第1話
何故、君たちはまだ生きているんだ。
お姉さんとクラベルの身体を見た医者は、そう言って目を丸くしていた。いや、お姉さんもそう思うけど、医者が患者に言う台詞じゃないよね。
とにかく、あの基地を命からがら脱出したお姉さんたちは、傷の手当てとこれからの準備をするため、タルナーダ連邦領の小さな町に潜伏していた。
「旧魔王軍の残党の目的地が分かった。高等魔族取締局本部、つまりは魔族狩りの本部ビルとのことだ。――それと、君に頼まれていた煙草だ」
「ありがとう、ネゲヴ。これがないと、治る傷も治りゃしない。……しかし困ったな、これじゃ無職金無しのお姉さんになっちゃうよ」
安宿のいまいち柔らかくないベッドで横になっているお姉さんは、買い出しと情報収集のために外へと出ていたネゲヴから、煙草の箱を受け取る。
どうやらお姉さんとクラベルは、ここに着いてから三日も眠っていたらしい。つまり今、お姉さんは三日もニコチンを摂取していないことになる。これは一大事だ、いや本当に。
「ここで吸ったら、窓から放り投げる」
しかし、隣のベッドで瞑想していたクラベルがカッと目を開き、煙草を咥えたお姉さんをぎろりと睨み据えてきた。この馬鹿な妹弟子もお姉さんと同様に満身創痍だったはずなんだが、どういうわけか身体を動かせるまでに回復して鍛錬に励んでいる。
「そうですよ、もぐ、お姉さん! 怪我人が、むしゃ、煙草なんて身体に悪いものを、むしゃ、吸っちゃダメですよ!」
そして向かいの椅子に座り、ネゲヴが買ってきたリンゴを熱心に食べているティオちゃんまで、お姉さんの一服を阻止しようとしてきた。いや、というかティオちゃんが今、芯まで貪り尽しているそのリンゴは、お姉さんの分だと思うんだけど。そして次に手をつけようとしているそのバナナも、多分お姉さんのなんだけど。
そんなティオちゃんの食いっぷりに若干驚きながら、ネゲヴは扉の近くにあった椅子に腰かける。
「しかし、その割には随分と余裕じゃないか」
「そりゃ、ある程度は予想していたからね。あんな馬鹿デカい魔力人形と、怒り狂った魔族の群れを止める術は、各国の軍隊にない。となると、連中の脅威になり、かつ潰せば見せしめになる組織といったら、魔族狩りしかないだろうさ」
「――なら、決戦、魔族狩りの本部」
クラベルのその言葉に、全員が改めて覚悟を固める。
「この戦いが長引いてしまったら、もっと多くの人が不幸になります。あの基地跡のような酷い光景を、これ以上広げるなんて、絶対に許せません。……ワタシたちで、止めましょう。何があっても」
そして、ティオちゃんの力強い言葉が、固めた覚悟をより一層頑強にした。
初めて、ティオちゃんと出会った時。この小さくて世間知らずなエルフの女の子の心には、優しい光だけがあった。その光は無垢で幼く、世界の裏で蠢く闇に飲み込まれそうになっていた。
しかし、この短くも波乱に満ちた旅を経て、ティオちゃんの心は光だけでなく、確かな強さを伴うようになったのだ。湧き、群がる悪を祓い、暗がりで泣くしかなかった誰かを照らす、強き光になっていたのだ。
今、そんな子の隣に立てることを、お姉さんは何よりも誇りに思う。
「なら、鍛錬、してくる」
「……まぁ君も、その様子なら大丈夫だとは思うが、一応は怪我人だ。何かあった時のために、俺も付き合おう」
クラベルとネゲヴの二人は、そう言うと部屋から出ていった。いや、本当にあの褐色娘の身体はどうなってるんだ。
そして、いま部屋にいるのはお姉さんとティオちゃんの二人だけになった。
「――怒ってますね、お姉さん」
ようやく食べることを止めたティオちゃんから、思いがけない言葉が発せられる。この子は時折、驚くほど勘が鋭いなぁ。隠し事なんて、到底できないか。
「原因は、あの基地でお姉さんを撃った人ですよね。お姉さんに、凄く似てました。それに、ソニアって名前は――――」
「……あの人は、お姉さんの奥さんだ。娘を、ルシアを亡くして、お姉さんが執行官になってから会ってなかったけどね」
