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坦々麺の味

作者: 藤田緑

 弟の背中が、自転車のペダルを漕ぐたびに左右に揺れた。片側二車線で交通量の多い国道を一心に走っていく。早くてついて行くのが大変だった。古いママチャリのペダルを踏みこむ度に、はあ、はあ、と息が洩れる。無精をして、タイヤの空気を入れ直してこなかったことを後悔した。弟は、電信柱の横をスピードも落とさず器用に走りぬけ、乳母車を押した若い母親の脇を体すれすれに追い越した。一瞬ひやっとした私は、後ろから母親の横をすいません、と小さく言いながら思わず顔を伏せて通り過ぎた。

 マクドナルドの角で県道に入る。埼玉といってもこの辺りは、賑やかなのは駅周辺や国道だけで、ちょっと道をそれると、田んぼや雑木林が続くのどかな風景となる。観光農園のぶどう棚には白い紙をかぶせたぶどうが無数に吊り下がっているが、まだ狩るのには早いのだろう、ひと気は全くなかった。

 弟の白いTシャツの首周りが汗で濡れていた。その背中も随分大きくなって大人びてきたものだと思う。弟は今年十五歳、市内の私立高校の一年生だった。二十三歳の私とはだいぶ年の差があって、それだけに弟というよりは母親のような目で見て、子供、子供と思っていたのだ。その弟が、八月の夏の盛りのアスファルトを、スポーツタイプの自転車をしゃりしゃりしゃりといわせながら、私の先に立って軽快に走っていく。病院への道を私は知らなかった。

「自転車で飛ばせばすぐだよ。まだわかんねえのかよ」

私が一人では行けないと言うと、弟はわざと乱暴な口調でそう言った。


 その病院は、私の住む町から二つ町を越したところにある総合病院で、三階建ての白亜の壁が美しかった。磨き上げられた大きな窓が、午後の日差しに光っていた。受付のある広々とした待合室にはサーモンピンクのソファにたくさんの人が座っていて、その奥には、白いグランドピアノが一台置かれていた。誰かの生演奏のコンサートが始まるのを待っているかのように、大勢居並んだ人々は心なしか少し微笑んでいるように見えた。そこは、まるで病院のようには見えなかった。

 狭い個室のベッドに横たわった父は、前に来た時よりもいっそう小さくなったように見えた。顔の中では頬骨だけがやけに高々と突き出ていて、顔のその他の部分、頬や唇や高かった鼻や、大きな瞳も、何もかもが骨の間に沈んでしまったようだった。私は思わず目をそらした。

「遅かったじゃない。自転車で来たの?パパのお昼はもう済んだのよ」

ベッドの端に座って、腫れ上がった父の足をさすっていた母が言った。「今日は少し調子がいいみたい」。

「パパ、調子はどう?」

「今調子いいって言っただろう」すかさず弟。

「よお」と弟が父に一声かけると、それで会話は止まってしまった。皆が何かいいそびれた気分で、交わされるはずだった会話が見捨てられ、埃のように宙で舞っていた。


 父が肝臓癌を宣告されたのは、わずか一週間前のことだった。父は長年中堅商社に勤め、ここ数年は鉱物資源の買い付けでオーストラリアや南米など海外を飛び回っていた。数ヶ月に一度しか家に帰らない忙しい生活を送っていたが、最近では出張先から体調不良を訴えてくることが多くなっていた。たまに帰ってくると、そのたびに父は痩せていた。母は医者にかかるよう何度もすすめ、しまいには泣きながら父を説得したが、世界的な鉄鋼資源不足の中で、中堅どころの商社の営業マンだった父は、他社に出遅れまいと死に物狂いで働いていていっこうに聞く耳を持たなかった。仕事一筋に生きてきた父に、家族の心配は最後まで通じなかった。

 ついに倒れた時には余命はわずか二ヶ月となっていた。そして梅雨の初めのある朝、自宅の町から二つほど離れたこの総合病院に入院したのだった。

父の病の話を母から聞いたのは自宅だった。仕事から帰ってシャワーで汗を流し、居間でソファに横たわってテレビを見ていると、夕飯の支度の手を止め、「話があるのよ」と母がソファの私のそばの床に座った。いつも陽気で笑ってばかりいる母の、そんな改まった態度は珍しかった。見合い話でも持ってきたのかな、と私はのんきに考え、ちょっと身構えて母の顔を見た。

「パパのことなんだけど。今日検査結果が出たのよ。私だけ呼ばれて病院に行って聞いてきたの。あなたには先に話しとくわね。パパ、癌なんだって。末期だって。もう手遅れなんだって」

