識別符号『ラーテル』
あるところに、狩人がいた。悪名高い、懸賞金のかかった魔族を狩る狩人がいた。魔獣の皮を加工した黒いコートをはためかせ、拳銃一挺で強大な魔族を狩る狩人がいた。
狩人の本名を知る者は、ほんの僅か。しかしその通称、識別符号を一度聞けば、或る者は恐れおののき、或る者は憎悪で顔を歪める。
高位魔族取締官、通称・魔族狩り。世界中から腕利きの修羅が集うと言われているその組織の中でも、恐れ知らずの狂戦士と謳われる狩人。ある戦いを機に若い美女の身体となってしまったが、それは寧ろ老いによって鈍っていた彼の技に、全盛期の冴えを取り戻させたというのだ。
その狩人の識別符号こそ、『ラーテル』。喰らいついたら離さない、凶暴な黒い獣の名を冠する狩人である。
◆◇◆
「そら、そら、そら! うっかり死なぬように気をつけよ!」
花鶏千種は敢えてその魔術を使わずに、徒手空拳の打撃のみで狩人を追い詰めていく。その攻撃に余計な術理や技術など必要ない。不気味なほど可愛らしい童女の身体に見合わず、比類なき力を持つこの大魔族は、ただ拳を振るうだけで人の骨を砕き、ただ足を蹴り払うだけで人の肉を断てるのだ。
人の身では決して至れぬ、強靭な肉体と傲岸な精神。魔族という種族の強さを体現したかのような存在に、狩人は圧倒されている。狩人はある攻撃を紙一重で躱し、躱しきれぬものはいなす。ひとつひとつの動作が、狩人にとって決死の綱渡りであった。僅かでも仕損ずれば最低でも腕が、悪ければ上半身の半分がもぎ取られるのだ。であればそれが針の穴に糸を通すかのような繊細さと、死が頬を撫でようと動じない胆力を要求されることは、言うまでもない。
負傷している狩人が、そんな精密極まりない動作をそう長くは続けられないことは明白であった。
「そっちこそ――!」
しかし、そこで圧しきられる狩人ではない。己の身体を捻じり、攻撃を寸でのところで回避した際、その勢いを殺さずに腰の辺りに付けていた鞘から、逆手でナイフを抜き放つ。そして、駒の様に身体を回転させながら、花鶏の首めがけてその刃を振るった。
人の動体視力ならば、目に捉えることすら叶わずに喉笛を切り裂かれているであろう、稲光のような一閃。だが、花鶏は僅かに上体を反らすことでそれを躱した。
もっとも、完全には躱すことができず、新雪を思わせるほどの白い肌から一筋の真っ赤な血が流れる。わざとらしく驚いた表情をしながら、花鶏は即座に後方へと跳躍。狩人が容易に間合を詰めることが厳しい距離まで離れてしまった。狩人もそれを好機とみて、空になった拳銃の弾倉を瞬時に交換する。
「油断してると、痛い目を見ることになるよ」
「流石はラーテル。依然として肉弾戦なら五分、といったところか。魔族の身体能力に真っ向から対抗できるとは……。それでも人の子か、我が宿敵よ?」
自らの首筋に流れる鮮血を親指で拭い、それを嬉しそうに舐めとる花鶏。その目に揺らめく妖しい闘志の灯火は、より勢いを増していく。
「さぁね。物心ついた頃には、一人当て所なく彷徨ってたよ。親の顔なんて見たこともない」
一方の狩人はナイフを鞘へと仕舞い、右手のみで拳銃を構える。狩人は満身創痍であったが、その瞳には花鶏に負けぬ光が煌々と輝き、逆境をものともしない不敵な笑みを浮かべていた。
狩人は自身の左腕を右の脇腹に着けたホルスターへ、彼女が『切り札』と呼ぶ武器へと伸ばす。そして、その切り札の銃口を倒すべき化物へと向けた。
それを見た花鶏は、口を三日月のようにして禍々しく笑う。
「――タンネンブルグ社製、八八式小型擲弾発射器! 儂の店にある商品で、儂が殺せると本気で思うたのか! その程度の切り札など、儂の魔術を使うまでもないわ!」
狩人の切り札。それは小型の擲弾発射器。通常は発煙弾や照明弾などを発射するために設計されたそれは、強大な魔族を斃すにはあまりにも力不足に思えた。
ポン、という小気味の良い音と共に、擲弾が発射される。
