第8話
培養槽が置かれていた部屋の扉を蹴り破り、お姉さんとクラベルは死地から何とか逃げおおせる。あのままもう少しでもあの部屋に居たら、間違いなく殺されていたな。
鉄杭の先端が掠め、少なからず出血している右腕を抑えながら、クラベルは忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「攻撃、読めない……。部屋中、死地だった」
「いやぁ、我ながら何でアレに一撃を喰らわせることができたのか、分かんなくなりそうだよ」
鉄杭、石の壁、荊の手。花鶏はまるで手品を見せるかのように床や天井、壁からそれらを出してきた。身動きひとつせず、こちらの銃弾を前方に出した石の壁で防ぎ、クラベルの突進を鉄杭と荊の檻で止めたのだ。
以前戦った時もそうだったが、あの化物はこちらが如何なる攻撃を加えようとも、人間程度には指一本も動かす必要もないのか、余裕綽々といった表情でそれらを全て防ぎきる。銃を撃てば壁を作り、爆風は自らの周りを鉄で囲い、近づこうとすればありとあらゆる妨害が襲ってきた。
いつかは再び戦うことになるだろうと覚悟していたが、この局面での乱入は予想外だ。手強い連中と戦うことになるだろうとは考えていたが、『海陵山の大悪童』が対戦相手とは聞いてない。
人間と戦うものだと思ってリングに上がったら、マウンテンゴリラが待ち構えているようなものだ。
あれは魔族の中でも例外中の例外、アレと一対一の勝負が出来る魔族は龍種や上位存在、それから一部の魔族連中が崇拝する例の魔王くらいだろう。
星の数ほどいる化物の中でも、上から数えた方が早い桁外れの化物。そんなヤツと戦い、生き延びることができたのはその時のヤツが人間の科学技術に対して、とんと無関心だったからだ。流石に銃火器の類はある程度知っていたが、自動小銃や各種手榴弾は初めて見たらしい。だからこそ、前回は自動小銃でヤツの術式展開を制限し、閃光手榴弾でヤツの視界を潰して一撃を喰らわせた。
もっとも、それでも間一髪で僅かに身体を逸らされ、仕留めることができなかったんだけどね。
とにかく、今はヤツの手が及んでいない開けた場所を探すしかない。花鶏のばら撒く札が、あの厄介極まりない術式に関係していることは明らかだ。あの札が貼られている所で戦うくらいなら、滝壺めがけて飛び込んだ方がまだ生き残れる可能性が高いね。全速力で走りながら、そんなことを考える。
「……あの化物、倒す算段は?」
クラベルが右腕の止血を終えたようだ。幾分か落ち着きも取り戻したようで、声のトーンもいつものような低く抑えたものに戻っている。
「とりあえず広い場所に出るまで逃げて、そこにヤツの札が密集していないことを祈る。でもって、ヤツの知らない手段で攻撃を加える。ヤツが知っているってことは、対処されるってコトだからね」
「……つまり、ノープラン」
相変わらず、痛い所を的確に突いてくる奴だ。だが、今のところは本当にこれくらいしか思いつかないのも、また事実である。前回戦った時からしばらく経ったが、お姉さんは未だにあの悪ガキが仕掛けてくる悪戯のタネが分からない。ヤツがあちこちに貼る札と、その後至る所から出現する様々な物体。
おまけに他の魔術師とは異なり、構えや動きといった所謂予備動作を一切見せず、唐突にこちらへ襲い掛かってくるのだから、自然こちらが後手に回ることになってしまう。
そして、一度後手に回ってしまうと、後は圧倒的物量で押し潰されていくのだ。どうにかして、ヤツの虚をつく攻撃方法を考えつかないとジリ貧である。
「そうとも言うね。とにかく、この地下は中央が何故か吹き抜けになってたはずだから、とりあえずそこに――」
刹那、背筋に視線が突き刺さった感覚。クラベルも同じことを同じ瞬間に感じたようだった。通路はちょうど左右で二手に分かれている。この基地の地下に潜入した際、コンクリートで固められた通路の壁に貼られていた見取り図通りなら、このどちらに行っても中央の吹き抜けに出られるはずだ。
なら、迷っている暇はない。
