第一話 『いつか終わる平穏』
後悔の過去が過ぎ、永遠の今を過ごす。
やがて来る絶望の未来に恐怖しながら。
太陽の光に包まれながら、僕は目を覚ます。
どちらかと言えば夜のほうが好きだが、朝の空気もそれなりに好きなので、朝起きるのが憂鬱だったことは幸いにも思ったことがない。
七月二十二日。
夏休みが始まってから二週間が経つし、そろそろ夏休みの課題に取り組まないと間に合わない。今日から少しずつ消化していこう。けれどこんな朝早くから机に向かう気力があるほど僕は勉強が好きなわけではないので、とりあえずは朝食を作ることにする。
ぼさぼさの髪の毛を整えてからダイニングに入ると、先客がいた。
寝起きのままであろう寝癖満載の長い黒髪に、無駄のないスリムな体に不釣合いな大きさの胸部。見違えるわけがない、僕の姉の愛海だ。食べ物を探しているのか、さっきから冷蔵庫を開けたり閉めたりしている。そんなことしても中身は変わらないのに。
「おっ? およよ? そこにいるのは我が弟の漆君ではないですか~」
僕のほうを一度も見ずにそう言うと、姉は冷蔵庫の開け閉めを止めてこちらに振り返る。緩みきった顔が何とも言えない。普通に笑えば可愛いとは思うのだが、常にこの緩んだ顔なので、色々と損をしていそうだ。
「ゆいちゃんの場合は、私を見つけると必ず抱きついてくるから分かるのだ」
そんなこと聞いてない。
「それはそうとして、漆君。早く私の朝ごはんを作っておくれ」
僕は返事をするのも面倒だったので、無言のままキッチンへ向かう。
冷蔵庫には食材が沢山あった。けれどどれも調理をしないと食べられない物ばかりで、姉が冷蔵庫を開け閉めしていた理由が分かった気がした。
「姉さん。冷蔵庫は調理器具じゃないから。開けたり閉めたりしたら料理が完成してるとかないから」
「えっ!? そうなの!? お姉ちゃん初耳!」
昨日も言った気がするけれど。
まあそれはいいとして。
「姉さん、もう少し離れてくれないと危なくて料理ができないんだけれど」
後ろから抱きついてくる姉のせいで、さっきから身動きが取れない。重いし暑いし鼻息が首筋にかかってくすぐったいし、ここは地獄か。
「お姉ちゃんはこのくらいの距離が一番好きだけどな~」
あなたの好き嫌いは訊いてない。
このままだと永遠に料理ができそうにないので、姉の長い黒髪を思いっきり左右に引っ張る。
「痛ーい!! お姉ちゃん、女の子の髪の毛をぞんざいに扱う子は嫌いです!」
ようやく僕から離れた姉は、自分の髪の毛を手櫛で整えながらリビングのソファに腰を下ろす。一方僕はさっきまで抱きつかれていたせいか、少し汗をかいてしまった。シャワー浴びたい。
「あと三十分で朝ごはん作ってくれないと、お姉ちゃん許してあげないからね!」
怒った顔が全然怖くないって、逆に怖いな。
とりあえず、邪魔なものはなくなったし、そろそろ朝食を作ろう。僕もお腹がすいた。
「あ、あとお弁当も作ってね」
僕はいつものように返事をしなかった。
「念のためにもう一回言うよ? 私とお姉ちゃんって活動時間とか活動範囲とかが全く違うから半月近く顔を見てないとかあるんだよ? だからせめて私がお休みの日はお姉ちゃんの活動時間に合わせてあげて少しでも多くお話したいなって思ってるの。だから早く起きたんだったら起こしてくれてもいいんじゃないのかなって、私は言ってるの。それにどうせ二人分の朝ごはん作るならもう一人分増えても労力は変わらないでしょ。わざわざ二人分作った後、一人分作るのとか面倒だしまとめて作ったほうがいいじゃん。しかもお姉ちゃんに抱きつかれるとかなんて羨ましいことされてるのよ。私もお姉ちゃんに抱きつきたかったし抱きつかれたかった。ねえ、聞いてる? そんなんだからお兄ちゃんは女の子にモテないんだよ分かってる? とりあえず早く私の分の朝ごはん作って。お姉ちゃんに作ったのと全く同じものじゃないと食べないから受け付けないから。あと明日はちゃんと起こしてね」
姉と全く同じ体勢で抱きつきながら、僕の妹の唯香はまくし立てる。
すごく色々言われた気がするが、早口すぎて何言ってるかほとんど分からなかった。
「今から作ってやるから離れろ。それにモテない云々は余計なお世話だ」
僕がモテないのは半分お前らのせいだろうが。
「十分で作ってね。私これから出掛けるから」
なんと無茶なことを言うんだ、この妹は。しかも準備もろくにしていないように見えるが、そのまま行くんじゃないだろうな。とりあえず注意はしておこう。
「出掛けるんだったら顔洗って髪の毛整えて、それから服を着ろ」
そのまま外に出たら警察にお世話になってしまう。警察に用事があるのなら行く手間が省けるが、聴取という大変めんどくさいものも付いてくるからおすすめできない。
「言われなくても今から準備するし。それにこのランジェリーは見せてもいいやつだから別に恥ずかしくないし」
そう言ってダイニングから出て行く。
それにしても、僕の妹はうさぎさんがプリントされているランジェリーを見られても恥ずかしくないのか。いや、それ以前に見られて恥ずかしくないランジェリーが存在する時点で意味が分からない。普通女性はランジェリーを見られたら恥ずかしがるだろう。
今はそんなことどうでもいい。
僕は姉に作ってあげた朝食を思い出しながら、再び冷蔵庫を開ける。
ふと、僕は自分の掌を見つめる。
見た目には人のそれと変わりはない。が、僕の手はもう既に人間の手ではない。
僕のこの左腕は”漆黒”に犯されている。
きっと、すぐに体の主導権も奪われてしまう。
僕の今の意識が消えてなくなってしまうその前に”純潔”を完全な形で妹に継いでもらわなければならない。
僕の中にある”漆黒”を、僕ごと殺してもらうために。