母の言っていることがよく飲み込めなかった。返事をするまでに数十秒はかかった。

「手遅れってどういうこと」

「あと二ヶ月はもつだろうって」

「二ヶ月はもつ?」

医者が言ったという「二ヶ月は」という言葉がひっかかった。

「明日もう一度、家族全員に病状の説明をするから、皆さんで来てくださいって」

 母はそれだけ言って、言葉が出てこない私を置いて台所に戻っていってしまった。私は居間の扉を閉め、テレビのリモコンを押して見ていたお笑い番組を消すと、部屋の電気を落とした。しばらくソファに座って母の話した内容について考えた。痩せ細ってしまう前、弟の少年サッカーのコーチをしていた頃の、元気な父の姿が浮かんだ。片手にサッカーボールを持ち、片手を腰に当てて、父は白い歯を見せて笑っていた。決して名コーチではなかったが、子供たちには好かれる熱血指導者だった。時には指導に熱が入り過ぎて、子供の親から苦情が入ることもあった。それでも、練習が終わると子供たちを連れて町へ行き、全員にカキ氷を食べさせてやるような気前のいい一面もある人だった。

 私はもう一度ソファに寝転がり、今度は横向きになって考えてみた。何だか胸のあたりが息苦しかった。嗚咽がこみ上げてきたが、台所にいる母に聞かれたくなかった。ゴホゴホと咳き込んでごまかそうとしたが、我慢できず、わっと泣き出した。両手を胃の辺りに当てて、身をよじって子供のように泣いた。父のことを家族の誰よりも愛していた。決して口には出せないが、愛しているからこそ十代の頃は反発もしていた。

 二十代になって少し大人になり、父に娘らしく甘えたいと思った頃には、父の方が忙しくて家にいなかった。今さら死ぬと言われてもどうすればいいのか。あの父が目の前からいなくなる。それでもその後自分は普通に生きていけるのだろうか。泣いて泣いて泣きすぎて、これじゃあ父より前に死んでしまう、でもいっそそれもいいじゃないかと思ったが、それぐらいでは死にはせず、次の日にはちゃんと自分のベッドの上で目覚め、仕事に出かけた。


 父の急な病の知らせを受けて、父の実家のある山形からは親戚が大挙して押し寄せてきた。誰もが興奮して、喋る度に頬がひきつったように歪んだ。実際それは月並みな言葉で言えば「お祭り騒ぎ」だった。あと二ヶ月で死んでいく予定の人間を前にすると、日頃はどんなに冷静な人間でも、どう対応していいのかわからず、すっかり舞い上がってしまうらしかった。

 家族で話し合って、告知をしないことに決めていたので、押し寄せてきた親戚を病室に入れる際の打ち合わせは慎重に行われた。まず第一に、本人には単なる肝硬変だが治療すればすぐ直るから心配しないように、と言ってあるということ。第二に、大勢でいっぺんに田舎から出てきたことを知られないように少人数で対面すること。第三に、新幹線の最終に間に合わなかったので、慌てて夜行に飛び乗ったなどと言わず、東京見物のついでにゆっくり病院に到着したのだと思わせること。最後に、これが一番重要なのだが、絶対に本人の前で泣いたりしないこと。

 まず父の一番下の妹が病室に入った。そして父の顔を見るなり泣き出した。父はゆっくりと痩せ細った右手を挙げて「おお。久しぶりだな」とかすれた声で言った。田舎に帰るたびに兄さん、兄さんと呼んで嬉しそうにしていた叔母は、この時も「兄さん」と一言ったきり声にならず、耐えられなくなって小走りに病室を出て行ってしまった。遠くからわざわざ出てきてくれた妹を一瞬で見送って、父の黒目がちな大きな瞳がほんの一瞬動いた。

 次に病室に入った三番目の弟は、広島カープの野球帽をかぶっていた。急病を患った兄に久しぶりに会うには、およそ似つかわしくない帽子だった。着ているシャツは白い花模様のとんだレモンイエローのアロハ。そのとんでもないコーディネートが、叔父の動転ぶりをあらわしていた。叔父は父を見るなり、早口の山形弁でつばを飛ばしながら喋りだした。新幹線の最終に間に合わなくて、仕方なく飛び乗った夜行列車を早朝に降りたこと。上野駅ではJR高崎線の下りホームがわからずに、広い構内を人にぶつかりながら汗だくになって駆け回ったこと。叔父の後ろでは叔父の妻が目にハンカチを当てながらいちいち相づちを打った。母と私は顔を見合わせた。

 次に入ったのは父のいとこの女性と、その子供たちだった。いとこが子供まで連れて駆けつけてくること自体、かなり大げさで不自然なことと思われた。いとこの女性は、沈黙する父を前に子供の頃の思い出話を始め、父と最上川で遊んだことや、小学校の時泳ぎを教えてもらったこと、夏休みに一緒に海水浴に行って、父が溺れて大騒ぎになった話などをして、時々涙ぐんだり、ヒステリックに笑ったりした。

「あの時は、よっちゃんだば、死んでしまったかと思ったもんだ」と言ってから、しまったという顔で急に口をつぐんで、後は黙って父の顔を見下ろしていた。

 最後に病室に入った父のすぐ下の弟だけは、私たちとの約束を忠実に実行し、落ち着き払って、「思ったより元気そうでねえか。医者の言う通りにしてればすぐ直るもんだ」と父を励ました。そこまでは良かったのだが、これから東京タワーと両国の江戸博物館に行くのだ、東京に来る機会があれば是非寄ってみたいと思っていたのでいい機会だ、と言ってふいに涙ぐんだ。涙ぐむタイミングではなかった。私はやれやれとため息をついた。

