02.或る音楽家の死
その音を聞いたとき自分とは違うと思った
何気なく感覚のままに弾き流された旋律、それは原石だった。もし技巧という研磨が加わればどれほどの旋律が生まれるのだろうか。
彼は評価・成績でいえば自分より遥かに下だ。だがこの旋律前にそのような些事は意味のないことだと悟った。悟らざるを得なかった。もし私が凡俗ならば気づかずにいられたのかもしれない。だが私は分かったのだ。彼に敵わないと。
私は彼の旋律に心酔した。
今の彼は自分の感覚と技巧という技術が上手くかみ合っていない。彼の感覚に彼の技術が、あるいは既存の技術・技巧が追いついていないのだ。
私は自分の旋律を放棄することに決めた。
感情による感覚の波と理性による技巧の術。
ああ、彼の旋律にこの身を刻むことができるのならば。私は喜んで彼にこの身を捧げよう。
私は最後の旋律を奏でるために用意した。
彼に捧げる死に向かう独奏曲。
彼はいずれ自分自身で未熟ゆえの溝を埋めることになるだろう。だがそこに私はいない。私は刻み付けたいのだ。彼の旋律に私を。そのためだけに私は私の旋律で彼の才能を開花させる。彼の溝を埋めるための旋律を、私の最期の旋律を奏でならなければならない。
考えた。今までにないほど考えに考え抜いた。何度も書き直した。書きなぐり放り捨ててはまた書いた。今までの人生でこれほど苦しんだことはあっただろうか。同時に私にとってこれほど輝いていた時間はあっただろうか。
準備は大詰めに入る。その作業はとても地味なものだった。だがこれまで経験したどんな賛美よりも私を酔わせていた。
舞台は整った。観客は彼一人。それ以外の有象無象など必要ない。準備は全て万全だ。この時をもって彼の旋律はどこまでもいつまでも響いていくことだろう。
さあ演奏を始めよう。幕は既に上がっている。私の全てをここに捧げよう。
神に奉納するように。神に真摯に祈るように。神に感謝するように。
文字通りの全身全霊。この身この魂の全てをもって奏でる旋律だ。
僅かな時間。この僅かな時間のために私は生まれたのだ。歓喜を!感謝を!感動を!私がもつありとあらゆるすべてが奏でられてゆく。
そして終わりが来た。
彼が私を褒め称え去りゆく姿を見ながら私は自らの身体を横たえた。自分でも不思議だ。つい一瞬前まで彼と熱く会話を交わしていたのに今は身体をどうすれば動かせるのかすら分からない。
消えゆく意識のなか私の頭のなかであの旋律が蘇ってきた。これほど愉快なことはない。まだ未完成な旋律を私は覚えている。そしてそれがどうなるか。私には分かった。分からないが分かった。だからこの旋律に身を委ねられるのなら身体を動かす必要などどこにも存在しない。
まだ聞こえぬ旋律を前に私は一人笑った。高らかに笑った。声が出せないことが残念だったがそんな邪魔な音など不要だと気付いた。ああ声が出せなくてよかったと。
もし声が出せればこの喝采が雑音となり旋律を穢してしまうではないか。