第2話
お姉さんは小屋の扉を開けて、その中へとゆっくり入っていく。武器を構えた連中が大勢いる部屋に突入する時でも、ここまで緊張したことはない。ティオちゃんを傷つけずに、上手く元気づけてあげる言葉を考えるだけで、頭が痛くなってくる。
お姉さんは普段こそ軽口を叩きまくるが、こういう時になると途端に不器用になるのだ。だから嫁さんのソニアには、結婚の時にぽろっと言った台詞とかをずっと笑われたし。
うぅむ、困ったもんだ。しかし、ずっと落ち込んだティオちゃんを放っておくことはできない。今、ティオちゃんは薪がくべられている暖炉の前にある椅子へと座り、ぱちぱちと薪が燃える様子をただ眺めていた。リスがどんぐりを齧るように、ライ麦パンをちびちびと食べながら。
やはり、おかしい。普段のティオちゃんなら、戦いの前には腹ごしらえだと言って、あの程度のパンなど一瞬の内に平らげるはずだ。いつもは雲ひとつない青空のように晴れやかな表情も、今や見る影もないほどに曇ってしまっている。
こんな状態のティオちゃんを、お姉さんが放っておけるわけがない。
「いやぁ、まったく。雪ってのはイヤだね。今は降ってないけど、基地跡へ侵入する時に降っていたら、頭を抱えるよ」
お姉さんはティオちゃんにそう話しかけながら、もうひとつの椅子を暖炉の傍へと持ってくる。一方のティオちゃんはというと、お姉さんの話に気の抜けた返事をして、また暖炉の薪を見つめていた。
コートの裏ポケットに仕舞っている煙草のソフトパックを取り出し、その内の一本を自分の口へ咥える。
「……カルフールの町から、ずっとその調子だけど。何か、あったのかい?」
口から煙を吐き出し、お姉さんはティオちゃんの方を向いた。お姉さんの問いに、ティオちゃんは俯いてしばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開いて話し始める。
「ワタシのしていることは、間違いなんでしょうか」
ティオちゃんは、自身の膝の上に置いた両こぶしを握り、そう言った。彼女は悩みを少しずつ吐き出すように、その言葉を紡ぐ。
「ワタシたちは今、旧魔王軍の陰謀も打ち破ろうとしています。ワタシも、それに組する魔族の抵抗は覚悟していました。きっと、大勢の魔族がワタシたちの命を狙ってくると。けど、カルフールの町でワタシたちを襲撃してきたのは、紛れもなく人間の方たちです」
あぁ、そういうことか。お姉さん、ティオちゃんの悩みが何となく分かってきたよ。
「何故、旧魔王軍と何の関係もないはずの人たちまで、ワタシたちを狙うんでしょうか。ワタシは、人間の築いた文化が大好きです。食べ物は何処でも美味しいし、ラーデンでは見るもの全てが新鮮で面白いものばかりでした。だからワタシは、そんな人たちを脅かそうとする旧魔王軍に、立ち向かおうと思ったんです。けど――」
過程こそ違えど、この子は今ルシアを失った時のお姉さんと、ティオちゃんに出会う前のお姉さんと同じことになりかけている。
「それは、ワタシの独りよがりな考えで、人間の方たちにとって自分は、邪魔だったんでしょうか? ワタシには何故、命を狙われるのかが……」
「嘘が下手だな、ティオちゃんは」
そしてこの子は純粋で優しすぎるから、こんな嘘をついてまで、その悩みから目を背けようとしているのだ。その証拠に、お姉さんの言葉を聞いたティオちゃんは、びくっと肩を震わせる。
「確かにティオちゃんは純粋だけど、そんな疑問が分からないほど愚かじゃないはずだ。ティオちゃんが分からないのは、そのことじゃない」
ティオちゃんは心底辛そうに拳を握りしめ、肩を震わせる。お姉さんも、ティオちゃんが苦しむ様を見るのは辛い。ただ、この悩みから目を背けたり、強引に自分の中だけで納得させたら、きっとロクでもないことになる。それは、お姉さんが何よりも証明している。
「ティオちゃんはこれまでの旅を通じて、人間が魔族と大して変わらないんだと、気づいてしまったんだろう? だからこそ、ティオちゃんは今自分たちが正しいことをしているのか、分からなくなったんだ」