まだお姉さんがおっさんだった頃、孤高の狩人を気取っていたおっさんが背中を預けた数少ない一人。己の技を伝授し、自らの愛銃と同じ拳銃を渡した唯一の教え子。そして、ルシアと同じくらいかけがえのない女性。
失って初めて分かることもある、なんて言葉を吐いたところで、自らの悲しみから逃れるために愛する人の元を去った愚かさを正当化できるわけがない。
あの時、ソニアさんの元を去らなければ。
そんなどうしようもない考えばかりが、脳裏をよぎる。しかし、もうそんなことを悩んでいる段階はとうに過ぎてしまった。彼女は今、魔族によって捕えられ、洗脳されている。
考える必要などない。お姉さんがやるべきことは、最初から決まっているのだから。
「必ず、正気に戻す。そんなことくらいで罪滅ぼしにはならないけれど、ソニアさんは必ずお姉さんが救う。魔族狩りの本部にどれだけの魔族がいようと、必ず助け出す。ソニアさんは、今でもお姉さんの大切な人なんだ」
だが、そうは言っても勝ち目の薄い戦いだ。本部には直衛官も山ほど待機しているだろうが、あんな魔術人形は流石に想定外だろう。こちらの攻撃が通用するかすら、定かじゃない。
そして何より、向こうにはソニアさんがいる。彼女はお姉さんの全てを知り尽くしているのだ。朝起きた時に何をするか、なんてどうでもいいことから、拳銃を早撃ちする際にかかる時間や肉弾戦の時の癖まで、文字通り全てを。
いわば、自らの手札を全て見られた状態で賭けを行うのと同じ。そして、幾ら意識を洗脳によって操られていても、ソニアさんは元一流の魔族狩りだ。戦い方は、身体が覚えているだろう。
魔力人形、旧魔王軍の残党、そしてソニアさん。場合によっては、ここに副局長の飼い犬どもまでセットでついてくるんだ。彼我の戦力差は絶望的と言っていいだろう。
少なくとも、お姉さん一人の力じゃ勝てない。
「……本当は、あの基地での戦いが終わった時、お姉さんはティオちゃんの前から姿を消そうと思ってたんだよ。こんなにも良い子の隣に、お姉さんみたいな薄汚れた人間がいちゃいけないってね」
ベットから上体を起こし、ゆっくりと右手を握る。ラーテルなんて異名で呼ばれて、少しばかり戦う術に長けているだけで、現実の悲しみや苦しみと向き合う強さを持っていなかった情けない狩人の手が、そこにはあった。
「ただ、それは逃げているだけだったんだ。ティオちゃんと歩く為に変わる勇気が持てなくて、過去のラーテルという自分のまま破滅していこうとする、逃げだったんだよ。――あの基地でティオちゃんがこの頬を叩いてくれなきゃ、またお姉さんは逃げてしまうところだった。折角、おっさんからお姉さんになれたのに、また同じ過ちを繰り返すところだったんだ」
だけど、ティオちゃんに出会って、少しは変われた気がしたんだ。単なる魔族狩りのおっさんじゃなくて。ティオちゃんの、そして天国にいるルシアが笑ってくれるお姉さんになろうって、思えるようになったんだ。
だから、もう誰かを置いて逃げはしない。失うことを恐れるがあまり、大切な人の元を去るなんてことは、絶対にしない。
「こんな情けないお姉さんの、過去を清算する戦いに、ついてきてくれないか? ……いや、もちろん、ティオちゃんさえよければだけど――」
自分でも滑稽に思えるほど、おどおどした口調でお姉さんはティオちゃんに話しかけた。どうにか勇気を振り絞って、ティオちゃんの顔を恐る恐る覗く。
そこには、いつも通りの優しくて、温かい笑顔があった。
「よろこんで、一緒に戦いましょう。一緒に戦って、一緒に迷って、一緒にヒーローになりましょう。ワタシとお姉さんなら、きっとそれができますよ。もちろん、お姉さんの奥さん、ソニアさんを助けることだって」
小さくて、けれどとても大きく感じるその白魚のような手で、ティオちゃんはお姉さんの手を握る。
あぁ、本当にこの子は優しくて、強いんだな。
「それに、お姉さんを助けてくれるのは、ワタシだけじゃないはずです。こんな時くらい、もっと他の友達を頼っていいんですよ」
まったく。歳をとると、涙腺が脆くなってしまう。
「……ありがとう。天国のルシアに、そしてティオちゃんに、胸を張れるヒーローになってみせるよ。約束する」