別れ際に、スターチスの花束を。
死にたい死にたいと不幸自慢をしていた彼が、先日本当に飛び降りたらしい。
どうやらきっかけは僕の「死ねばいいじゃないか」という一言らしい。あまりにも五月蠅くて煩わしかったから口から出まかせで言ってしまったその言葉は、どうにも彼を突き動かしてしまったのだと。
罪悪感はなかった。
いずれ死ぬのだろうと思っていたから。
まだ死に損なったのだろう、と渇いた笑いを零して何も言えなくなった。
結局彼は死んだのだと、友人からのメールの文末に書いてあって。
病院で、愛する彼女に看取られて死んだのだから、本望だろうと思った。
そのメールには葬儀の日付も書いてあって、「了解」とだけ返してベッドに潜った。
酷く眠かったのだ、何故か。
僕の心のもやを振り払うように瞳を閉じると、いつの間にか眠っていた。
彼が死んだ世界は、何一つ変わらず朝を告げる。
いつものように目覚ましのけたたましい音で起きて、慣れないベッドから降りて、いつものように洗面所で顔を洗った。
顔を拭いて眼鏡をかけて、キッチンへと歩く。机の上におきっぱなしの携帯を見て、また彼からけたたましい“死にたいメール”が届いてるのか、と苦笑しながら手にとって、そして動きを止めた。
もう、彼は動けないのに。
この銀色の携帯が、彼のメールを受信することは無くて。
僕は銀色の携帯を見ないようにかばんへ押し込むと、味のしない朝食を胃袋に詰め込んで家を出た。
電車に揺られて、誰とも会話せずに仕事をこなし、家に帰って。
一日ずっと見なかった携帯のメールボックスは、一通しか届いてなくて、その一通さえも友人からの返事で少しだけ泣いた。
僕は彼が嫌いだった。好きではない程度に。
親が決めたことではあっても、一途で綺麗な許婚が居て、財閥家の跡取り息子のエリート街道まっしぐらで生活にも困ることは無いだろう。
そんな彼が死にたいなどとのたまう意味が分からない。
だから彼が嫌いだった。
非道い男だったから。
葬儀の日になった。
いつものように目覚ましのけたたましい音で起きて、慣れないベッドから降りて、いつものように洗面所で顔を洗った。
顔を拭いて眼鏡をかけ、キッチンへ歩く。机の上に置きっぱなしの携帯を見て、それをかばんに詰め込んだ。
この銀色の携帯を、彼の棺に納めるつもりだ。
どうせ数人のメールアドレスしか入ってないし、もう彼のことは思い出したくないのだ。そもそも、死んだ後も嫌いなやつの顔なぞに後ろ髪を引かれるのだけはごめんだ。
いつものようにパンを焼いてスクランブルエッグを作って、皿に移さずそのまま食した。口の中が熱かったのでやけどしたようだけど、あんまり気にならなかったし何も思わなかった。
真っ黒なスーツを着て家を出て、いつもと違う電車に乗り込んで揺られた。
いつもと違う電車の中は、がらんどうで音一つ無かった。僕はただ無心でイヤホンを耳にあてて、その静寂から逃げるように、何も考えまいと音の海に耽った。
一人だとたくさんのことを考えてしまいそうで、不安で。
会場まではずっとイヤホンを付けて歩いた。
会場には僕以外にも喪服を着た人が沢山居て、ああ彼は本当に愛されてたんだな、と身をもって実感しった。
本当、馬鹿な男だ。
モノクロの会場の、一番後ろのパイプ椅子に腰掛けた。前の席では、親族の大人たちがさめざめと泣いていた。
中でも一番泣いていたのは、ずっとずっと彼に一途に尽くしていた許婚の彼女だった。
「来てくださって、……有難う、ございます」
どうやら彼女の中では、僕は彼の良き親しい友となっているらしい。僕の姿を見つけると、重い足取りでふらふらと僕の元へ寄ってきて、深く頭を下げてそういった。