そう、彼女が分からないのは、今自分がやっていることの正しさだ。人間がこちらを襲う理由なんてものは、彼女ならすぐに分かっただろう。
答えは単純、お姉さんやティオちゃんたちが邪魔だからだ。
彼女は、理不尽に虐げられる者たちを助け、何者かを虐げようとする者を倒すことが正しいことだと、この旅を始めるまでは思っていたのだろう。しかし、現実はそこまで単純ではない。善と悪、虐げる者と虐げられる者、加害者と被害者。そんな言葉では片づけられないほど、世界とは複雑だ。30年もエルフの里で純粋培養されたティオちゃんにとっては、尚更だろう。魔族が悪で、人間は善などという安直な考えは通用しない。そんなものは童話の中だけで、現実では魔族よりも醜い悪を為す人間だっているし、ネゲヴみたいな魔族だっているのだ。
つまり彼女は何が良くて、何が悪いのか。ひいては、何を信じて助ければいいのかが、分からなくなったのである。
だが、それでもまだ彼女は悩むことをやめていない。
「けど、それでいいんじゃないかな?」
お姉さんは話し続ける。少しでも、彼女の助けになれば幸いだと言わんばかりに。
「善悪とか、正しさとか、そういうのに悩むことをやめたら、お姉さんたちと同じになる。ティオちゃんには、殺し無くす側じゃなくて、生み出す側になってほしいんだ」
殺し、殺される世界で、善悪だの正しさだのに悩むことは、そのまま弱さに繋がる。そして、弱みを見せた者から順々に死んでいくのが、この修羅の巷の基本原則だ。極限の中での命のやりとりで、道徳や倫理をいちいち考えている余裕などないのである。信念や理想だけでは生き残れない。
この子には、こんな世界へ足を踏み入れて欲しくはなかった。綺麗事と笑われるかもしれない理想と、優しい心を持つこの子に、血塗れの世界は汚れすぎている。
「悩んで、悩んで、考えたらいい。良いことや正しいことは、決して簡単に分かるものじゃないんだ。ただひとつだけ、覚えておいてほしい」
お姉さんは席を立ち、俯いたティオちゃんの綺麗な金髪をゆっくりと撫でた。
「ティオちゃんは、お姉さんを救ってくれた。そして、ティオちゃんが持つ優しさは、少なくとも間違いじゃない。だから、例え世界が君の優しさや理想を嘲笑っても、お姉さんはその優しさを信じて戦う」
ティオちゃんを少しでも安心させようと、自分なりに優しそうな笑顔を浮かべる。もっとも、大した学も無いお姉さんの言葉と、不格好な笑顔にどれほどの信頼感と説得力があるのかという話だが。
お姉さんの言葉を最後に、小屋の中はしばらく薪のぱちぱちという音だけが鳴っていた。ティオちゃんは顔を伏せたまま、まだ黙っている。
もしやこれは、見事に失敗してしまった感じか。やはり、こんな血腥さと胡散臭さの権化みたいなヤツに励まされても、意味がなかったか。お姉さんは、内心で肩をがっくりと落としながら、ティオちゃんの髪から手を離そうとした。
その瞬間、お姉さんは椅子から勢いよく飛び上がったティオちゃんに抱きつかれ、小屋の床に背中から倒れ込んでしまう。
何事かと思い、案外豊満なお姉さんの胸に飛び込んできた彼女の顔を見た。その顔には、お姉さんの見たかった表情が浮かんでいる。
「――こんな世間知らずで、夢見がちなエルフを信じるなんて、お姉さんは本当に変わった人ですね」
そう、この明るく笑った顔が見たかったんだ。現実もまだ捨てたものじゃないと思わせてくれる、この笑顔が。照れくさそうにはにかむティオちゃんを見て、お姉さんの口からも思わず笑みがこぼれた。
「ワタシ、もう迷いません。悩んで、悩んで、悩みぬきます。一人でも多くの人が、心から笑えるように。もちろん、お姉さんやクラベルさん、ネゲヴさんも笑えるように」
さっきまで落ち込んでいた子とは思えないほど、思いきり笑うティオちゃん。その笑顔は、雲ひとつない晴天よりも晴れ晴れとしていて、その晴天で輝く太陽よりも眩しかった。
あぁ、まったく。この笑顔は、煙草よりも中毒性が高いな。