 親戚がみな帰ってしまった後の妙に中途半端な静寂の中で、そっと父の顔を盗み見ると、父は何を考えているのか、黙って天井を見つめていた。元気な頃はビールでぷっくり膨れた中年太りの腹を突き出していたが、今は痩せ細った体の中で、下腹だけが腹水で腫れあがり、布団を被っていてもそこだけ盛り上がって見えた。むっちりと肉の張っていた肩が、今は腰の幅ほどにしかない。両肩をぐっとそびやかし、伸ばした両腕はぴったり体につけられていた。直立不動をした兵隊のようだった。

「みんな、昼は食べたのか?」しぼり出すように父が言った。

「まだよ」

「下の食堂に行ったら」

ずいぶんゆっくりとした、そっとした言い方だった。何だか私たちをいたわろうとしているかのような口調だった。


 病院の一階にある食堂には「あすなろ」という看板がかかっていた。食堂の入り口にあるウインドウには、作り物のメニューがずらりと並んでいる。入院患者の見舞いにきた人々や、時折は軽症の患者なども食べに来るらしく、昼時の明るい店内は賑わっていた。母と私と弟三人は、窓際の丸テーブルに腰を下ろした。

「ここは坦々麺がおいしいらしいのよ。昨日隣の個室の方の奥さんに教えてもらったの」と母が言った。「ここの人気メニューで、よく食べにくるんだって」。

 隣の個室の患者さんは確か六十歳くらいで、何かの末期癌だった。父と同じく余命はいくばくもないだろう。そんな人の奥さんが、しょっちゅうここに坦々麺を食べに来ていた。私は二、三度見かけたことのある奥さんの穏やかな横顔を思い出した。辛い坦々麺を食べて汗だくになって、三階のご主人の個室に戻っていく奥さんを想像した。

「何にする?」

「そう言われちゃ坦々麺でしょ」

「それじゃあ坦々麺三つ」

私は店員に母と弟と私の分を注文した。エプロンをかけた店員たちが忙しそうに立ち働いていた。外は三十度を超す暑さで、病院前の広い駐車場いっぱいに停まった車の屋根が、強い日差しを受けて光っているのが見えた。厨房から食器の触れ合うかちゃかちゃというかすかな音が聞こえてくる。隣のテーブルでは、小さな子供を二人連れた家族が、何がおかしいのか笑いあっていた。強めに効いた冷房が心地良かった。ここには涼しさと食べ物の匂いと適度な活気がある。私は生き返ったような気持ちになって深く息を吸い込んだ。

 坦々麺が運ばれてきた。白い椀のふちいっぱいまで赤い汁が入って今にもこぼれそうなのが見えた。それを店員の女性はひとつひとつ注意深くテーブルに降ろしていく。

「これが噂の坦々麺かあ」

弟は湯気の中で嬉しそうに顔をほころばせた。太い平打ち麺の上に山椒の香りがするひき肉がどっさりのっていて、そのまわりを青梗菜の緑が彩りよく囲っていた。ゴマ風味の濃厚な汁は思ったより辛くて、ハンカチで汗を拭いながら私たちは夢中になって食べた。途中で二度も水をおかわりした。

「おいしいわね。これほんとにおいしいわね」

「うまいな、この坦々麺」

「辛い。暑いよ」

母と弟は何度も繰り返している。麺を食べ終わると椀を抱えて汁まで飲み干し、はあ、と三人でため息をついた。

「ああ、おいしかった」

「病院の食堂でこんなおいしいものが食べられるなんてね」

「パパはこれ食べられなくてかわいそうね」

そう言ってしまってから、何だか妙な気持ちになって口をつぐんだ。三階の小さな病室で、じっと天井を見つめて横たわる父の姿が目に浮かんだ。父はすでに食事を自分でとることもできない状態だった。もう湯気の出る熱いラーメンを、ふうふう言いながらすするなんてことは絶対に不可能なのだった。そういう人間が、同じ病院内の私たちのすぐ近くにいて、それを承知していながら、私たちは親子三人で冷房の効いた食堂で思う存分坦々麺を楽しんでいる。食べている間は罪悪感など微塵も感じなかった。それでも妙に喉の奥がつんと痛くなってきて母や弟の顔を見ると、二人とも同じ困ったような顔をして、母は窓の外を、弟は空になった坦々麺の白い器の底を、探し物でもするかのように熱心に眺めているのだった。


 仕事以外ではほとんど外出することもなく、友達も少なく、ボーイフレンドもいない退屈なOLだった私は、いつも暇をもてあましていた。職場は都内だったので、毎朝一時間半もかけて満員の通勤電車に揺られていった。会社に辿り着く頃にはへとへとだった。文具関係の卸をやっている会社の経理部門が私の職場だ。特に残業もなく、仕事が終わると家に直行する毎日だったが、父が入院して一ヵ月ほど経った頃から、家族交代で徹夜の付き添い看護をすることになった。総合病院なので基本は完全看護だが、夜は人手が足らず身の回りの世話などあるのでお願いしたいと、病院側に言われたのだ。死期が近いということもあり、少しでも父の傍にいたいと母が承諾し、母と私、弟の三人で三日に一度は病院で夜を明かすことになった。