お姉さんとクラベルは、示し合わせたかのように別々の方向へと飛んだ。お姉さんは左に、クラベルは右に。そしてその次の瞬間には突風と爆音が起こり、お姉さんたちの背後から射出された鉄杭が、通路の分岐点である壁に刺さっていた。まさに間一髪、もう少し逡巡していたら良くて片方、悪ければ両方の上半身が消し飛んでいただろう。
後方から、何がそんなに面白いのか知らないが、呵々とばかり笑うヤツの声が聞こえた。
「そう逃げるでない……。儂は身体を動かすのも嫌いではないが、追うよりは追われたい性質でな。そんなにちょこまかと逃げられては、ついうっかり殺してしまうぞ?」
花鶏は浮遊することによって、まるで上等な陶器のように白い素足をまったく地面につけぬまま、こちらを悠々と追ってきていた。こっちはでかい胸を思いきり揺らして走ったせいで、胸の辺りが痛いっていうのに、結構なことだよまったく。
今お姉さんたちがいるのは、横幅3リーネアほどの通路。物資運搬用の台車が行き来するのがやっとの通路で花鶏と戦うなど、正気の沙汰ではないことだけは確かだ。
追いつかれれば死ぬ。お姉さんは地下中央に向かって、再び走り出した。クラベルの方も、流石にこの局面で戦いを挑むのはまずいと分かるはずだ。
さて、問題はどちらについてくるか。クラベルは腐っても刻印持ち。その身体能力は所詮は人間のお姉さんなど比較にもならないし、何なら透明化の刻印だって使える。お姉さんの知る限り、花鶏がクラベルと戦うのはこれが初めてのはず。なら、どう考えても有利なのは褐色暗殺娘のほうだ。
培養槽の部屋ではあの悪ガキの挑発に乗ってしまっていたけど、純粋な格闘能力だけならクラベルは花鶏にも引けをとらないはずである。というか、そう信じないと彼我の圧倒的な戦力差に、流石のお姉さんでも目を背けたくなるよ。
花鶏千種は、自他ともに認める戦闘狂。より強い修羅と刃を交えることこそ至上の悦びとでも抜かしながら、嬉々として戦場に飛び込むイかれた魔族だ。ならきっと、お姉さんなんかよりよっぽど強いクラベルの方に行くはず。
いやいや、別にお姉さんだって戦えないワケじゃないよ。ただ、クラベルが逃げながら戦っている隙にティオちゃんたちと合流して、とりあえずはティオちゃんの無事を確認したいだけ。それにあの褐色暗殺娘なら心配しなくても、おっさんだった頃のお姉さんが何とか喰らいつけた相手に、後れをとることはないはずである。
それよりも気になるのはこの、肌に絡みついてくるような感じの悪い空気だ。足音が聞こえなくなってから感じ始めたこの淀んだ空気は、今もずっとお姉さんに何となく嫌な予感を抱かせている。虫の知らせ、というヤツだろうか。こういう時は決まって良くないことが起こっている。花鶏と本格的に戦い始めてしまったのもあり、お姉さんはティオちゃんが心配でならなかった。
「さて、とりあえずはティオちゃんと合流を……」
お姉さんはそう呟きながらも、あの化物が追ってきていないかと後ろを確認するために、一応ちらと振り返る。
そうしていなければ、お姉さんの綺麗な後頭部に鉄球がめり込んでいるところだった。
恐らく、術式で取り出したものを指で弾いたのだろう。指先ほどの大きさの小さな鉄球を、花鶏千種は後方から射出していたのだ。お姉さんのこれまた綺麗なショートヘアを掠め、鉄球は遥か向こう側に飛んでいった。
「おぉ、流石はラーテル。アレに気づくとはやりおるのう。やはり、あの黒長耳ではなくお主を選んで正解じゃったわ。あの長耳には、儂らの戦いの露払い程度がお似合いよ」
こっちの不愉快さに反比例しているかのごとく、とても愉快そうに笑っている海陵山の大悪童サマ。平常心を心がけているお姉さんだが、自分の後頭部に弾丸並みの速度を誇る鉄球を撃ち込もうとした相手が、嬉々として笑いながら追いかけてくるのを見ると怒りのひとつもこみ上げてくる。
「……プレゼントなら事務所を通してもらいたいもんだ!」
まったく、冗談じゃないぞ。まだ奥の手を使うワケにはいかないってのに。心の中でそうぼやきながら、お姉さんは走る速度を上げた。