理由
人殺しに抵抗がなくなったのは、一体いつからだっただろうか。
元々、僕自身が生命そのものに興味が無かったから、それを奪う行為に抵抗が無かった。そういうことを踏まえると僕は、生まれてから一度も人殺しが悪いことという認識が無いのかも知れない。
だが、死そのものに抵抗が無いのかと言われれば、決してそういうわけではない。
例えば僕の目の前で、姉である愛美が殺されたら、殺人という過程に抵抗が無くとも、死体という結果の産物にはありとあらゆる負の感情が溢れだしてくるだろう。それは僕を狂わせるには十分すぎる。狂気に身を委ねて破壊の限りを尽くす人間兵器になるのは自明だ。
だからこそ、今がどれだけ危うい均衡の上に成り立っているのか、理解していないわけではない。
前回の戦闘では、僕が参加することはほとんど無かったから良かったものの、本格的に戦闘するとなったときに僕は理性を保っていられるのだろうか。また昔のようになってしまうのではないか。そんな思いがずっと胸の奥に留まって、僕を落ち着かせてくれない。
僕が今こうして理性で本能を押さえ込み、普通の暮らしが出来ているのは亜麻咲という家のおかげであり、亜麻咲家の姉妹のおかげである。
感謝しているし、当然信頼も尊敬もしている。
この姉妹のためになら、僕は再び”あの時”の自分に戻ってもいいと思ってる。思ってるけれど。
けれどこの仕打ちはちょっと納得できない。いやちょっとどころではない、すごく納得できない。
「漆君。今納得できないって思ってる? 思ってるよね絶対に。けれどね漆君。お姉ちゃんは今すごく怒ってます。それはもう怒りで頭が沸騰しちゃうくらい。だってそうでしょ。ねぇ、漆君。昨日私たちは漆君が二階から降りてくるのをどれだけ緊張して待っていたか分かる? 一時間よ。一時間も緊張しながら待っていたの。もう心臓に穴が開くかと思ったわ。それで、もう一度部屋を覗いたら寝てるんだもの。それは怒られても仕方がないよね。だからこの仕打ちも仕方がないよね」
人に土下座をさせた上、後頭部を踏みつける行為が、仕方ないで済まされるレベルでいいのだろうか。
「それでね。昨日のことなんだけれど」
どうやらこのまま話を進めるらしい。いや、話を進めるのはいいとしても、徐々に踏みつける力を強くしないで貰いたい。
「やっぱり私たちは賛成できないわ」
そうなるだろうとは予想していたが、けれどこうなったらもう僕には打つ手がない。大体、僕の提案した策自体がもう既に最終手段だから、これ以外となると慰め程度の成果しか得られないだろう。それだったらまだ神に祈るほうがいくらか成果が出る。
「だってそうでしょ? 鬼神一族の前身と言われているあの化物の中の化物しかいない一族の人間に教えを乞おうなんて、正に自殺行為だわ」
「けれど、もうそれしかない。この戦いが始まった時点で頼れる人間はほとんど残されていなかった。本家のほうに助力を乞えば一族間での大規模な抗争になるし、かといって僕達だけで解決できる事態ではない。使えるものは何だって使わなければ勝てないんだよ。たとえそれが、悪魔だったとしても」
本家を頼るわけにはいかない。しかし僕達だけでは手に負えない。そして最悪なことに鬼神一族も相手側である。
「それとひとつ疑問」
さっきまで黙々と朝食を食べていた唯香が、覇気のない声で会話に入ってくる。
「お兄ちゃんは何で戦おうとしてるの?」
質問の意味が理解出来なかった。
「誰だってそう思うでしょ。だってお兄ちゃんが戦う理由なんて、そもそもほとんど無いんだから。相手側はお兄ちゃんを連れ去ろうとしたらしいけれど、常に私かお姉ちゃんが側にいる今現在では、連れ去るなんて不可能に近いでしょ」