 仕事をしながら三日に一度の徹夜は辛かった。高校生の弟にとっても辛いに違いなかったが、男の自分がここで頑張らねばと、口には出さないまでも、心労が続く母を気遣ってすすんで徹夜の看病に出かけた。そんなやけにしっかりとしてきた弟の姿を横目で見ながら、私は一人気が重かった。

 職場ではたわいのないことでよく笑った。隣の席の五歳年上の先輩には、「箸が転がってもおかしい年頃なんだよね」と言われた。「そうなんですよ」と笑いながら、みぞおちの辺りがちくちくしてくるのを感じた。父に対してどんな風に向き合えばいいのかを考えていた。父に悟られない程度にさりげなく、我がままだったこれまでの自分のことを謝りたいと思ったり、いや、それよりもひたすら励まし、直ってからの楽しみについて語らなくてはと思ったり、でももう話しなんてしたくない、このまま逃げて忘れてしまいたいと思ったり、どうしたらいいかおろおろと、全く態度が決まらないのだった。

 明日の着替えや洗面具を入れたバッグを会社帰りに駅のコインロッカーから引っ張りだし、電車に乗った。都内の隙間なくビルが屹立する風景が、埼玉に入るとやがて住宅が切れ目なく続く風景に代わる。所々に公園の緑がちらりとよぎると、再び住宅とマンションが現れ、延々とそれが繰り返される。こんなにもたくさんの人が住んでいる、こんなにもたくさんの人の普通の生活がここにあるのに、私たちは一瞬でその前を通り過ぎていく。一度も止まることもなく、自分はただ通り過ぎてきた。しかも何百、いやざっと頭の中で計算してみるとおそらく何千回だ。今まで何か見落としてきたものがあるような気がして、焦りに似た気持ちが湧き上がってきた。普段降りる自宅の駅の二つ先まで行って降りた。父の看病に行くのを避けたい自分を発見して、私は暗い気持ちになった。

ナースステーションの前で二人の看護婦さんに「よろしくお願いします」と頭を下げると、若い看護婦さんの方が、

「よろしくお願いします。何かあったらすぐ呼んでくださいね」

とこちらを励ますようににっこりと笑った。彼女は、以前見舞いに来た時もいて、父の排泄の世話をしてくれていた。父が看護婦さんに何か言うと、看護婦さんはてきぱきとカーテンを引いてベッドを囲った。個室なのでその必要はないように感じて私はとまどった。ここに立って待っていていいのか、外に出るべきなのか迷っていた。再び父が彼女に何か言うと、看護婦さんが私に近づいてきて、

「外に出て待っていてください」

再びてきぱきと言う。私は慌てて外に出て扉を閉めた。父は排泄というごく個人的な行為を介助してもらうのに、娘である私ではなく他人である看護婦さんを選んだ。父に助けてくれと言われて、私がそれをできるかどうかと言われると、恥ずかしさもあって自信がなかったが、実際に「出てくれ」と言われてみると何だか傷ついた。私では頼りないと思われたのか、父が他人行儀なのか。目の前でピシャッとシャッターが閉じられたような驚きと空虚さを抱えて、私は所在なく廊下に置かれた長椅子に座っていた。あの看護婦さんが、最後の日も看てくれるのだろうか。そんな日がやがてやってくることが現実とは思えなかった。

父は眠っているように見えた。

「パパ、今日はあたしだからね」

こんにちはでも、こんばんはでもない、言葉を探しあぐねて曖昧な言葉をかけると、どうやら眠っていたのではなかったと見えて、父がうっすらと目を開けた。

「祥子か」

「うん、パパ何をしようか」

「足をさすって欲しい」

肝臓癌の末期症状で、父の足はぱんぱんにむくんでいた。私は椅子を足元に引き寄せ、寝巻きの裾をまくった。紙のように白い足だった。父の足はこんなに白かったかしらと思う。黒いすね毛がやけに目立った。膝から下は太ももとちょうど同じくらいの太さになっていた。母がやっていたのを思い出しながら、父の足をさすった。多少の力では父は何も感じないようだった。腕に力をこめて一生懸命にさすった。しかし父の表情は変わらなかった。十分ほどして私はすっかり疲れてしまった。

「あたし疲れちゃったパパ」

そう言って椅子に寄りかかった。足をさするのは止めてしまっていた。この期に及んで、まだ我がままを言っている。そんな自分に心底呆れた。ただ私は反応が欲しかった。何かのきっかけが欲しかったのだ。

「どうしたらいい?」

「もういいよ」

父の優しい声にひるんだ。黙って大きな瞳で天井を見つめている。でも見ていたのは天井ではなく、もっと遠い別の世界だった。その世界とこっちの世界の重さと軽さを、ベッドの上で測っているようだった。自分がどちらを選べばいいかを決めかねているようだった。私は諦め、ああ父はもう逝ってしまうのだろう、私を置いて、と眠くなっていく意識の中で考えていた。そしてそのまま、持参した膝掛けを肩に引っ張り上げ、眠ってしまった。

