ナイフの代償
彼方から、車輪の音が重く響いて来る。
ぬかるみを登る為だろう。メリッサの待つこの山道に馬車が至るまで、もう少し時がかかりそうだった。
「……やっぱり止めよう、メリッサ」
袖を引く気弱な声。
幼なじみをにらみつけると、メリッサはその脇腹を指先で突いた。
「いてっ」
「やめないよ、テッド」
「わたしはメリッサ・シンドロッド。クリード・シンドロッドの娘なんだもの」
手の内の小さなナイフを両手で握りしめる。ぎゅっと強く力をこめたのは、手の震えをごまかすためだ。
怖いのは最初だけ。きっとやれる、わたしは父の娘なのだから。
……蹄の音が近づいて来る。
「でもメリッサ」
「なに?」
「お前の父さんは言ってたじゃないか。……お前に山賊を継がせないって」
「だったら、誰が村を守るの」
「どうしたって薬が必要なのよ。そのためのお金を、ちょっと分けてもらうだけ」
小さな子どもたちの間に、咳の病が流行っているのだ。
街で薬を手に入れれば、すぐに治る病だ。なのに、その薬代すら捻出できない。そもそも、貨幣を、持っていない。
それもこれも、この世界を支配する『魔法』というものが悪いのだ。
……いつの頃か、この世界に魔法を使う人達が現れた。
人とは違う力を持つ彼らは、国を興してあっという間に世界を変えた。
魔法を持たない者がどんなに抗っても、太刀打ちできるものではなかったのだ。
結局、魔法を使えない人々は、下働きとしてこき使われるか、……支配を嫌って、暗い森に身を隠して生きる事となった。
メリッサの住む集落も、シスレッドの森の奥深くに隠されている。
食料も獣の肉や木の実ばかり、森の外に出るのは奪った金品を売り払いに行く時だけ。外の者に見つからないよう、ひっそりと息を潜めて生活している。
魔法が使えるというだけで大きな顔をしている連中から、ほんの少し分け前をもらったって何がいけないというのか。
突然、馬が嘶いた。
弾かれたように、メリッサは駆け出す。
手にはナイフを握りしめ、俊敏な鹿のように一気に山を下ってゆく。頬を打つ木の枝にも構わない。
「ハアッ!」
かけ声とともに、山道へ一気に踊り出る。
そうして、目を見張った。
「……なんて、きれい」
真っ白に銀の縁取りで、すみずみまで美しい宝石で飾られた、今まで見た事がないような立派な馬車。
その周りを取り囲む衛兵たちも、すばらしく磨かれた立派な鎧を身に着けている。
……ただ。
「待ってよメリッサッ……」
「……テッド」
「あ、あれ、これ、まさか、メリッサがやったの……」
「そんなの、無理に決まってるじゃない!」
誰ひとり、立つ者がいない。
衛兵たちは誰も彼も、打ち伏せられ地に倒れていたのだ。
「何かまずいよメリッサ、逃げようよ」
袖を引くテッドの手を払い、メリッサは歩き出した。
「いやよ! せめて……」
せめて、あの馬車の宝石を、ひとつだけ。
小さいのでいい、そうしたら、子供たちは助かるのだから。
恐ろしい気持ちを奮い立たせ、メリッサは馬車に近づいた。
「……ごめんなさい」
呟きながら、馬車に向かって刃を構えた瞬間だった。
がちゃん。
突然、その扉が開く。
「え?」
雪のような髪が頬にかかったかと思うと、透き通る肌の女性が、メリッサ目がけて倒れ込んで来る。
思わずその身体を抱きしめる。あまりの細さと軽さに、目を見張った。
「しっかりして! 誰か!」
一瞬盗みを忘れて、メリッサは声をあげた。
うっすらと、女性が目を開いた。春の泉のような、淡く美しい青がメリッサを捕らえる。
「……これを」
「なに?」
女性が、メリッサの手を握る。驚くほど強い力に、メリッサは息を飲んだ。
と、同時。
……じわり。
何かが掌を伝って身体の中に入って来る。
ざわざわと背筋が騒ぐ。
これは、怖いものだ。人が手に入れてはならない何かだ。
「やだ……離して!」
掌を払いのけたいのに、身体が動かない。
燃えるような熱をともなって、何かがメリッサの身体へ乗り移った。
ひやりとする感触に、メリッサは目を開けた。
目の前には、見知らぬ男が立っていた。
その蒼く冷たい氷のような瞳が、じっとメリッサを睨みつけている。
首筋に男の剣が当てられていると気づき、ごくりと息を飲む。
「……お前が妃を殺したのか」
「え?」
男の目が、メリッサの胸元を見る。
倒れ込んだ女性が息絶えたと知り、身が凍る。
「ち、違う! わたしじゃない!」
「……」
「本当よ! だって私、宝石をひとつ貰えたら、それで」
ぐい、と、刃が喉を押した。
それ以上言葉を継げずに、メリッサは口を閉じる。
「馬車に乗れ、山賊」
「……わたしが?」
「お前には身代わりとして、アストパースに向かってもらう」
その名を聞いて、メリッサの顔が強ばる。
二大強国と言われるシンシャとアストパース。その二つのうちでも、特に荒事が多いとされるのが、アストパースだった。
特に今の王は戦好きと噂され、中小の国に戦争をしかけては、領土を拡大し続けている。
「い、いや」
「逆らうなら、今ここで死んでもらうだけだ」
冷たく男が言い放った。
「アストパーズに行って、……どうするの」
「何もしなくていい。用があるのはお前ではなく、その石にだからだ」
「石? わたし、まだ何も盗んでない……」
男の手がメリッサに伸びた。
服の前襟を掴み、唐突に引き下げられる。
「やっ……!」
押し広げられた胸元を見て、メリッサは息を止めた。
「なに……これ……」
左右の鎖骨の交わるあたり、胸の上の位置に、空より強く輝く光。
子供の拳ほどもある蒼い宝石が、煌煌と光っている。
手で触れても引っ張っても、その石は引きはがす事ができなかった。
「言っただろう、用があるのはその石だ」
冴え冴えとした声が、メリッサを打ちのめした。
「お前は、ただ生きてさえいればいい。何なら、両手両足が動かなくとも」
大人しく乗らなければ、手足を落とす。
脅しでなくそう言われていると気付いて、メリッサは身震いした。
よろよろと立ち上がると、無言で馬車に乗り込む。
重い音を立てて、外から留め金がかけられた。
ひとつ鞭打つ音とともに、ゆっくりと馬車が動き出す。
小窓から外を覗くと、呆然と立ち尽くすテッドと、目が合った。