目元は赤く、声も涙が滲んでいる。
僕も小さく礼をすると、「彼も喜びます」とだけ残して去って行った。
僕が彼は嫌いと言ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
これっぽっちも涙を流せない自分は、酷い人間なのだろうか。
葬儀は滞りなく流れ、別れ花の時間になった。
白い百合の花を渡されて、全員が彼が眠っている棺の周りに立ち並ぶ。
棺に入って眠る彼の顔は、どうしようもなく穏やかだった。死に怯える風でなく、むしろ様々なことから開放されたような顔をしていて。
狡いヤツだ。一人だけこんな狭い世界から逃げようだなんて、狡くて、浅はかで、―――羨ましい。
僕の番が回ってきた。
彼の顔の横に百合の花を挿すと、ポケットを探ってあの銀色の携帯を出そうとスーツを引っ掻き回すけど、出てこない。おかしい、ポケットに入れていたはずなのに。
「おい、詰まってるからどけ」
友人が僕の肩を掴み、何も言わせぬように後ろへどかせられた。僕は目で訴えたが、友人は首を振って「待たせるな」と口パクで怒られてしまった。
しまった、棺に納めるタイミングを逃してしまった。これは彼からの捨てるなと言う暗示だろうか。
死後もなお友人を縛ろうというその精神には、脱帽すると共に軽蔑したくなった。
こちとらお前を一刻も早く忘れたいのだ、ずるずると縋ってる暇は僕には無い。
そんなことを思っているうちにいろいろなことは進み、やがて葬儀はお開きとなった。
帰ろうか、とパイプ椅子から立ち上がったとき。
「あの……」
彼の許婚の女性が、かすれた声で僕に声をかけてきた。
「彼が、死ぬ前に……。貴方にこれを渡してくれ、って」
渡されたのは、白い封筒と銀色の鍵だった。これは……彼の自宅の鍵か。
僕が眉根を寄せて彼女を見ると、彼女はふっと悲しそうに笑って僕の手を握った。
「彼ね、この家だけは、絶対に誰も入れなかったんです。私も、お義父様も、お義母様も、友人の方々も。どうか、きちんと読んであげてください」
僕は曖昧に頷くと、ありがとうと呟いて、黒いスカートを翻し彼女は去っていった。
僕は小さくため息一つ吐いて、その手紙を開けてみた。
『とりあえず家に来い、話はそれからだ』
ただ一言、それだけ。
…阿呆なのか、この男。彼女に死ぬ直前に預けた手紙の内容がこれとは、親御さんも報われないな。
せめて彼女や親御さんに対して何か無いのか、とかいろんなことを思ったけれど、こいつの話に従わないと毎回面倒くさいになることになるのは分かりきっていたので、仕方なく彼の家へ向かうことにした。
がちゃり、とアパートの一室のドアを開けると、彼の匂いがした。
…本当にずっと、此処で一人で生きていたのか…。飽き性でぐうたらの彼だから、もうとっくにこの部屋を売り払うか、世話役を引きずりこんでいるのだと思っていた。
彼は金持ちなのに、何故かこの一室にこだわっているらしい。
玄関で革靴を脱ぎ、家に上がる。
しかし、家に来たのはいいがそれ以降の指示が出ていない。とりあえず散策することにした。
キッチンへ向かう。
食器棚を見れば、全ての食器が赤と青の対で保存されている。どれも綺麗に磨かれていた。
僕は無言で食器棚を閉めて、洗面所へと向かった。
洗面所にも、いたるところに二対のものが置いてあった。歯ブラシ、うがい用コップ、タオル…全てが全て、青と赤の二対で、残っていて。
僕はまた無言で寝室へ向かった。