そういえばそうだ。
僕が殺と行動していたのは、殺鬼さんへの恐怖があったからだ。それがなければ鬼神の人間なんかと一緒に行動なんてしない。今の僕には、ひとつも戦う理由が無い。
「で、お兄ちゃんはどうして戦うの?」
すぐには答えられなかった。
僕に戦う理由はない。
けれど、僕はどうしてかそこに行かなければ行けない気がしている。何かに呼ばれているような。誰かに助けを求められているような。でも、そんな曖昧で不確かなものが理由だと言ったら、きっとこの姉妹は止めるだろう。
「僕は――」
「戦う理由なら、作ってあげるよ」
突然どこからか声がして、愛海が僕の頭から足をどけた。ゆっくりと頭を上げると愛海は自らの意思で足をどけたのではなく、後ろに吹き飛ばされていたのだ。唯香も朝食の乗った平皿を片手に臨戦態勢に入っている。
「やぁ、漆君。久しぶりだね。元気にしてた? 私は相変わらず毎日がつまらないよ。それで、君はいつから理由だとか意味だとかそんな余計なものが無ければ戦うことの出来ないクズになったんだい」
玄関からリビングまでにある壁や調度品が完膚なきまでに破壊されていて、廊下とリビングを隔てていた壁の向こうには”恐怖”そのものが立っていた。
全身が総毛立つ。悪寒が止まらず、真夏なのに震えが止まらない。心拍数が異常なほど上がっているのが分かる。
鬼神殺鬼。歴代最高の統率力と戦闘センスを持つ、殺しの専門家。
「けれど、それが無ければ戦わないと言うのであれば、私はそれを作ってあげよう」
徹底的に無表情で無感情な殺鬼が、唯一微笑を浮かべるときがある。
それが今、一方的な暴力を行使できる時だ。
殺鬼は先ほど吹き飛ばされて意識が飛んでいる愛海のほうへ歩み寄り、胸倉を掴む。
「さて、こいつがちょうどいいかな」
殺鬼は愛海を品定めするように見てから、肩で担ぐ。
「今ここで君を連れ去ることも出来るが、それでは面白くない。かといってあの”純潔”の正統後継者である妹は危険すぎる。消去法でこの姉を連れ去ることにするよ」
そう言い残すと、殺鬼は来た道を戻っていく。
「……あれってもしかして」
「お前は初めて見るんだったな。あれが鬼神一族現頭領の鬼神殺鬼だ」
「動けなかった」
「当たり前だ。あの人の前で普段通り振舞える人間なんて片手に数えるくらいだよ」
僕は土下座の体制から起き上がり、辺りを見渡す。ものの一分もいなかったにも関わらず、この有様。流石は鬼神の頂点と言うしかない。
「それよりどうしよう。お姉ちゃんが連れ去られちゃったよ!」
事態を徐々に把握してきたのか、唯香は慌てふためき混乱している。けれど僕は冷静に答える。
「それについては問題ないだろう」
「どうして?」
「僕を誘い出すためのものを、ぞんざいには扱わないさ」
「普通ならね」
「……」
そうだった。相手は白神一族と鬼神一族だ。異端と化物に人間の常識が通じる道理は無い。そう考えると誘拐し、僕が助け出すまでに愛美が無事という保障はどこにも無い。誘拐したという事実があれば、愛海は不要になる。つまり、即刻殺されてしまうかもしれない。
「行こうお兄ちゃん」
唯香は真剣な眼差しでこちらを見ている。
その目は、燃えるようにキラキラと輝いていた。
”純潔”の正統後継者。亜麻咲唯香。
そして、序列五十四位である紅蓮の因子の持ち主。
こと正式戦において無敗の成績を誇る彼女が、この戦いに参加するとなれば、もしかしたら。
僕は、一度だけ大きく息を吸う。
覚悟ならとっくに出来てる。もうこうなったら僕がどうなろうが構わない。
静かに、だが決意を込めて言う。
「行こう。たとえそこが地獄だろうと」