 気がつくと朝になっていた。父の変わらぬ痩せた姿が前の晩と同じようにそこにあった。結局何もしなかったのだ。父は私を夜中に起こしもしなかった。看護婦さんと目を合わせられなくて、声をかけられるのが恐くて、走るようにしてナースステーションの前を通り過ぎた。病院の外に出ると、真夏の朝七時の暑気を含んだむっとする空気が私を包んだ。


 そのイラン人の青年に会ったのは、私にとっては二回目の徹夜の付き添いとなる日の、金曜日の夜だった。私の会社は目黒駅にあって、前回のように駅前のコインロッカーに放り込んであるバッグを取り出すと山手線に乗り、JR埼京線の接続のある新宿駅で乗り換えようと思っていた。

 会社帰りの人々で車内は混んでいたが、朝のラッシュほどではない。原宿駅で乗り降りするサラリーマンや学生、めかしこんだ女の子たちを見ているうちに、以前から所属しているNPO団体のことを思い出した。パレスチナ人を支援する市民団体で、学生時代から時折バザーや講演会の手伝いに出かけ、気が向くと新大久保にある事務所の勉強会などにも出席していた。子供の頃から中近東に憧れを持っていた私は、大学時代に講義やゼミなどで中近東史を選択し、パレスチナの歴史など、きらびやかなだけではない中近東の負の部分を知った。ある日新聞で見たパレスチナの子供の写真に惹かれ、そこに添えられていた名前で、パレスチナを支援するNPO団体の存在を知り、若さに任せて飛び込んだのだった。  

 所属しているボランティアは、私と同世代の二十代の人たちが多かった。無性に彼らと話がしたくなってきた。パレスチナの話だって何だっていい。久しぶりに寄っていこうか。病院に着くのは少し遅くなったっていいだろう。新宿駅でそのままやり過ごし、一つ先の新大久保駅で電車を降りた。

 駅を出て右に曲がり、短いトンネルをくぐって線路伝いに歩く。再びトンネルの前で左に折れるとそこは薄暗い通りで、小さな怪しげなホテルが並ぶ一角になっている。街灯の下に、濃い化粧でミニスカートの女性が一人立っていって、会社帰りのサラリーマンらしき男性を呼び止めて何やら話しかけている。その横をOL風の女性たちが何気ない顔で通り過ぎて行く。見慣れぬと躊躇してしまうが、ここでは日常的な光景だ。細い路地に入ると、錆びた外階段のついた鉄筋のアパートがある。その二階が事務所になっていた。

「こんにちは」

扉を開けて中に入った。平日だが金曜日の夜なので、毎週ボランティア数人が集まるはずだった。しかしまだ時間が早いのか、部屋にいたのは会の事務いっさいを取り仕切っている女性が一人と、見慣れぬ男性の二人だけだった。

「あー、こんにちは」

二人はほぼ同時に言って、男性の方が立ち上がった。

「久しぶりね。この方はアリーさん。イランの人」

事務の伊藤さんが立ち上がった男性を紹介する。イランの人?男性は二十代後半くらい。部屋の中なのに帽子を被ったままだ。頭部の真ん中がへこんで、大きなつばのあるカウボーイハットだ。ジョン・レノンのような銀の丸眼鏡の奥で小さな目がせわしくなく瞬きをしていた。ピンクのTシャツの裾をぴちぴちのブルージーンズの中に入れている。全体的に肉付きがよく、服から肉がはみ出していた。ワンサイズ下の服をわざと選んで着ているようだった。私は慌てて自己紹介した。

「初めて会うね。僕はイランから来たけど今はほとんど日本人。板橋区に住んでるの。時々ここに手伝いに来てるの」

ものすごく早口の日本語だったので、今言われたことをちゃんと理解できたかどうか頭の中で反芻しなければならなかった。彼の日本語はうまいのか下手なのかまるでわからなかった。その甲高い声は、ぴちぴちの姿と相まって、妙にせつなく響いた。

「ちょうどいいとこに来てくれた。明日の午後の講演会で配る参考資料を作ったんだけど、コピーしたり準備があるから手伝ってくれる? アリーさんと二人でやろうと思ってたの」

伊藤さんが何枚かのA4判の紙を机の上に並べはじめた。それを一枚につき五十枚ほどコピーして、より分けてセットにするのだ。会が講演会を行う前日には必ず発生する作業だった。私たちは早速コピー機の前に並んでかちゃかちゃとやりだした。アリーさんはこういう作業にはあまり慣れていないらしく、そわそわと首や手を動かして机とコピー機の前を行ったり来たりしながら、その実ほとんど何もやってないのだった。ひどく落ち着きのない人だった。

「僕は最近毎日来てるけど、初めて会うね。仕事が六時までだから終わったらすぐ来るのよ。先週のバザーにも行ったよ。先週の日曜日は暑かったよねー。僕たちみんなバテちゃって、水がぶがぶ飲んで、お客さん少なくてあんまし売れなかったし、やっぱし真夏はだめよねー」

