漆喰
意識が遠く、体から離れていくような、心地よくも不思議な浮遊感に包まれている。
自分の意識の輪郭がはっきりせず、今この瞬間の思考は自分が考えていることなのか、はたまたまったく別の人間が考えていることなのか、分からなくなってくる。
ただ、そんな曖昧な思考でも、ここで考えることをやめてしまえば、この”僕”という意識はこの世から消滅してしまうことだけは、はっきり理解できた。
思考を止めることは、イコールで死に繋がっている。
今はまだ、死ねない。
”あの人”に会うまでは。
――あの人って、誰だ?
思考が入り混じる。
――僕は、何者だ?
他人の思考が流れ込んでくる。
――七年前から、僕の意識は明確になって、記憶もそこから始まっている。
――ならその前は? 一体七年前以前の僕は、誰だったんだ?
これは、僕の、意識なのか。
正確に言えば、七年前から”僕”を支配していた僕の意識。
――君は、一体誰なんだ?
僕は、七年前、僕がその身に”漆黒”を定着させる前の、僕という意識。
――僕が生まれる前の”僕”が、君?
そう。君は”漆黒”という新しい因子を定着させた際に発生した意識。分かりやすく言えばもうひとつの”漆黒”の意識だ。
――じゃあ、僕という人間は本来この世に存在することがなかったということ?
言ってしまえば、そうなるね。ただ、もしかしてだの仮にだの、そういった無駄な思考は、今はなしにしよう。
――分かった。
君のほうの意識はすっかり忘れていたらしいが、どうして僕が”漆黒”の因子をその身に宿すことにしたのか、今ここで話しておこう。どちらの意識が消えてなくなってもいいように、僕と”漆黒”の最終目的を君にも話しておく。
――僕と”漆黒”の最終目的は、唯一根源の因子である”漆黒”を完全に消滅できるとされている純潔の因子によって消滅されることじゃないのか。
それは僕の目的ではなく、君の目的であり、亜麻神一族の目的だ。亜麻神一族は唯一制御下に置くことが出来ずにいる”漆黒”を消して、自分達が全ての因子を制御しようとしている。今、因子が任意で人間に定着したり、能力を発現させたり、その姿を顕現させることが出来るのは、その全ての”漆黒”が許可しているからだ。因子っていうのは生まれたときに既にランク付けされているらしいからな。
――僕達がつけた序列ではなくて?
そう。因子達が独自に持つ命令系統といわれているそのランクは、生まれたのが古いほど上とされている。その頂点が”漆黒”であり、”漆黒”が全ての行動を各因子の任意としているんだ。その頂点である”漆黒”が消え、亜麻神一族が管理する因子が頂点に立てば、世界のパワーバランスが崩れ、一気に戦争へと向かうだろう。
――亜麻神のほうの理由は自分達が頂点に立ちたいからだと分かったが、白神の目的が分からない。どうして”漆黒”を消そうとしているんだ?
白神が”漆黒”を消滅させようとしている理由はひとつ。新しい世界”フリージア”の創造に、”漆黒”の核因子が必要なんだ。
――フリージア?
そうだ。
――フリージアって、花のフリージアか?
そこまでは知らない。人の名前かもしれないし計画名かもしれない。もしかしたら君の言うように花の名前からとっているのかもしれない。ただ分かっていることは、その世界で人間は不要だということだ。
――どういうことだ?
世界を作り直し、人間が支配する世界ではなく、因子が統治する世界にする。今まで人間なしではこの世に存在が出来なかった因子が、人という依り代なしで存在が出来るようになる。
――そんなこと。出来るわけないだろ。
君は”世界因子”と言われるものを知っているか?
――なんだ、それ?
それを持てば、あらゆる欲望、願望、祈り願いが叶うとされている代物だ。しかしこの”世界因子”は因子と人間を超越した化物”突然変異種”である完全因子体だけが持つとされている。
――確か”突然変異種”って、今までに三体しか現れたことがなくて、しかもその三体は生まれたと同時に殺されたんだろ。ならその”世界因子”とやらは今現在この世には存在していないはずだろ。
白神一族が、その内の一体の体の欠片を回収している。
――それでも、亜麻神と白神は今回敵対しているはずだろ。
確かに目指す場所は違うかもしれない。けれど、前提条件がどちらも”漆黒”の消滅なら一時的な協力関係にはなるだろうさ。そして”世界因子”を所持しているのが白神だ。僕達が白神を斃せば、亜麻神は容易に”世界因子”が手に入る。僕達が白神に斃されても白神に大打撃を与えることが出来る上に、分家をやられた報復として大々的に攻撃ができる。今の状況は亜麻神にとってこれ以上ないほど望ましいものなんだ。
――でも、因子が人間なしで顕現した状態を保つことが出来るなんて、僕にはとても思えない。
君はその成功例の因子に出会っていて、尚且つ交戦しているはずだ。
――僕が、戦ったことのある因子?
