第5話
まったく、とんでもない事になった。平常心、平常心、と心で唱えながら、咥えた煙草に火を点ける。左手は防弾ケースを持っているから、右手を使う。何時でも利き手だけはあけておく。これはお姉さんが経験から学んだ教訓だ。
しかし、まさかこんな事になろうとは、思いもしなかった。紫煙と共に大きく息を吐き出して、これからどうするかを考える。
まぁ、普通に考えて逃げる一択だろうなぁ。そう考えつつ、明らかに堅気ではない連中が行き交う城の廊下を歩く。かつて王城だった名残は、そのほとんどが盗人や物乞いなんかに剥ぎ取られ、今じゃすっかりスラム同然の景観となっていた。王侯貴族が歩いたであろう大理石や花崗岩の床には、絨毯のひとつも敷かれておらず、物乞いの寝床が乱立している有様だ。かつてシャンデリアや燭台が彩っていたであろう壁や天井には、優雅さの欠片もない電灯や松明が代わりに灯っている。まったく、よくもまぁここまで荒らしたものだ。
「しっかし、組織間の抗争ってのは本当みたいだな。何処に行っても、血の匂いがぷんぷんする。ついさっきはまだ片づけてすらない死体もあったし。勘弁してほしいもんだよ……」
そんな事を呟いた瞬間にも、背後の方で銃声と怒号が響いてくる。本当に、とことん狂った街だ。そこでマフィア連中から命を狙われているのに、堂々と歩いているお姉さんも大概なんだけどね。
正直なところ今はもう、じたばたしたって何も解決しないと、ある種の覚悟が決まっていた。事実、これまでの修羅場も、慌てたところで何も解決しなかったしね。いつだって危機的な状況からお姉さんを救ったのは、その冷静さと、左脇のホルスターにある愛銃、91(ナイン・ワン)だった。
昔から、頼れる人間なんていなかった。同じく魔族狩りだった妻とも、実際に背中を合わせて戦ったのは片手の指で数える程度。それだって、自分は心から妻の腕を信頼していたかと言われると、はっきり頷けない。これも妻がどこかに失踪した原因かな。
そうだ、いなかったんじゃなくて、自分から頼らなかったのだ。お姉さんは根本的な部分で、人を信じる事が出来ないのかもしれない。仕事上、常に次善の策を容易しておかないと、命に関わるって事もあるかもしれないが、それだけじゃないだろう。現に、愛する娘の言葉ですら、その意味を簡単にはき違えてしまう馬鹿野郎なのだから。
血走った獣の様な目で、獲物を見据える生粋の狩人。軽口や飄々とした態度で隠しても、その目が言うておる。もっと獲物を、もっと戦いを、とな……。
花鶏の言葉が、今さら心に響いてくる。誰かを信頼し、その背中と、ひいてはその思いと共に戦うよりも。ただ独りで獲物と向かい合い、いつ死ぬとも分からぬ戦いの中で生きる方が、お姉さんには向いているのか。
いや、そんな事は無いはずだ。そんな感情の無い獣の様に生きるのが嫌だったから、結婚して娘を持ち、今だってティオちゃんと一緒にいる。娘の思いを大切にしたい、ティオちゃんの理想を守ってあげたいという思いだって、偽りじゃない。
いや、本当なのだろうか。本当に、この思いは偽りではないのだろうか。誰かの理想を守るという建前を使って、鉄火場に立つ自分を正当化しているだけじゃないのか。拭いきれないほどの血に塗れたその手が、綺麗になる事などないというのに。
あぁ、まただ。また、余計なものを見ている。あの子の隣に、ティオちゃんの隣にいる時は、こんな事を思いもしなかったというのに。いかんな、歳を食うとついつい考えなくてもいい事まで、考えてしまう。
とりあえず、帰ったらティオちゃんと何処かに行こう。そこら辺の屋台でもいいし、あの子の服を新しく買ってあげてもいいな。そうだ、とにかく今はティオちゃんの笑顔を守る為に、あの子のヒーローとして戦う。人類を救うヒーローはそのついでだ。偽物だろうが本物だろうが、今はそれでいい。
物思いにふけりつつも、お姉さんは城の南側にある大きな庭園へと辿り着く。ここを抜ければ、城の出口はもうすぐだ。流石にマフィア連中も、城から出てまで命を狙いに来る事はないだろう。そんな事をすれば、民警から総出でタコ殴りにされる。
庭園といっても、今じゃ草木はほとんど枯れて、怪しい屋台やトタン板で作られた家屋、誰のものとも分からないみすぼらしい墓が、その代わりにちらほらと立っているだけだ。そんな場所を、煙草の紫煙を漂わせながら歩く。
ふと、背後から視線を感じた。こんな場所で、歩きたばこを咎める人種がいるはずもない。恐らく刺客の類か、単なる強盗だろう。どちらにしても、こちらから仕掛けてとっとと片づけるだけだ。流石に、マフィアの皆さんが総出でお姉さんの首を狙いにくるならともかく、刺客の数人程度なら負ける道理はない。
適当な曲がり角を見つけると、素早くその角を曲がり、姿を消した様に見せかける。後は、相手が慌てて追ってきたところに、不意打ちをかまして終わりだ。よくある手だが、チンピラ風情が相手ならこれで十分だろう。
しかし、これは悪手だった。トタン板の家屋、その角に待ち伏せていたお姉さんの後ろで、屋根から何かが降りた音。それに気づき、振り向きながら拳銃を抜き放とうと瞬間には、お姉さんの首筋にマチェットが当てられていた。マチェットの幅広な刃が鈍く輝き、お姉さんの首筋を映す。しまったな、お姉さんも鈍ったものだ。相手の力量を見誤るとは。だが、後手に回ってしまいながらも、お姉さんはどうにか反撃を試みようと、拳銃に手をかけた右手の、ひいては身体全体の神経を研ぎ澄ませようとした。
もっとも、そのマチェットをよく見た瞬間、お姉さんの肩の力が一気に抜けたわけだが。
「言った筈。煙草、臭いがつくし、技も鈍る。昔なら、この程度じゃあ一本、奪えなかった」
目の前にいた黒いコートの女が、その口元を覆っていたスカーフ越しに話してくる。まったく、この女もそうだが、お姉さんの周りには碌な成人女性がいない。
「そうかい、御忠告どうも。けれど、もう少し優しい忠告はできないもんかね。一応、同門の先輩だってのに」
そうか、マフィアの大物魔族を殺したのは、こいつだったのか。
東国の神話に登場する、竜と呼ばれる生物を彫ったマチェットは、こいつが刀鍛冶に注文した品だ。スカーフに隠れていない、目元の部分からは褐色の肌と黒い瞳が覗いている。でもって、この不愛想な喋り方に、神出鬼没の軽業とくれば間違うワケもない。
「殺さないだけ、まし。クラベルの優しさに、感謝して」
「手厳しいね。まぁ、腕が鈍った事に関しては自覚してるよ」
クラベル。かつてお姉さんが師事していたくそ爺の孫であり、お姉さんより遥かに強いお嬢さん。別段、過去に何かあったわけでもないのに、何となく嫌われている節がある子だ。
「けれど、そんな貴方でも使い道、ある。同門のよしみ、手を借りたい」
「なるほど。とりあえず、話くらいなら聞くから、そのマチェットをどけてくれない?」
と、いうワケでクラベルという新キャラです。花鶏に続いてクラベルも、中々に書くのが楽しいキャラですね。後、マチェットじゃなくて青龍刀の方が良くね? と思った方もいるかもしれませんが、青龍刀は中華系キャラに残しておきたいんや……。