第3話
「――――煮え滾り、炸裂する赤黒い崩壊は、私に地獄という場所が如何様なものかを示した」
山道の路肩に止めた車内で、ネゲヴが呟く。この場所からは、魔族狩り本部が存在する某国の某都市を一望できる。もちろん、無駄にバカ高い魔族狩り本部のビルも。
ネゲヴの引用した言葉通り、今お姉さんたちが眺めている都市は、綺麗なはずの夜空を染めるほどに赤黒く燃えていた。
「東国の、確か詩人だったかな? 名前までは思い出せないね。東国の人間ってのは、名前がややこしいんだよ」
「笹川康政だ。ちなみに彼の本職は東国の辺境にある国の宰相であり、件の勇者伝説より更に以前の魔族の侵攻では混乱する国政を一手に担い、自国を安定させたという。……今から俺たちは、その宰相と同じくらいの困難に挑むことになる」
「…………大袈裟だよ。今から起こる戦いも、当事者以外にとっては昼間に流れるニュースの一部で、歴史の教科書になんて載るかどうかも定かじゃない。だからまぁ、そこまで気負わなくても何とかなるさ」
お姉さんは今、自らが吐いた言葉を改めて自分の脳内で繰り返す。
あんな得体の知れない魔力の巨像と、最早どれだけいるのかも把握しきれない数となった旧魔王軍の残党。そして、魔族に洗脳され、こちらに銃口を向ける最愛の人。まともな精神状態で対峙するにはあまりにも分厚い壁、困難すぎる障害だ。
ダメだな。考えれば考えるほど、絶望感という鉛が全身に纏わりついてくる。
ここで合流予定のダグラスが早く来ないものか。そんな思いを抱く情けない自分に苛立ちながら吸う煙草は、驚くほどまずかった。ティオちゃんとクラベルは合流予定のエルフたちを説得するため不在なので、久しぶりに思う存分煙草を吸えるのだが、まるで吸いたい気分にならない。
換気のため、僅かに開けた車の窓にうっすらと映ったお姉さんの表情は、いつしか険しいものになっていた。
「――ひとつ、聞いてもいいかな?」
にも関わらず、助手席に座るネゲヴは躊躇うことなくお姉さんに話しかけてくる。
「なんだい?」
「ダグラスという男は、君とどういう関係なんだ?」
あまりに脈絡のない質問に、思わずお姉さんは先ほどまでのしかめっ面から一転して、ふふっと笑みをこぼしてしまった。
「単なる腐れ縁の元相棒さ。まったく、神妙な顔して何を聞くかと思ったら――」
「質問して良かったよ。戦う前に、君のその飄々とした笑顔をもう一度見れて、おまけに心配事もひとつ消えた。君なりに複雑な事情もあるだろうから、余計なことは聞かない。ただ、俺を頼れる時は存分に頼ってもらって構わない。……もっとも、君の方が戦い慣れているだろうが」
おいおい、本当にこのオークは油断ならないな。口も上手いし、よく気がつく。オークの厳めしい見た目がなければ、ホストになって数多の女性を魅了できるぞ。
ただ、そのおかげで少しは強張っていた肩の力が抜けた。普段は一流を気取っていても、やっぱりまだまだ未熟者だ。
それからしばらくして、紺色の高級セダンに乗ったダグラスが到着した。貧乏人のお姉さんに対するあてつけか。
「流石はラーデン支部長、相当稼いでるみたいですなぁ。で、頼んでいた物は持ってきてくれたかい?」
「……あぁ、もちろんだ」
車のトランクを開け、ダグラスが取り出したのは一個のガンケース。そのままダグラスは四桁の暗証番号を入力し、小気味良い開錠音と共にケースを開ける。その中に入っていたのは、お姉さんにとって特別な意味を持つ一挺の拳銃だった。
鈍く輝くステンレスのスライドと、チェッカリングが施された木製の銃把。特殊部隊の拳銃のように、特殊な改造などは特に施されていない地味な拳銃だが、お姉さんの手には不思議なほど良く馴染んだ。
それは、今お姉さんが左脇に引っ提げている拳銃と同じもの。つまりは、もう一挺のツェゲール社製91式拳銃だ。お姉さんが、おっさんの直衛官時代に使っていたこれを、ラーデン支部の倉庫から無理を言って持ってきてもらったのだ。
この拳銃を手に持つと、かつての自分を思い出すから、できれば使いたくはなかった。今ある幸せが永遠に続くものと錯覚し、未来に繋げることをしなかった馬鹿なおっさんを。
だが、この戦いはお姉さんにとって、過去の全てにケリをつける戦いだ。魔族だの人だの、世界だの何だのよりも、過去の自分が犯した過ちや逃げ出した困難を清算する戦いだ。なら、コイツも使わざるを得ないだろう。
魔族狩りの、識別符号『ラーテル』の自分を、今日で終わらせる。
ルシアの遺してくれた思いを叶えるために。
ティオちゃんの隣に立つヒーローになるために。
そして、こんな馬鹿なヤツを支えてくれる人たちに、少しでも胸を張れる自分になるために。
「トランクの中には予備の弾倉と手榴弾、それから軍や公安で使われている最新鋭の防弾ベストも入ってる。ラーテルのラストダンスだからな、それなりの衣装と小道具を用意させてもらった。……ところで、お前の隣にいるオークは、何者なんだ」
「はじめまして。フルネームだと人間には分かりづらいだろうから、ネゲヴでいい。貴方もまた、腕の立つ優秀な直衛官だと聞いている。お会いできて光栄だ」
ささっと準備をしているお姉さんの横で、ネゲヴとダグラスが握手している。まぁ、案の定ダグラスは溢れんばかりの常識人オーラを放つネゲヴに目を丸くしていた。
「……こちらこそ、久しぶりにまともなヤツと出会えて嬉しいよ。この馬鹿を筆頭に、ウチの職場は始末書の意味すら分かってないような、サイコ共の寄り合い所帯だからな。時折、自分は動物園の飼育員になったんじゃないかと錯覚するくらいだ」
常識人と出会えたことが、よほど嬉しかったのだろう。ダグラスはお姉さんの準備が終わるまで、職場やお姉さんに関する愚痴をネゲヴにずっと垂れ流していた。
本人の前で言うかね、普通。
「はいはい、悪うございました。今度から、駐車違反の罰金は正直にそのまま払ってもらうことにしますよ」
「お前は、人の話を聞いてんのか」
二挺の91へ、弾倉を装填する。
この連中とくだらない話をしていたからか、自分の中で湧き上がっていた恐怖心や絶望はいつしかなくなっていた。
お姉さんは一度、深呼吸をしてゆっくりと目を閉じる。
戦いを前にした心地良い高揚感と、全ての決着をつけると決めた覚悟が、お姉さんの心を満たしていた。基地跡の戦いで受けた傷は、完治したわけではない。だがそれでも、この状況はベストコンディションに極めて近い。
思考は冴え、迷いはない。隣には頼れる仲間たちが居て、背中を押してくれる。
なら、負ける気なんてするはずもない。
「いつもの、不敵で素敵な笑みだ」
ネゲヴの洒落た褒め言葉に、お姉さんはウィンクで返す。
「ありがとう。終わったら、また一杯やろうか。今度はワインじゃなくて、カクテルが良いね」
さて、最終決戦といこうか。