ちょっと女言葉が入っていた。女言葉の早口で、せわしなく動いて喋り続ける。私に返事をする隙も与えないのだった。コピー機のブオーンという唸り声とアリーさんの声で、狭い事務所内はまるでどこかの下町の鉄工所のような賑やかな騒音に包まれていた。コピー機一台と人間一人で、こんなにも騒々しくなれるとは驚きだった。だがこれだけ喋り続ける人がいた割には、あっという間に作業は終わってしまった。八時半になっていた。今日は他に誰も来そうになかった。

「そろそろ帰ろうかな」

がっかりした気持ちをなるべく声に出さないように気をつけながら言った。

「帰るの?じゃ、僕も帰る」

アリーさんも帰り支度を始めたので、もう少し残ってやることがあるという伊藤さんに挨拶をして二人で事務所を出た。小雨が降り出していた。霧吹きで吹いたような雨が肌に当たっている。大久保通りを歩くと既に週末の夜の賑わいで、韓国語や中国語、中南米など様々な言語が聞こえてくる。焼肉屋さんからおいしそうな匂いが漂ってきた。

「もう帰る?急ぐ?僕少し遊んで行こうと思うんだけど、今日金曜日でしょ。明日休みだし。良かったら祥子さん、一緒に行かない。大丈夫これはデートじゃないよ。会の人たちにはそういうのなし。安心して」

私はふいをつかれたが、今日はだめなの。大事な用事があって、と言いかけて口をつぐんだ。じっと天井を見つめる父の瞳を思い出した。父はいつも私を愛してくれていると勝手に思い込んでいたのだが、その父はもう、私のことなどほとんど眼中にないように見えた。もうだめだ、そう思い、自分でもびっくりするくらい大きな声で言っていた。

「いいよ。初めて会う人と遊びに行ったことないけど。アリーさんならいいよ。信用するよ。どこに行く?」

「それじゃあ隣の駅だから新宿。祥子さんディスコ行ったことある?僕いいとこ知ってる」

「ええ、ディスコ?」

思わず笑ってしまった。アリーさんのぴちぴちの姿と、ディスコというのを結びつけて考えづらかった。でもいいでしょう。この際どこへでも行きます。私は洗面用具や着替えでふくれたバッグを肩にずりあげ、口ばかりか足も早い、奇妙なイラン人の後を小走りで追いかけた。

 新宿歌舞伎町のコマ劇場のある広場に面して、映画館やファーストフード店に混じって建つ七階建ての細長いビルに私たちは入った。狭いエレベーターに大勢で乗り込み、アリーさんとくっつき合っていると、いったい自分は何をやっているのだろうと少し後悔して、たちまち湧いてきた父の幻影を無理矢理に頭から追い払った。考えても無駄だった。私が何をしようと、父はいなくなってしまうのだ。半分やけを起こしていた。エレベーターの扉が開いたと同時に流行りのユーロビートの、みぞおち当たりにずしんと響きわたるような轟音に包まれた。アリーさんに背中を押される。中央のステージでは大勢のティーンエイジャーが踊っていた。

 私たちはステージ近くの薄暗いテーブル席についた。二人でカクテルを飲んでピザを食べ、ふやけたスパゲティを食べて、大声でどなるように話した。時々彼の甲高い声は轟音にかき消された。台風の強風で所々会話が吹き飛ばされているみたいだった。私はおかしくなり、意味もなくけたけたと笑った。私が笑うとアリーさんもつられて笑った。時々ステージに上がって二人で踊った。アリーさんは目立っていた。特に彼が絶対取らないカウボーイハットは、人がぶつかり合うような混雑したステージではほとんど邪魔とも言えた。何人かの人が非難の目で彼の帽子をちらりと見たが、アリーさんは平気だった。

「何の仕事してるの?」

耳に口を近づけて、精一杯の大声を張り上げた。

「建設業だよ」

アリーさんがウインクする。これ以上のまともな会話は無理だった。そろそろ十一時をまわっていた。病院へ行くには十一時台の終電に乗らなければならない。でももう私はどうでもいい気分だった。私たちは歌舞伎町を出て西新宿の方へ向かい、ぶらぶらと都庁を過ぎ、新宿中央公園へと歩いていった。

「最近イランから働きに来る人多いけど、ちゃんとお給料もらえてるの?」

出稼ぎ外国人の暮らしが前から気になっていたので聞いてみた。

「うん、お給料はちゃんとくれるよ。現場仕事はきついけど、社長さんにはすごくお世話になってる。社長さんがビザも取ってくれる。それももうすぐ切れるけどね」

「切れたらどうするの」

「わっかんないよー。イランにはまだ帰りたくないよ。でもビザが切れてもまだいたら、不法滞在になっちゃう。ポリスに捕まっちゃうよー。僕ポリス嫌い」

日本とイランとは一九七〇年代に相互ビザ免除協定が結ばれ、イラン・イラク戦争停戦後、イランの若者が職を求めて大勢日本にやってきた。しかしビザ免除協定も一九九二年には廃止になったと確か新聞で読んだことがあった。今は一九九三年だから昨年のことだ。それでも日本に残りたいとなると、ややこしいビザの問題に悩まされることになるらしい。私は上野の露店街の暗がりに立って、偽造テレホンカードを売るイラン人たちを思い出した。彼らは日本の暴力団からさぞかし脅されて利益を吸い取られているに違いなかった。