寝室にも布団が二セット、目覚まし時計も二つ。クッションからなにまで、全て二対で保管されていた。
僕は踵を返してリビングへと移動した。
古ぼけた机とボロボロのソファと、パソコンと扇風機。どれもさほど埃はかぶっておらず、死ぬギリギリまで使用していたことがはっきりと分かった。
机の上には、枯れかけのスターチスの花束と白い封筒が置かれていた。
僕は無言でその手紙を開く。
『この手紙を見ているとき、俺はおそらく死んでいると思う。死にそびれていなければ、だが。
俺は跡継ぎの座を狙う輩共に殺されるくらいなら、自分で死ぬことにした。
お前には色々と迷惑をかけたと思う。
お前はいつも嘘吐きだったし、皮肉ばっかり言ってたし、時々俺のことを冷めた目で見てきたが、それでも俺はお前と一緒に入れて楽しかったし、迷惑だなんてこれっぽっちも思ってなかった。
お前は優しすぎる。そんで、俺は阿呆すぎたんだ。
「君のことが嫌いだ、だからさよならしよう」
無表情でそう言ったお前の声が震えてたことも知ってたし、本当はそんなこと思ってないことも知ってた。
でも俺は分かったって言っちゃって、それなのにお前に友達で居てくれ、なんて言って、最低な男で。
昨日の夜に、飯に毒が入ってた。青酸カリだ。
ぎりぎり大丈夫だったが、助けようとしたのは許婚のあいつだけだった。
今までだって色んなことがあったけど、もう無理だな、って思ったんだ。
だから死ぬことにした。それだけだ。
この手紙は読んだら捨てろ。そんで、俺のことを何もかも全部忘れろ。
一緒に居てくれて有難う、愛してたよ。
追記:ちなみに机の花は俺の気持ちである』
…僕は彼が大嫌いだ。
『おい、俺と友達になってくれね?』
僕は、
『お前の手料理は破壊的だな……。嫁にいけねぇぞ…』
彼が、
『お前といるとやっぱ楽しいわー』
嫌いで、
『なんで泣いてるんだ?可愛い顔がもったいないぞ?』
大嫌いで、
『なに、貰い手居ないのお前。じゃあ俺が貰うわ』
きらいで、キライで、
『好きだよ』
「阿呆かっ……!」
なんで捨ててないんだよ、ペアの物全部!マグカップも歯ブラシも目覚ましも全部全部全部!!
別れようって言ったじゃん、もう終わりにしようっていったじゃんか!
お前が跡を継ぐっていうから、僕の存在は邪魔になるからって死にたい想いしてまで分かれてやったのに、何ずるずる引きずってんだよ!
何で死んだんだよ、何で僕を置いてったんだよ、僕はいつだって独りぼっちじゃないか!
お前が居なかったらお前が見つけてくれなかったら僕はずっと独りで、なのに、なのに。
「こんな気障なことして、さっさと一人で逃げてっ………!」
机の上にあるスターチスの花束を握りつぶして、泣き声を押し殺して地面へ叩きつけた。
半分枯れていた花、スターチスは、振り上げるだけで花びらが舞い、僕がぼろぼろと泣き喚く部屋へと降り注いだ。
「阿呆か、僕だってずっとずっとずっと好きだったよ!」
嫌いだなんて嘘だ。
さよならなんてしたくなかったんだ。
君の隣にずっと居たかったんだ。
死んでほしくなんて、なかったんだ。
「何で死んじゃったんだよ………」
今回だって、「死にそびれちゃったよ」って笑うはずだったんだろう?
「なんで!!!」
僕を置いてかないでくれよ。
「僕だって、ずっと好きだったよ」
世界はいつだって上手く行かない物だ。
残酷すぎて、本当に―――生き辛い。
スターチスの花言葉―【変わらぬ誓い、永久に変わらない心】
こんな駄文を読んでくださりありがとうございました……。
勿体ない病が発病してあげてみたのですが、果たして読んでくださった方はいるのだろうか。