もう無くなったものの話(下)
雨が、降っていた。まるで誰かの代わりに空が泣いているかのごとく、とある墓地には雨が降っていた。
一人の男が、ある墓石の前に立っている。片手に花束を持ち、雨が降っているにも関わらず傘すら差していない。男は虚ろな瞳で、墓石に刻まれた名前をじっと見ている。
墓石に刻まれている名前は、ルシア・エスペランサ。男の一人娘であり、夢でもあった女の子の名前だった。そう、この墓石の下には男の夢が眠っている。
死因は、病死。流行病に罹ったルシアは、高熱と痛みに苦しみながらこの世を去った。
「パパ……? パパはね、私のヒーロー。だから、これからも、誰かのヒーローであってね? 私との約束、だよ?」
ルシア・エスペランサ。彼女の最期に遺した言葉が、男の頭で打ち鳴らされた鐘の音のように響き渡っている。
男は思う。もしルシアが病ではなく、誰かに殺されたのであればこの憎しみを、この怒りをその犯人に向ける事ができたろうに、と。四肢をもぎ、生皮を剥いで、男が知る限りの残虐な方法で、地獄すら生ぬるいほどの苦しみを味あわせてやったろうに、と。
だが、現実はこうだ。誰も恨む事ができず、ただ嘆き悲しむことしかできない。医者を殺してやろうとも思ったが、そんなことをルシアは決して望まないだろう。
男が今考えていることは、所詮男がこの悲しみから逃れたい一心で叫んでいる世迷言だ。そんなものに何の意味もないことは、男が一番よく知っていた。辛いこと、悲しいことをそのまま叫んだところで、何かが変わる訳がない。そんなことを叫んでも、誰も助けてなどくれないことを、血と硝煙と憎しみの中で戦ってきた男は知っていた。暗く沈んだ男の心を、かつて慣れ親しんだ闇が蝕んでいく。男は自分の顔から本当の笑みが消え、心からは輝きがなくなっていくのを感じていた。だが希望の遺した言葉は、依然として彼の心で燻り続けている。
では、どうすればいいのか。ルシアが死んでから、男はずっとそれを考えていた。
「……あなた、またここにいたのね」
男の頭上に、黒い傘が差し出される。男が後ろを向くと、そこには彼の妻であるソニアが立っていた。それに気づいた男は、ソニアに向けてにこりと笑う。
「あぁ、ごめんよ。おじさん、傘を忘れちゃってさ。馬鹿だよなぁ、まったく」
しかしその笑みも、その瞳も。男の全てが空っぽの空洞になっていた。今にも泣き出しそうな顔で、ソニアはそんな男の顔を見ている。
「あの子が死んでからずっと、あなたの時間は止まったままなのね……。夢も、心も、あの時見せてくれた笑顔も、あなたはルシアと一緒に墓石の下へと埋めてしまった……」
「そんなことはないよ。おじさんにはまだ、君がいる」
そう言って、男はソニアから傘を受け取ると、大事なものが欠けてしまった我が家へと歩きはじめた。かつて、家族に見せていたものとは比べものにならないほど小さく、煤けた背中をソニアに見せながら。
「――嘘! それは嘘よ! 今のあなたの目に、私は映っていない! ……いいえ、それだけじゃない。今のあなたの目に映っているのは、悲しみと妄執だけ! あの子が遺した言葉の本当の意味すら忘れて、自分の世界に逃げ込もうとしてる!」
そんな男の背中を見て、ソニアは思わず泣き叫んでいた。
「あなた自身が、忌み嫌っていたはずの血に塗れた世界へ。そして、あなたが一番知っている魔族狩りの世界へ、逃げようとしているだけ! 気づいて、あなた……。そこにあるのは、死と憎悪と、欲望だけ。そこに、あなたの夢は――――」
「ごめんよ、ソニア」
ソニアの言葉を、愛する妻の言葉を遮り、男は一枚の紙をソニアに見せた。その紙に書かれた文言を見た瞬間、ソニアは言葉を失う。そして、代わりに雨粒のような涙を流し始めた。
その紙には、こう書かれている。
『直衛官、ニコラウス・エスペランサ。貴公たっての願いは受理された。これより先は執行官として、世界各地で悪行を為す魔族を討伐されたし。貴公がより一層の働きを見せてくれることを期待する』
ほとんどが、決められた地区内での活動に限定される直衛官。それとは異なり、執行官は特定の場所に縛られず、世界各地で忌名つきと呼ばれる強力な魔族を狩ることを仕事としていた。世間一般的に、魔族狩りといえばこちらの執行官の方を指す。
そして、この事実が示すことはひとつ。
男は創ることではなく、壊すことを選んだ。光を手に抱え、その輝きを守り光らせることではなく、ただ只管に無明の闇が支配する中で、男が嫌というほど慣れ親しんだ壊すことを。男は結局、それしか知らなかったのだ。
「おじさんは、これくらいしかできない。あの子が言ったヒーローになる方法なんて、これくらいしか思いつかないんだよ」
雨は、降り続けている。まるで、誰かの悲しみを表すかのように。それは、誰なのだろうか。男か、ソニアか、あるいはルシアか。
もう無くなったものを忘れることができなかった男は、今あるものから背を向けた。最早こうするしか自分の生きる道はないと、男は修羅の道へと戻っていったのだ。男の目は未来ではなく、過去を見ている。夢は決して、過去には存在しないというのに。
そう。これは、もう無くなったものの話。取り戻すことなど、もう出来はしない。