狩人の目論見など、花鶏はすぐに予測できた。彼女の予想はふたつ。発煙弾や照明弾での目くらまし、あるいは榴弾での足止めだ。
ラーテルほどの狩人ならば、花鶏が榴弾程度を凌ぎ切れないなどという甘いことは考えないだろう。つまり、狙いは自らの行動を妨害し、そこで花鶏の頭部に弾丸を撃ち込むことだろうと、彼女は予想したのだ。
前回の狩人の戦いで、花鶏はそれが目くらましの武器があることを知らず、狩人の放った銃弾を太腿に喰らってしまった。今回もその方法で隙を作ろうとしたのだろうと、花鶏は心の中でほくそ笑む。
そして眼前に飛翔してきた擲弾を、彼女は左手の甲で打ち払った。
すると、赤い宝石を砕いた破片のようなものが花鶏の周りに散布され、その幾つかが彼女の身体や衣服に付着する。
その瞬間に花鶏は自身の魔力、正確には魔力線に何かの異常が起こったことを把握した。
彼女がばら撒いた呪符によって拡大された、否、それどころか自らの体内に巡っている魔力線の感覚が極めて鈍くなったのだ。
「お主……! 何をした!」
まんまと己が術中に嵌った花鶏を見て、勝ち誇った笑みを浮かべた狩人は拳銃の銃口を向ける。
「だから、言っただろ? 油断してると、痛い目を見るって」
狩人が花鶏に放ったのは、魔族の血を濃縮し、凝固させたものを加工した特殊な弾頭。
――魔力線が流れるのは、大気だけではない。魔力線とは即ち、魔力の流れである。
ティオから魔力線に関するその話を聞いた狩人が、ラーデンを発つ前に準備したものだった。風俗店を装った魔族狩り専門の装備品を開発する店で、馴染みの女技術者に無理を言って作ってもらったのである。
「……まったく。あの車内でティオちゃんから怒られてまで、立ち寄った甲斐があったってモンだ」
歯噛みする花鶏に向けて、狩人は弾倉に装填された銃弾が空になるまで発砲した。
体内の魔力線すら鈍くなっていた花鶏は、術式を行使することはおろか、回避すらできずにその銃弾の殆どをもろに喰らってしまう。
それでも、彼女は鈍くなった身体をどうにか動かして、致命傷を避けていた。花鶏が銃弾を喰らったのは、肩口や脇腹など。人間ならばこれでも十分な致命傷だが、海陵山の大悪童はまだその場に立っていた。
人間と同じ赤い血液が、花鶏の白い肌を流れ落ちていく。赤と白の色が混じり合うその様は、彼女の存在をより一層妖しく、そして恐ろしく彩っていた。
それでもなお花鶏千種は、死を前にして呵々と笑う。今、まさに対峙している宿敵と同じ様に禍々しく、高らかに嗤う。
「……見事よ、宿敵! さぁ、仕留めてみせろ、この花鶏千種を! 止めてみせろ、我が闘争の旅路を! ――無数の骸と、無限の欲望が作り上げた此の生を、終わらせてみせろ!」
「――お望みどおりに」
花鶏千種の干渉を受けない、希少な時間はあと残り数秒。拳銃の残弾数はゼロ。ならば、動きの鈍くなった花鶏の喉笛にナイフを突き立てるのが、最も確実な殺害方法だと狩人は理解する。勝利をもぎ取るために狩人は己が身体を、己が魂を覚悟で包み込み、花鶏へ放たれた一発の弾丸に加工した。
しかし、そこで花鶏千種も動く。
彼女は己の腕から流れ落ちる血液を、袖から取り出した一枚の呪符に塗りつけた。そしてそれを前方の狩人めがけて、投げつけたのである。
狩人の脳が、瞬時にその意図を把握した。
魔族の血は、魔力を宿す最も濃い触媒。それを塗られた呪符は、単体で術式の行使が可能なほどの魔力を有するのではないのか。
つまり、いま花鶏が投擲した呪符は魔力線干渉の妨害を受けることなく、鉄柱に変化することが可能なのではないかと、狩人は推測したのである。
避けるか、否か。もし呪符が鉄柱に変化するなら、回避しなければ狩人は死ぬ。だが、呪符がただのこけおどしならば、貴重な数秒を無駄にすることになる。
無論、逡巡する暇などない。
ならば、狩人にとっての答えはひとつしかなかった。
突撃する。目標、眼前の宿敵。黒い狂獣の異名を持つ狩人に、迷いなどない。