
両親もおらず、師匠から生きていくために戦う術を教えられ、気がついたら魔族狩りなんておかしな仕事で血を流していた。別に、このことで師匠を恨んじゃいない。出自もろくに分からず、学も無いガキが食っていくにはそういう仕事しかないことくらい、クソガキだったお姉さんにも分かった。
初めてお姉さんに拳銃を握らせた時の、苦悶に満ちた師匠の顔は今でも覚えている。あのクソジジイ、一度鍛錬すると決めたら、こっちが血反吐を吐くまで続けやがるくせに、そういうところは妙に生温い。
きっと、できることなら違う道を、誰の血も流さなくていい道を選ばせてやりたかったのだろう。
そしてそこからは戦って、戦って、戦って。自分の血と、殺した相手の血が混ざった池を泳いで、やっとのことで家族という幸せを手に入れた。ソニアやルシアと過ごした日々は、今でもお姉さんにとってかけがえのないものだ。宝という言葉すら陳腐に思えるほど、光り輝く幸せな記憶だ。
だが、そんな幸せも呆気なく奪われた。手にすくった水がするりと零れ落ちていくように、掴んでいたはずのルシアの手は、手に入れたはずの希望は、あっさりとお姉さんからなくなったのだ。
その後のことは、ある意味で一番思い返したくない。悲しみから逃れようと、赤黒い怒りの中でルシアを奪ったこの世界を恨みながら血を流す、あのとてつもなく愚かな日々を。ルシアの遺してくれた言葉がなければ、本当にどうなっていたか分からない。
それでも、今はこうして胸を張って立てている。
ティオちゃんだけじゃない。多くの人に支えられて、戦うだけしか能のない馬鹿な狩人は、どうにか前を向いて立っている。なんだかんだあったけれど、この世界もそう悪くはないと思えるようになっている。それはとても、幸せなことなんだろう。
「……良いね、ティオちゃん。その言葉は、まさにヒーローだ」
なら、そんな世界のために戦おうじゃないか。こんな馬鹿を支えてくれるような人もいる世界を、守ろうじゃないか。今のお姉さんなら、そう思える。
「ありがとう、ティオちゃん」
そして戦う前にもう一度、お姉さんはティオちゃんの頭をゆっくりと撫でた。もう一度、誰かのために戦おうと思わせてくれたこの子の存在を、お姉さんは自分の手で確かに感じる。
突然その頭を撫でられたティオちゃんは、少しのあいだ戸惑った様子でこちらを見上げた後、天使のように笑ってくれた。
「どういたしまして、お姉さん」
守るとも。守り切ってみせるとも。今度こそ、見失いはしないさ。掴みたかった光は、今も確かにここで笑ってくれているのだから。