満を持して、悪童は動き出す
『武器屋・花鶏』の入口を守護する鉄の扉、その門前に『本日閉店』と書かれた看板が立てられていた。そして、店の奥にある畳張りの部屋で、花鶏千種は楽しげに策謀を巡らせる。まるで子供が画用紙へ絵を描く様に、鼻歌を交えながら自身が最も愉しくなる状況を作る為の算段を立てていた。
彼女は聡い。かつてラーテルという呼び名で恐れられた、彼女の宿敵に起こった変化を、彼女はほんのひと時の会話から読み取った。まず花鶏は、ラーテルが旧魔王軍の者たちと徒に事を構えるほど、愚かではない事を知っている。依頼が無ければ動かないあの女が、自ら率先して世界を救うなどという馬鹿げた事をするはずがない。少なくとも、数年前までの彼女ならばそうだろうと、花鶏は思う。
だからこそ、あの女を変えた誰かがいると、花鶏は確信していた。過去に囚われ、冷たい目で獲物を狩り続けていた彼女を変えた、誰かが。
「……花鶏様、お茶が入りました」
そこへ、彼女の愛人であり、召使でもある少女が茶を持ってきた。彼女の名はアヤメといい、花鶏が気まぐれで奴隷商人から買った少女であった。彼女は花鶏の人形と言っても過言ではない。花鶏は彼女を気ままに抱き、気ままに愛で、気ままに虐げるのだ。
「うむ。そこのちゃぶ台にでも置いておけ。それはそうとアヤメよ、儂の頼んだ事は終わったのか?」
「はい。花鶏様が旅立つ際の準備、既に終えております」
元よりそういった用途を目的とする客の為に、奴隷商人が仕込んでいた事もあって、アヤメは花鶏が任せた仕事をそつなくこなした。分からぬ事は一度教えればすぐに覚え、今では花鶏の片腕として十分な働きをしている。
東国特有の着物という服を着ているアヤメは、その着物ごしでも分かるほど華奢な身体をしていた。しかし胸が無い訳ではなく、むしろ完全に幼児体型の花鶏と比べると、かなりある方である。艶のある黒い長髪を、後ろで布を使ってまとめており、やや垂れた細目も合わさって、非常に儚げな雰囲気を纏っていた。
「そうか、ご苦労じゃった。……自らが動かねば、自らが面白いと思う事など起きぬ。これは、世の摂理よ。儂とて例外ではない。であれば、動かざるを得ぬわ。我が宿敵ではないが、まったく面倒じゃのう。あぁ、まったく面倒じゃ」
口ではそう嘯きつつも、花鶏は先ほどから嬉しさをこらえきれぬ様で、アヤメに背を向けてくすくすと笑っている。一方、アヤメはその様子があまり気に食わないのか、少し毒のある言葉を吐いた。
「花鶏様が、あの者にそこまで執着する意味が、アヤメには分かりません。確かに、並々ならぬ修羅場を潜り抜けた、猛者である事は確かでしょうが……。花鶏様の過大評価では――」
そしてそんなアヤメの言葉を、花鶏は聞き逃さない。花鶏は自身の頭にある狐耳をぴくと動かすと、アヤメの方を振り返り、手招きをする。
「……こい」
相手の心を見透かした様に笑い、花鶏はアヤメを呼ぶ。アヤメに拒否権は無い。
アヤメはささと、擦り足で畳の上を歩いていく。そして、花鶏の前につくと、今度は花鶏がこう命令した。
「座れ」
アヤメを見上げる花鶏の目を、彼女は覗き返す。その赤い瞳は視線という蔦を伸ばし、アヤメの心を絡めとろうとしていた。
否、アヤメの心も、そして身体も既に絡めとられている。
アヤメは何ひとつ逡巡する事無く、その瞳に吸い寄せられるかの様に、花鶏の前へと座った。
花鶏は、そんな彼女の唇を突然奪う。顔を一瞬で近づけると、アヤメの顎を引いて、自身の唇を重ねた。そのまましばらく、二人とも見つめ合い、アヤメの方から離れる。
「まぁ、見ておると良い。お主には分からぬ世界ではあるが、あれはあれで見物よ……。自らの本性に抗い、儚き理想と過ぎ去った時に、身も心も焼き尽くされる憐れな修羅。折角、新たな身体を手に入れたというのに、それさえも顧みぬ愚かさは、愛しさすら抱かせる」
うっとりと花鶏を眺めるアヤメを後目に、花鶏は呵々と笑った。
「故に、今しばらくは嫉妬に身を焦がしておるといい。安心せい、たまにはお主も思い出してやろう」
悪童が動く。地位も名誉も、富も権力も関係ない。ただ、己が悦楽を満たさんが為に、かつて『海陵山の大悪童』と呼ばれた女狐が一人、暗躍を始めた。