「日本人はあんまり親切じゃないでしょ。暮らしにくいでしょ。いじわるされるでしょ」

思わず口をついて出た。

「そんなことないよ。悪い人もいるけどいい人もいる。それはイランも同じね。最初に働いた会社には騙された。三ヶ月働いたけど急に仕事がないって言われてくびになったよ。お金は約束の半分しかもらえなかった。僕泣いたよ。家族に日本でいっぱい稼いで送るって約束したよ。その約束守れない。知らない外国でお金もない。住むとこなくなって公園のベンチで寝たこともあるよ。あの時ポリスに捕まってたらイランに帰されてたよ。今の社長さんはちょーいい人よ。奥さんも優しくしてくれるよ。僕は今最高に楽しい。戦争に行ったからね。イラン・イラク戦争、知ってるでしょ。ついこの前よ。僕は南のフーゼスターン州ってとこで二年間戦争したよ。地獄よ。だから今は嬉しい。何があっても死なないからね。何てったって日本のライフスタイルが好き。食べたいものは何でもあるし、お店もいっぱい。コンビニもあるし、テレビもおもしろい」

「テレビ?」

「そう。僕日本のトレンディドラマだーい好き」

ひときわ高い声でアリーさんが言う。日本の女優では特に観月ありさがお気に入りなのだそうだ。

「そう、観月ありさちょーかわいい。最高ねー」

何だかバカバカしくなってきた。戦争に行った人とは思えなかった。うちの父だって病院で死にかけているのだ。

「戦争はどうだった?怪我しなかったの」

「少し怪我したけど大したことない。石油が出るような砂漠の暑いとこだから大変だったよ。食べ物もなかったよ。テヘランで一緒のアパートだった友達が死んだ。手榴弾持って戦車に飛び込んだの。彼は粉々になった。十代の子とかもいっぱい飛び込んでいったよ。アッラーって言いいながらね。死のうと思ったら人は死んでしまうよ。当たり前だけど。ジハードっていって神様のための戦いだから、死ぬと殉教だって褒められるのよ。日本にもあるよねカミカゼ。でも僕には戦車に飛び込む勇気なんてなかったから生きてた。僕は褒められなくてもよかった。生きてママのところに帰りたかったよ。死んで天国に行かなくてもいいよ。今が天国だから。日本は天国よ」

今が天国。このところ毎日死について考えていた私にとっては、遠い過去から響いてくるような言葉だった。私にだって、毎日楽しいと思いながら暮らしていた時期があったのだ。

「パレスチナ支援の会にはどうして入ったの。イラン人もパレスチナに関心あるの?」

「そりゃあいっぱい関心あるよ。イランはずっとアメリカにいじめられてきたね。アメリカはイラクに武器援助してた。その武器でイラン人大勢死んだよ。パレスチナもイスラエルにいじめられてる。アメリカはイスラエルを援助してる。アメリカのバカヤロー、おたんこなすー」

現場の仕事仲間が面白がって教えた言葉らしかった。ちょうど中央公園の入り口に着いたところだった。アリーさんの絶叫が公園の周囲のビル群にこだました。アメリカまでは届かないから安心だ。公園のナイヤガラの滝と呼ばれる滝の前は広場になっていた。その四十メートルほどの滝の前で、今度は私が絶叫した。

「パパ、勝手に先に黙って行かないでよー。パパのおたんこなすー」

木の影にダンボールを敷いて寝ていたホームレスのおじさんが、驚いてむっくり起き上がった。

「パパはどこに行ったの?」

「ん、まだどこにも行ってないけど、これから行くの。あたしもパパと一緒に行ってしまいたい気分。でもその前にパレスチナに行きたいな。イランにも。彼氏も欲しいし、おいしいものいっぱい食べたいし、やりたいこといっぱいあるんだけど、パパの方が大事なの。あたしどうしよー」

最後の方は泣き笑いだった。

「何でも大きい声で言えばいいよ。夜中だから大丈夫。人に迷惑かけない。言いたいことがあるんでしょ。祥子さんの悩み、僕の悩み、ぜーんぶ言おうよ」

もう終電はなくなったので、私たちは朝まで公園にいることにした。それから、私は自分の身辺のありとあらゆる愚痴を叫びまくった。アリーさんも騙された会社の愚痴やアメリカの悪口、イランの現政権への愚痴など、ここでしか言えないことを叫びまくっていた。時々それに観月ありさへの熱烈な思いが混じった。たまにアリーさんのカウボーイハットが後ろに飛んで、すっかり禿げ上がった頭がむき出しになった。すると急に真顔になって慌てて帽子を拾うのだった。その様子が何だかおかしくて私はげらげら笑った。そして時々「パパ、パパ」と暗闇に向かって叫んだ。三歳の子供に戻ったようだったが、不思議に恥ずかしくはなかった。