赤の因子。あれを見たとき疑問に思わなかったのか。
――そういえば、あのとき近くには鬼神しかいなかった。他にそれらしい人間もいなかったし、最初は疑問だった。けれどその後色々あって忘れていた。じゃああれは、人間に定着せず、因子のみで顕現してたってことか。
そうだ。けれどあの因子を作るのには膨大な資金と気が遠くなるほどの時間。そして数え切れないほどのオリジナル因子を必要とする。とても量産できるものじゃない。
――それはそうと、どうして白神は世界を作り直したいと思ったんだ?
それは僕も知らない。しかし”フリージア”という名前が、白神の目的に関係していると思っている。
――”フリージア”か。本当に何なんだろうな、それ。それとなんだか段々、声が遠くなってきてるんだが。
君の意識か、あるいは僕の意識が覚醒し始めているのかも知れない。大丈夫、心配いらない。きっと覚醒しているのは君の意識だろう。
――どうしてそう言いきれる。
君のほうが”漆黒”との関係が良好だからだ。今君と僕の意識は”漆黒”の中に逃げ込んでいる状態だ。今”漆黒”と僕達は人間と因子の関係が逆転している状態にある。
――つまり、因子が顕現するときと同様に、僕の意識が”漆黒”から顕現しようとしているってことか?
そう。これでもう君には話すことはない。外へ出て、この戦闘を終わらせてくれ。
――待ってくれ。まだ君と”漆黒”の最終目的を聞いていない。
それはもう理解しているはずだ。今までの話を聞いていて、君が思ったこと、君がやらなければと思ったことが、僕と”漆黒”の最終目的だ。
――でも、僕にそれが出来るのだろうか。
できるさ。いや、やってもらわなければ困る。君が失敗すれば、世界は終りだ。
――出来る限りのことはするよ。
ああ、がんばれよ。
もう誰の声も聞こえない。ゆっくりと辺りが暗くなっていき、やがて僕の意識は、暗闇に塗りつぶされていく。
真っ黒な、暗闇に。
目を開ける。
まぶしいほどの光と、乱立する鏡。
戻ってきた。またここに。
僕は周りを見る。
割れている鏡や綺麗に二つに切れた鏡。強力な打撃を受けて波紋のように割れた鏡と、誰の姿も見えないが確かにこの場で戦闘が行われていることが理解できた。
突然鏡が割れる音が響く。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
音が段々とこちらに近づいてくる。
僕は音がする上方を見上げ、落ちてくる鏡の破片を見つめる。光が反射し、美しい光景を作り出す。
その中から何か黒いものが僕の近くに落ちてくる。土煙が舞い、視界が奪われるが、落ちてきた何かが土煙を吹き飛ばし、姿をあらわす。
「よぉ”漆黒”」
僕は落ちてきたそれに声をかける。
「お前……漆なのか? だったらどうしたその姿」
僕は近くの鏡で自分の姿を見る。
髪の毛が異様に長く、血色の外套を羽織っている。さきほど正面の鏡で見た自分の未来の姿が、今本当に自分の姿になっていた。
「それに、お前の体はもう未恋に奪われたはずじゃ」
「逆転現象。僕と”漆黒”の関係が逆転しているんだよ」
”漆黒”は一瞬だけ理解出来ないような表情を浮かべるが、やがてその顔が歪む。
「お前、まさか……」
「うん。まぁ”僕”はそのことに関して何も言って無かったけれど、多分そういうこと」
「お前はそれでいいのか。もう元には戻れないぞ」
「知ってる。けれど、僕はこの先に、”フリージア”の先に何があるのか見てみたい。例え、もう人間には戻れなくても」
「お前はもう人間でも因子でもない。それは史上最も邪悪な災厄。完全因子体として生きるということだぞ」
「むしろそれのほうが都合がいい」
「けれど――」
「殺し合いの途中にお喋りなんて、流石”漆黒”様。余裕ですね」
僕の後ろには一人の白い少女が立っていた。
「全くもって同感だ」
”漆黒”の後ろ、つまり正面には、殺鬼が大鎌を手で回しながら近づいてくる。
「それで、”漆黒”様。その人は?」
白い少女は僕を指差し、”漆黒”に問いかける。
「こいつは……」
言いよどむ”漆黒”の代わりに、僕は一歩前へ出て名乗る。
「はじめまして。僕は”史上最も邪悪な災厄”であり”完全因子体”の」
僕はこれ以上ないくらいの笑顔で、言い放つ。
「全てを喰らう物、”漆喰”です」




