夜更かし
「…………………………つまんない」
桃香がベッドの上でポイと雑誌を投げ捨て、ごろりと横に転がる。
内容が全然頭に入ってこないのだ。
日景が苺香を寝かしつけリビングに戻ってきた頃、ちょうど両親が一緒に帰ってきた。
同時のタイミングで帰ってくるという事は、仕事の後にタイミングを合わせて軽いデートでもしてきたのだろう。
そんな事を考えると、何となく二人が居るリビングに居辛くなって、桃香は自分の部屋に戻った。
他の子供達もその後すぐ、桃香同様自分の部屋に戻ったらしい。
「うわ、もう十二時越えてるよ」
時計を見ると大分遅い時間になっていた。
だが、読んでいた雑誌のページは全然進んでいない。
日景の事がどうにも気になってしまって、集中出来なかったのだ。
「……もう寝よう」
雑誌を机の上に置き、部屋を出る。
寝る前にトイレに行っておこうと思ったからだ。
「あ」
タイミングが悪かった。
「ん?」
同じく部屋を出ようとした日景と廊下で出くわしてしまったのだ。
「っ!」
だが、日景は桃香の存在に気付くと、バタンッ、と焦ったように突然部屋に戻ってしまった。
(何今の態度。…………ムカつく)
別に好かれたいと思っていた訳ではないが、かと言って今まで好き好き言っていた癖にこうも突然あからさまに避けられると、不愉快だ。
するとガチャ、とドアが開き、ニコリと日景が微笑んだ。
(あ)
それで理解した。
日景はさっき、仮面を付けていなかったのだ。
だから桃香に素顔を見せない為に、慌てて部屋に戻った。
「不覚……」
逆光気味だった事と一瞬だったので、素顔を見る事が出来なかった。
折角のチャンスだったのにと、桃香が悔しがる。
「やぁ、桃香ちゃん」
日景が何事も無かったかの様に、爽やかに挨拶してくる。
「……どうも」
咄嗟にどう反応すればいいのかわからず、ちょっと余所余所しい返事をしてしまう。
「夜更かしだね。桃香ちゃんも下に何か飲み物取りに行くの?」
「え?」
勘違いされている。
桃香の目的は飲み物ではなくトイレなのだが、そうとは言い辛い。
「……はい」
「そうなんだ。じゃあもし良かったら、それを飲み終えるまでの寝る前少しの時間。俺と話でもしない?」
「え?」
『ゲ』が出なかった自分を褒めたい、と桃香は思う。
ぶっちゃけ、心底嫌だった。
「あー……と。ごめんね? もう寝るんだったらいいんだ」
だが残念、声は抑えられても表情は隠せていなかった様だ。
日景が申し訳なさそうな笑顔で言う。
もう寝るんだったら、というのは桃香が断わりやすい様に用意してくれた言い訳だろう。
「…………」
日景の寂しそうな口元に罪悪感を覚えてしまう。
「……少しだけなら、良いですよ?」
それでつい、誘いに乗ってしまった。
「本当? やった」
たったそれだけの事で嬉しそうに微笑む日景に、また先程までとは別な意味でモヤモヤしてしまう。
「じゃあ、下で飲み物用意してくるから、桃香ちゃんは俺の部屋で――」
「いえ、私も一緒に行きます」
「大丈夫だよ、二人分位すぐ――」
「いいですから、本当、そういうの。早く降りましょう」
「う、うん」
妙な気遣いはいらない。
飲み物どうこうの前に、桃香は早く下に降りて、まずはトイレに行かないといけないのだから。
飲み物はもう二人共歯を磨いてしまったので甘いものは無し。
という事で、ほうじ茶になった。
甘くない物なら別に緑茶や紅茶でも良かったと思うのだが、日景曰く、ほうじ茶の方がカフェインが少ないから、寝る前に飲むならこっちの方がいい、との事。
「さ、入って」
「はい」
日景の部屋は、桃香も何となく予想はしていたが、物がちゃんと整理整頓されて掃除も行き届いた、清潔感のある部屋だった。
「ちょっと待ってね」
脚をたたんで部屋の隅に片付けられていた小さいテーブルを出してきて部屋の真ん中に置くと、クッションを二つ近付けて並べ、隣に座る様に促してくる。
「………………」
桃香が無言でクッションの一個を反対側に移動させ、そこに座る。
「Oh……」
日景のわざとらしいポーズが心底ウザい。
「………………」
ほうじ茶をすすりながら桃香が心の中で思う。
(早く部屋戻りたいなぁ……)
正直、桃香はこの部屋に居るのが気まずい。
日景の事が苦手だからだ。
表現をオブラートに包まず率直に言うと、桃香は日景の事が嫌いだ。
紅梨からは自分だけこの人と馴染んでいないとか言われるし、他の姉妹も自分の言う事は何一つ聞かないくせに、日景の言う事にはすぐに従う。
面白くない。
「桃香ちゃんごめんね? こんな時間に無理に呼び込んじゃって」
「いえ、別に……」
「この家の中でさ、」
だが日景から言われたのは、桃香の思っていた事とは全く逆の事だった。
「一番俺と普通に接してくれるのが桃香ちゃんだから。一度二人でゆっくり話をしてみたいと思ってたんだ」
「え?」
桃香が、何を言っているんだこの人は? という顔をする。