 アリーさんのおどけた姿を見ていると、久しぶりに開放的な気分になれた。自分が最低なことをしているのは知っている。瀕死の父を病院に一人置いたまま、こんなところで遊んでいるのだから。でも今はどうしようもない。大声を出しながら知ったのは、ああ少なくとも今、自分は生きているんだなということだった。私は生きているし悩んでいるし、ここにいるアリーさんも同じだ。死んでいく人と自分たちとのそこが違いなのだ。死んでいく父と向き合って、愚痴やら懺悔やらではなく、ありがとうと言わなくてはならない。一緒に行くのはやめて、送り出して、そして生きていくのだ。辛くても、そうしなければならなかった。

叫び疲れると、私たちは広場の植え込みの低い塀に座って話をした。イランでの生活の話をたくさん聞いた。十代の頃の生活のこと、友達のこと、戦争のこと。アリーさんの両親や兄弟のこと、宗教について。自分のことは話したかったがやめてしまった。彼も尋ねなかった。

 早朝の白い光が広場に降りてきて、お互いの顔がよく見えるようになった。アリーさんは目の周りに少し皺が寄っていたが元気そうに見えた。私もぐったりして疲れてはいたが、頭は冴えていた。うつろだった体に気力が戻ってきたように感じて少し嬉しくなった。

「ありがとう」

「なーにーがー?僕が誘ったのよ」

アリーさんがおどけて言い、私たちはまた声を合わせて笑い、そして始発に乗るために、朝五時の柔らかい光の中を歩き出した。


 平日の仕事の帰りに病院に行くと、たいがい母が来ていた。弟も揃った時は、遅くまで開いている一階の食堂「あすなろ」で、三人で坦々麺を食べた。父に悪いと思いつつも、これはどうしてもやめられなかった。半分坦々麺を楽しみに来てるんじゃないかと自分を疑うくらいだ。湯気の中から顔を上げると、病室の隣の奥さんが、奥のテーブルで坦々麺を食べているのが見えた。軽く会釈をすると、奥さんは照れたようにふいに頬を染めた。その様子を見て、私たちも何だか照れ臭くなってきて、みなで声を揃えてハハハと短く笑った。

 食べ終わると一人がそのまま残って、ラー油の浮いた口を拭いながら徹夜看病のために父の病室へ向かった。人間というのはおかしなものだと思う。「死」のすぐ近くで、生きていく行為をどうしてもやめられないのだ。十年以上経った今でも、あの父の死を待つ苦しい二ヶ月間を思い出す時、まず浮かんでくるのは「あすなろ」の坦々麺の味だ。ぐずぐず泣き、暗く押しつぶされたような日々だったはずなのに、その首をうなだれた小さな私自身の映像の傍らには必ず、家族で食べた坦々麺が一緒に湯気をたたえて浮かんでいる。何て不謹慎なのだろうと自分に驚かずにはいられない。でもそれでいいのだと思う。そうやって生きていくことにためらいは感じていない。

 土日には弟と私で相変わらず自転車で病院へ向かった。弟の走りは益々速度が増して、私はついていくのがやっとだった。一度そのことで病室で文句を言うと、父が帰り際に「ゆっくりね」と弟に言った。それが父から聞いた最後の言葉になった。最後の一週間は昏睡状態で、話は全くできなくなった。私はありがとうを言うチャンスを永久に失った。何か思い立った時には大抵手遅れなのだ。死ぬ時になって、急に感動的に振舞おうとしても、そんなチャンスすら神様は与えてくれない。私の日頃の行いの悪さのせいかもしれない。仕方がない。いずれにせよ、父に何も言えなかったことを私は後悔してはいない。


 その日は、八月下旬の、立秋を過ぎたというのに三十度を超す暑さが続く朝だった。私はいつものように八時少し前の通勤電車に乗って、普段通り出勤した。始業五分前に自分の机の前に滑り込み、ほっと息をつく。「あー暑い暑い」「今日も暑いねー」始業前の女子社員たちのざわめきが室内に響く。始業前だというのに電話が鳴って、新入社員の男性が慌てて取ると、少し首をかしげるようにして私を見た。

「おうちの方からお電話です。たぶん弟さん」

心臓がひとつどくんと音を立てた。答えることができずに、私は男性社員の若々しい顔を見つめた。

「どうします?」

机の周囲二、三人が、おしゃべりをやめて私を見ていた。回線の番号を聞いて受話器を取った。指先が少し震えた。

「はい?」

「ねえちゃん、パパ死んじゃったよ」

いつもの声よりだいぶ低く、最後の方はビブラートがかかったように震えていた。たった二秒間ほどの言葉なのに、弟の声の震えがいつまでも耳に残った。私は受話器を握ったまま椅子に座り込み、またすぐに立ち上がった。

「うん、わかった。すぐ行く」

短く上司に事情を説明して、バッグを持って外に駆け出した。ラッシュを過ぎた電車は空いていた。東京のビルは灰色に沈んでいて、それがやがて埼玉に入ると住宅街と緑の風景に変わる。マンションのベランダにカラフルな洗濯物がはためいていた。よく見ると、何軒もの家やマンションのベランダで洗濯物が風にはためいているのだった。今日は洗濯日和なんだな、と私は思った。これが父の死んだ日の風景だ。


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