舞台の裏で企む者 ―Side:Demons―
「花鶏様の予想通りです。ラーテルは、ロジェフスク陸軍基地跡へ向かっています。既にタルナーダ連邦領へ入り、潜入の準備を行っているようです」
「まこと、愚かで面白い男よな。彼の地で何が行われているか、よほどその目で確かめたいらしい」
かつて『海陵山の大悪童』と呼ばれた忌名つき、花鶏千種は心底楽しそうな笑みを浮かべる。
花鶏は、彼女の宿敵が奴隷市場を潰した時から、おそらく決戦の舞台はロジェフスク陸軍基地跡になるだろうと予想していた。そして彼女の読み通り、様々な勢力、様々な思惑を持った者たちが、基地跡へと集結し始める。旧魔王軍、タルナーダ連邦陸軍対外工作部隊、そしてラーテル御一行。
舞台は整い、役者も登壇し始める。こうなると、居ても立っても居られなくなるのが、花鶏千種という魔族であった。
自分も、その祭に加わりたい。様々な信念と思惑、暴力と策謀が入り混じる舞台に飛び入りで参加し、思う存分掻き乱したい。花鶏は、自身の体がいつの間にか火照っていることに気がついた。
(「これが昂らずにいられるか……。己が欲と信念のままに、奴らは舞台に上った。こうなれば後は、己の道を遮る敵を、片端から殺し尽くしていくのみ」)
嗤う。歯を剥き出しにして、花鶏千種は嗤う。
信念も理想も、花鶏千種にとっては我欲と同義であった。
何かを求め、それを欲する。故に行動し、例え誰かを殺してでも求めるものを得ようとする。我欲との違いは、それが人や物という明確な対象であるか、或いは社会構造の変革や夢の実現という抽象的な概念かという点だけである。誰かを救いたい、何かを変えたいという思いもまた、我欲と同じく自身がそれを望み、欲するからだと花鶏は考えていた。
そして、花鶏はそんな我欲、信念や理想を抱く者たちの中でも、一見すると荒唐無稽な絵空事と思われる様な、強く大きい我欲を持った者と戦うことを特に好んだ。そういった強い欲を持った者は、大抵それに比例した強い力を持っている。欲というものを実現させる為に、最も手っ取り早い手段は力で訴えることだ。
その強い欲、強い力とはどれほどのものなのか。花鶏千種という魔族は、それを闘争の中で推し量ることを、何よりも好んだ。
(「取るに足らぬ、面白みのない凡百の欲ならば、叩き潰し、消し去れば良い。だが……」)
花鶏千種の脳裏に、ある者の姿が浮かぶ。
色欲、物欲、征服欲、自己顕示欲。様々な欲を持った者たちを叩き潰し、己が欲と力の前にねじ伏せた大魔族、『海陵山の大悪童』チグサの前に現れた、黒いコートを羽織った男。所詮人の持つ欲と力などこの程度かと、退屈していた花鶏の前に姿を見せた、独りの狩人。
その男の瞳を、そして戦いを見た瞬間に花鶏は気づいた。この男は、これまでにないほどの愚か者だと。己が器や本性など一切無視して、到底成し得ぬ理想に縛られた、哀れで愚かな強者だと。
だからこそ、花鶏は男をあそこまで駆り立てる理想が何なのか、気になって仕方がなかった。自ら死地に赴き、数多の死線を潜り抜けてなお、未だ戦い続ける男の理想とは何なのかを、花鶏は知りたかったのだ。
「……また、ラーテルの元に。ロジェフスク陸軍基地跡に向かわれるのですか、花鶏様」
水晶玉を持つアヤメが、花鶏へと視線を向ける。その瞳には、露骨に嫉妬の色が表れていた。淡い桃色の唇をきゅっと噛み、まるで浮気を咎める妻の様に花鶏を眺めるアヤメ。そんなアヤメの白く細い顎に、花鶏は自身の指を当てる。
「応とも。人の身で、遥か高みに輝く星へと手を伸ばす、何処までも愚かで、だからこそ愛しい強者と少し遊んでくるのよ。でなければ、儂は体の火照りで気が狂ってしまいそうじゃ」
アヤメの耳元でそう囁く花鶏。そして、そのままアヤメから体を離し、立ち上がろうとした。
そんな花鶏の手をアヤメが不意に引っ張り、思わず体勢を崩した花鶏の唇をアヤメが奪う。自らの従者に過ぎなかったアヤメのこの行動に、花鶏は数十年ぶりに驚きという感情を覚えた。目を丸くしてアヤメを見る花鶏に対して、唇を離したアヤメは僅かに頬を紅く染めながら言う。
「私では……、アヤメでは、ダメなのですか? 私には、花鶏様をここに留めて置く力すらないのですか?」
ジッと花鶏の瞳を見つめるアヤメ。花鶏は、そんなアヤメの姿を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「――この花鶏千種を、一介の人であるお主が、我が物にしたいと言うのじゃな?」
アヤメは覚悟していた。傲岸不遜にして、唯我独尊。自らの欲望と衝動のままに己の道を歩み続ける花鶏を、単なる人間であるアヤメが止められるわけがないと。そして、花鶏の道を邪魔した者の末路は、物言わぬであることもアヤメはよく知っていた。
しかし、それでもアヤメは言わずにはいられなかったのだ。
ラーデンの奴隷市場から、気まぐれで自分を購入した魔族。初め、アヤメは花鶏をそう見ていた。そして、気まぐれで縊り殺されては堪らないと、花鶏の命令を聞き、気がつけば彼女の傍に仕える従者となっていたのだ。
だが、花鶏千種という魔族の生き様を間近で見ていたアヤメは、やがてその生き様に憧れの様な、或いは慕情の様なものを抱くようになった。自分勝手に、己が力と欲だけを頼りに孤独な生を、道を突き進む修羅。アヤメはその小さな背中と大きな欲に、いつしかどうしようもないほど惹かれていた。
故に、例え殺されたとしても、アヤメは本望だったのだ。
そして、アヤメの元に花鶏の手が伸びる。花鶏がアヤメを殺すことなど、指一本すら動かさずとも可能だ。それを手ずから、殺してくれるのだ。アヤメはそのことに感謝しながら、自分に伸びてくる花鶏の白く細い手をただ眺めていた。
しかし、花鶏の手はアヤメの頬をそっと撫で、花鶏の顔には彼女らしからぬほど、穏やかな笑みが浮かんでいたのだ。
「――お主もまた、強き欲と力を持っておった、ということか。しかし、儂が欲しいとは……。随分と強欲で、酔狂な奴じゃな」
アヤメはただただ、呆然としていた。殺されなかったことにではない、花鶏がこんなにも穏やかな、まるで慈悲深い母の様な笑顔を浮かべていることにである。
「案ずるな。お主の身も心も、既に儂のものじゃ。儂は、一度自分のものになったものを捨てることはせん。まして、お主ほど妖艶な色香の力と、珍妙で強い欲を持った美しい女子はな」
花鶏はそう言うと、ゆっくり立ち上がって、着物の胸元から一枚の札を取り出した。
主人であり、愛しい人でもある花鶏の出立だと気づいたアヤメは我に返る。そして両手を床につき、頭を深々と下げた。その目の端には、涙が溜まっている。
「――ありがとう、ございます花鶏様。多大なるご無礼、お許しくださいませ。そして……、どうかご無事で」
「応。存分に、愉しんでくるとしよう」
花鶏千種は、アヤメの前から姿を消した。
決戦の地、ロジェフスクに役者が集う。