「何を言っているんですか? あなたは」
というか口に出した。
「普通に接してくれるも何も、あなたは他の皆と十分に仲が良いじゃないですか。私が言って聞かない様な事も、あなたに言われたらちゃんと従いますし。……むしろ私より、あなたの方が皆から信頼されているんじゃないですか?」
「まさか」
日景が笑う。
「面倒な事を言われたら、誰だって一度位否定したくなるのは当前だよ。例えそれがどんなに正しい事だとしてもね。だからそこで大人しく従うっていうのは、自分の本心が言える様な気が置けない仲になれていないって事なんだよ」
そんな考え方もあるのか、と桃香が少し驚く。
「あの程度の事を断ったところで桃香ちゃんと皆との仲は変わらない。けれど、俺からの要望を断れば俺が機嫌を損ねるかもしれない。断った事により、気まずくなるかもしれない。だから断れなかったんだよ、皆」
日景がほうじ茶を少しすする。
「だから俺は、俺の事をキッパリハッキリ否定して、心底嫌そうな顔をしてくれる桃香ちゃんのその態度が、本当に嬉しいんだ」
「………………」
セリフだけ聞けば桃香の態度に対する嫌みかとも思えるが、こんなに嬉しそうに微笑みながら言われれば、嫌みじゃなく本心なのだとわかる。
(別に、そんなんじゃなかったんだけどな……)
桃香的には、日景を信頼していたからではなく、嫌われても別に構わないと思っていたからこそとっていた態度だったのに。
こんな前向きに解釈されていたのか、と思う。
「……相手に嫌われて喜ぶなんて、おかしな人ですね」
とは言え、今更態度を急に変えたりなんて出来ない。
またも嫌みが出てしまう。
「うん、そうかもしれない。よく言われるよ」
だが、気にした様子も無くニコニコニコニコと笑っている。
「………………」
ふと桃香は思う。
さっき廊下で会った時。
桃香の顔を見てすぐにドアを閉められて、桃香は少なからずショックを受けた。
あれはもしかしたら、そういう事なのかもしれない。
桃香が日景を嫌いなのは事実だが、日景が、何を言ってもどんな態度をとっても、どうせ気にせずいつもの様に自分にまとわりついてくるだろうという予想に反して、桃香を否定したと思ったからショックを受けたのだ。
とすると、桃香は無意識のうちに日景の事を信頼し、日景に対して甘えていた、という事になる。
日景に対して気の置けない人、という言い方はしたくないが……。
「…………参ったなぁ」
「え?」
桃香の独り言に日景が不思議そうな顔をする。
「何でもないです」
首を振ってから、桃香がずっと思っていた事を言う。
「夜に……」
「夜に?」
「夜に女の子と一緒に飲む飲み物で、ほうじ茶は無いと思います」
「え、嘘。嫌いだった?」
「歯なんて磨き直せばいいだけですし、中学生はカフェインのせいで眠れない事を気にされる程、子供じゃないです」
「そ、そう? えと、じゃあ、その……ごめん」
少し狼狽えながら謝罪の言葉を述べる。
「けど……。久しぶりに飲むと、ほうじ茶も美味しいですね」
「えぇ!?」
否定されたり、直後に肯定されたり。
コロコロ変わる態度に困惑する日景に、桃香が意地悪そうな笑みを浮かべて言う。
「もっと喜んでくださいよ。相手に嫌われる事を恐れない理不尽な我が儘発言は、気を許した証拠なんですよね?」
「あ」
桃香の言いたい事に気付いた日景は、一瞬キョトンとした後。
「あはははははははは!」
とても嬉しそうに、そして楽しそうに笑い出した。
「ちょっ、他の皆起きちゃいますよ。声抑えて下さい」
「あははは……うん、うん、ごめん……はは」
声は抑えたが、口元の笑みは抑えられていない。
「…………もう」
そこで桃香が立ち上がる。
「あれ?」
もう帰っちゃうの? と口で言わずに表情で日景が訊ねると。
「カップの中、空ですから。新しいの淹れてきます」
そう言って日景と自分の分、二人分のカップを手に取り、ドアの前に立つ。
「両手が塞がって、開けられません」
「あ、あぁ、ごめん。気が利かなくて」
慌ててドアを日景が開ける。
「次はカフェオレにします」
「カフェオレ?」
「はい」
日景と視線を合わせず、桃香が言う。
「カフェイン夜飲むと、眠れなくなるんですよね?」
「うん、そうだね」
「……なら。夜更かししてお喋りするには、最適じゃないですか」
そう言って、慌てて下の階に降りていく桃香。
「…………か、」
(かわええぇぇええ!)
声に出しそうになった所をギリギリ堪え、日景が心の中で歓喜の声を上げる。
それから、二人は他愛も無い話をして夜を過ごした。
話題は主に、学校での生活について。
先生だとか、友達についてだとか。
本当に、中身の無い話。
例えば、携帯のメールについて。
中等部では携帯電話の電源を授業中切っておかないと没収されてしまうから、未だにノートの切れ端でやり取りをしている、だとか。
そんな、どうでもいい様なくだらない話を、延々延々、窓の外が明るくなるまで二人は続けたのだった。